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潮が厨房に引っ込んで片づけものをしている間に、羽美香が客のコップに水を足しながら声をかけた。
「今日はお仕事ですか」
「ええ、出張だったんですけど」と、自分の服装に目をやって首をすくめる。「午前中で用件が済んでしまって、でも帰りの便が夕方だから、時間が空いたので来てみたんです」
それを聞いて再び厨房に戻った羽美香が白ワインの瓶とグラスを二つ持って戻ってきた。
「この後、車の運転は?」
「いえ、免許持ってないんで」
「じゃあ、こちらはお店からのサービスです」
「え、いいんですか?」
「だって、もうお仕事ないんでしょ」
「はい」
「それに」と、羽美香がウィンクする。「私もご一緒させてもらいますから」
潮が厨房から顔を出す。
「ちょっと、あんた、お客さんにかえってご迷惑でしょ」
「そんなことないですよね」と、手際よくグラスに白ワインを注いで差し出す。
「ええ、いただきます」
「じゃ、乾杯!」
客がグラスを合わせながら厨房に視線を向けた。
「あの、お姉さんは」
「おねえは大丈夫。下戸だから」
「そうなんですか」
「そうそう、遠慮しなくて大丈夫」と、早くも羽美香は二杯目を注ぐ。
「ペース速いですね」
「そ?」
羽美香が上機嫌に微笑みを向けると、客は頬を赤らめながらうつむいた。
「え、どうしたの?」
「行ったことはないんですけど、なんか、ホストクラブってこういう感じなのかなって」
「やだあ、もう、誰がホストよ」
はしゃぎ声にかぶせるように、すかさず厨房から厳しい言葉が飛んでくる。
「ちょっと、あんた、もう酔っ払ってるの?」
「そんなわけないって。冗談よ、冗談。お客さんに合わせただけだってば」
怒られて羽美香が肩をすくめると、客も申し訳なさそうに背を丸め、しばらくの間、頬を赤く染めながらワインを味わっていた。
窓に強く打ちつける雨を見上げる羽美香の横顔に向かって客が名乗った。
「あのう、私、凪沙って言います」
「私は羽美香、あっちは潮おねえ。さっき騒いでたのが茉里乃」
雑な自己紹介で会話が再開する。
「仕事以外で人と話したの久しぶりなんです」
「ふうん、忙しいの?」
「あ、まあ、それもあるんですけど、昔っから友達がいないんですよ」
「へえ、一人暮らし?」
「いえ、実家暮らしですけど、両親とも教師で、まだ働いているからあまり顔を合わせることがなくって」
会話を切り出してみたものの、ためらっているようなそぶりを見せながら凪沙はチーズが揺れなくなった丸い料理を思い出したように口に入れた。
「どんな悩み?」
「えっ!?」
核心を突いた質問に、口に手を当て慌てて飲み込み、むせそうになって水のコップに手を伸ばす。
「あ、ごめんなさいね。びっくりしちゃった?」
「ええ、どうして悩んでるって分かったんですか?」
「ここは肩こりみたいに心が凝っている人がたどり着く場所だから」と、羽美香が柔らかな笑みを向ける。「だから《島のカフェ こころのこり》っていうの」
「あ、そういう意味だったんですか」
「潮おねえの駄洒落だけどね」
「はあ、駄洒落ですか。でもいい駄洒落ですね」
評論家の意見に対し、羽美香がうふふと抑え気味に笑い出す。
「え、どうかしましたか」
「真面目なんだなって思って」
「ああ、ええ……」と、うつむいた凪沙は口を結んで視線をさまよわせ始めた。
言いたいことをどう切り出したらいいのか迷っているのか、何度か口を開きかけては言葉を飲み込み、肩を落としてため息をつく。
グラスに入ったワインを揺らしながら羽美香はそんな様子を黙って眺めていた。
しばらくして、顔を上げた凪沙がまっすぐに羽美香を見つめた。
「私、今働いている会社を辞めようかと悩んでいるんです」
「仕事が合わないの?」
「いえ、ずっと目指していた仕事ですし、名前の知られた会社なんですけど、なんかこれでいいのかなって思って」
「これでいいっていうのは、たとえば何が?」
「実は、それがよく分からないんですよ」
凪沙はいったん首をかしげつつも、話を切り出せたことで気分が楽になったらしく、前のめりになって会話を続けた。
「大学を出て就職して、仕事も順調なのに、なぜか急に不安というか、立ち止まりたくなったというか、なんか疲れてるのかなとか、ものすごく漠然としてるんですけど、急に仕事を辞めたくなっちゃったんですよ」
「会社の人には相談したの?」
「いえ、まわりはみんなやる気のある人ばかりなんで、そういう相談できる人がいなくて」
頬を引きつらせながら自虐的な笑みを浮かべて凪沙がつぶやいた。
「とにかく私、友達がいないんですよ」
「辞めちゃえば」と、羽美香はぶっきらぼうに答えた。
