吾輩は猫ではない。

 断じて猫などではない。

 名前はポムである。

 かわいらしい名前だと思われるかもしれないが吾輩は気に入ってはおらん。

 生まれたばかりでニャーニャー泣いているような子猫ならそんな名前も似合うだろうが、うまいものばかり食って丸々と太った今の姿では、坂道を転がるボールかと笑われておるようで、呼ばれるたびにぶるると身震いが止まらない。

 そんな姿を見て蚤でも取ってるのかと思われるのもしゃくだから、名前を呼ばれても返事などしてやらぬ。

「おはよう、ポム」

 ロングヘアをなびかせながら玄関から出てきた細身の女子高生がしゃがんで吾輩を撫でる。

 断じて返事などしてやらぬのにあいつが撫でてくるからつい喉を鳴らすと、にんまりと笑みを浮かべて吾輩の名前を連呼するのは勘弁してもらいたい。

「おい、ポム、ポームってば」

 何度呼ばれても返事などしてやらぬ。

茉梨乃(まりの)、乗って」と、目の前に窓全開の軽トラが止まる。

 運転席にいるのはお団子頭のアラサー女子だ。

「はあい、お姉ちゃん」と、あいつが吾輩を放り出す。

 ――おいおい。

 上着の背中がスカートに挟まっておるぞ。

 まったく、慌て者め。

 教えてやっておるのに、やつらは吾輩が猫なで声で引き留めておると勘違いしよって、軽トラの窓から手を振りやがる。

「ポーム、行ってきまーす」

「急ぐよ。シートベルト」

「はいはい」

 あいつめ、また寝坊かよ。

 次のフェリーを逃したら遅刻確定だろうに。

 咳き込む老人のように揺れながら軽トラが坂を上っていく。

 それを見送りながら、吾輩がフニャーゴとあくびをすれば、ほんの一瞬、時が止まる。

 時は止まっていても、波は打ち寄せ、吹き抜けるそよ風に庭先のオリーブの葉がさわさわと淡い影を揺らす。

 見た目に何の変化もないから誰も気づかないだけで、これでもちゃんと時の流れは止まっておるのだ。

 同じ風景を繰り返し再生して、分からぬように時間を稼ぐ魔法というわけだが、軽トラだけは風景から切り抜かれたかのようにちゃんと前に進んでおる。

 偉大な吾輩のおかげで、あいつもフェリーに間に合うだろう。

 なにしろ吾輩は猫ではない。

 猫又なのだからな。

 かの徒然草にも「猫又よや、猫又よや」と記されていることくらい知っておるだろう。

 何を隠そうあれは吾輩の事だ。

 もっともあれが、帰宅した主人に抱きついた飼い犬だったという笑い話になっておるせいで、猫又の存在など誰も信じようとはせぬのが困る。

 何百年も前からおるのだから、本物の猫又で間違いないというのに、愚かな人間どもは吾輩のことを茶トラの太った猫だと思い込んでいやがる。

 そんな間抜けどもに吾輩の偉大さを思い知らせようと、真夜中に島を徘徊して脅かすこともある。

 昨夜も暗がりから飛び出して喉を鳴らしたら、酒に酔った漁師が月明かりに