「でも」と、ためらいがちに凪沙は続ける。「次の仕事だって簡単には見つからないだろうし、今よりいいところとは限らないじゃないですか。だから、なんか疲れちゃったからとか、そんな理由で辞めたらいけないのかなってずっと悩んでたんですよ」
なるほどねえ、とつぶやいてから羽美香は自分のグラスにワインをつぎ足した。
「子供の頃にダラダラしたことないでしょ」
「ああ、はい」と、核心を突かれたように凪沙は背筋を正した。「つねに何かしてないと親に怒られてたかも」
「ゲームとかはやらせてもらえなかった」
「そうですね。両親が教師だったせいもあって、勉強とか読書とか、なんていうか役に立つことだけをやらされてましたね。夕方の時間帯はスイミングとか英会話とか、毎日習いごとがありましたし。テレビはニュースとかドキュメンタリーみたいな番組しか見せてもらえなかったから、アニメの話題とかも入っていけなくて」
「漫画は?」
「漫画も家にはなくて、クラスの人が貸してくれたのを学校の休み時間に読んでました」
「友達いるじゃない」
「ああ、でも、打ち解けた感じじゃなくて、ただ同じ場所にいる仲間っていうだけの関係ですね。今の会社の同僚もそんな感じです。話したり一緒に食事に行ったりはするんですけど、表面的な会話しかしないみたいな。だから、同級生とは卒業してからは一度も会ってないですし、会社の人とも休日にプライベートで会うこともないんですよ」
「ふうん、そうなんだ」
「遊ぶって習慣がないから、私、趣味もないんです」
「読書してるんでしょ?」
「うーん」と、凪沙は首をひねる。「趣味って言えるんですかね。勉強とか仕事の延長みたいな気がして」
羽美香がテーブルに両手を置いてたずねた。
「学生の時に、授業中に隠れて本を読んだことはないでしょ」
「しませんよ、さすがに」
「読みたい人は、どんなときでもどんなところでも読むのよ。授業中なんて、一番読書がはかどるじゃない」
「そんなことないですよ。いつ見つかるかって、気が気じゃなくて、中身が頭に入ってこないじゃないですか」
「他にやることがない時よりも、やらなきゃいけないことが山積みの時の方が読みたくなるのよ」
「試験勉強している時に、つい掃除しちゃうのと同じですか」
「サボってるだけなんだけどね」と、グラスのステムをつまんだ羽美香がくるりとワインを揺らす。「だけど、趣味ってそういうものだよね。役に立つこととは対極にある暇つぶし」
「ああ」と、凪沙は唇をとがらせながら、バネを弾いたように小刻みにうなずいた。
羽美香が丸い料理が並んだ皿を指した。
「おしゃべりばかりしてると、冷めちゃうよね」
「実は私猫舌なんで、このくらいでちょうどいいです」
「あらま、そうなの。じゃあ、熱くて大変だったでしょ」
「でも、たこ焼きは熱々を食べないともったいないですよね。やっぱりちょっと真面目すぎますかね」
シーッと、唇に人差し指を立てて厨房を伺う。
「たこ焼きじゃないから。『野菜とのハーモニーを楽しむボローニャ風一口キッシュ』です」
「そうでした。うふふ」
パクリとまるごと頬張った凪沙の笑顔は柔らかい。
二人の内緒話を聞きつけたかのように、厨房から潮が早めのデザートを運んできた。
断面が緑やオレンジのマーブル模様になったスポンジケーキにこんもりとホイップクリームが添えられている。
「島野菜のシフォンケーキです」
「へえ、野菜のケーキですか」
「おねえ、いつの間にそんなの作ってたの?」
「午前中、あんたが寝てる間よ」と、ぎょろりとした目でわざとらしく顔を近づける。「藪から蛇をつつき出したついでに、あんたの分も持ってきてあげるわよ」
「わあ、おねえ、ありがとう」と、大根役者のように手を合わせて羽美香が声を張る。「コーヒーはカプチーノがいいな」
「お客さんが先でしょうよ」と、潮は凪沙に笑顔を向ける。「コーヒーは何にしますか?」
「じゃあ私もカプチーノで」
「かしこまりました」と、潮は皿を下げて厨房に戻った。
凪沙は早速シフォンケーキをフォークで切り分けると、ホイップクリームにディップしてパクッと口に入れた。
「ハーブの香りが優しい。野菜は人参……じゃなくてパプリカかな」
作っているところを見ていなかった羽美香は返事を保留して首をかしげていた。
唇の端についたクリームをペロリとなめながら凪沙がたずねる。
「趣味って、どうやって見つけたらいいんでしょうか」
「好きなことをやればいいんじゃないの?」
「それが分からないんですよ。思えば、今まで、誰かにやらされてたことばかりだったのかも。親に言われて勉強して、いい大学に入って、有名な会社に入って、やりたかった仕事をして、他人から見たらうらやましがられることかもしれないけど、全部、そうやって誰かに認めてもらうためにやっていただけなのかも」
「それができるだけでも偉いんだけどね。でも、気づいちゃうとつまらないかもね」
「そうなんですよ。贅沢で自慢してるみたいな悩みだから、人に相談しにくくて」
「こういう、まったく関係ない土地の知らない人間の方が吐き出しやすいのかもね」
「ええ、偶然このお店を見つけられて良かったです」
「じゃあ、偶然の出会いに乾杯」
掲げたグラスの向こうでウィンクする羽美香に頬を赤らめながら、凪沙も残っていたワインを飲み干した。
「やっぱり、あんた、ホストなのかもね」と、潮がコーヒーを運んできた。
「何よ、このお店のナンバーワンって言いたいの?」
「酒飲みはあんた一人しかいないでしょうよ」
「じゃあ、オンリーワン?」
「うちは場末のクラブじゃないの」と、羽美香に渋い目を向けながら凪沙の前にカプチーノを置く。
「いただきます」と、二人のやりとりに笑いをこらえながら凪沙がカップに口をつける。
「猫舌だったら、少し冷ましてからの方がいいかも」
気づかいを見せる羽美香の前にもカプチーノを置き、「そういうところよ」と、自分もコーヒーを置いて潮が隣のテーブルの椅子に腰掛けた。
体をひねって羽美香が姉にたずねる。
「ねえ、おねえ、趣味ってどうやって見つけるの?」
「あんたみたいに毎日飲んでばかりいれば趣味なんかいらないでしょ」
「そういうんじゃなくてさ」と、口をとがらせながら羽美香はテーブルに肘をついて顎を支えた。「おねえはパッチワークが趣味じゃん」
「あれは仕事」
「なんでよ」
「あんたが使うから作ってるんでしょうよ」
「ああ、まあね」と、鼻の頭をかいて黙り込む。
「趣味なんて、好きなこと、やりたいことを勝手にやればいいのよ」
「でも、それが一番難しいですよ」と、凪沙が肩をすぼめてつぶやく。「何が好きなのかすら分からないから悩んでるわけですから」
「まあね」と、潮は体の向きを変えた。「自分の好きなものって、案外自分じゃ分からなかったりするのよね」
「じゃあ、もう、一生分からないじゃないですか」
「他人の方が意外と見えたりするのよ。『あなた、ふだん、よくあれやってるよね』とかって」
「そういうものですかね」
「自分では当たり前すぎて何の困難もなくやっていることが、他人からすればすごいことに見えたり」
「ああ、たしかに」と、指を合わせるように手をたたく。「毎日会社まで歩いてくる同僚がいるんですよ。片道一時間半かかるらしいんですけど、残業の時も歩いて帰るんですよ。ただ歩くだけなんだけど、やっぱりそれが好きなんでしょうね」
「ただ単に誰とでも打ち解けられるとか、初対面の人と会話ができるっていうだけでも、それが苦手な人から見たらうらやましい特技に見えるでしょうし」
「ああ、そうなんですかね」
「あなた、気づいてないでしょ」
「え、何がですか?」
「今の、あなたのことよ」
「え、私ですか?」
「ほら、全然でしょ。そういうところよ」
「でも私、友達いませんけど」
「友達って、曖昧なものじゃない?」と、潮が一口コーヒーをすする。「自分は友達だと思っていたのに、相手はそう思ってなかったり、逆に、自分はただの同僚だと思っていたら相手は友達だと思ってくれていて、旅行とか結婚式の招待とかを断ったらガッカリされたとか」
「あ、ああ……」と、凪沙が顔を伏せて黙り込む。
思い当たることがあるのか、そのまましばらく顔を上げることなくぎゅっと拳を握りしめていた。
カプチーノを一息で飲み干した羽美香が泡をなめながらカップを置く。
「誰とも打ち解けられない人から見たら、嫉妬するくらい陽気な人に見られてるかもね」
「それは羽美香さんも、ですよね」と、ようやく顔を上げる。
「かもね」と、ぎこちない笑みを浮かべてため息をつく。「タコの生まれ変わりなのかも」
「え?」
窓に打ちつける雨を見上げる羽美香の表情は、深海に沈んだように愁いに満ちていた。
「思えば、私は自分のことを考えないように仕向けられていたのかもしれませんね。あれをしろ、これをできるようになれと、いろんなことを押しつけられていたのかも」
凪沙のつぶやきに潮がうなずいた。
「ご両親も仕事一筋で趣味がなかったんじゃない?」
「ええ、そうなんですよ」
「でも、それもその人の生き方だから、正解とか間違いとか、他人が判定することじゃないかもね。こうであるべきだって考えが先に出てきちゃって、そもそも他の生き方があるって事にすら気がつかないだけかもしれないし」
「ああ、なるほど」
凪沙の目に涙が浮かんでいる。
羽美香がミュージカルのように大げさに手を広げた。
「その点、おねえは、私がお酒飲んでても許してくれるよね」
「止めても、あんたが勝手に飲んじゃうんでしょうよ」
「はいはい。ごちそうさまでした」
空になったボトルとグラスを集めて立ち上がると、羽美香は厨房に下がった。
その後ろ姿を見送りながら、凪沙はちょうどいい具合に冷めたカプチーノをじっくりと味わっていた。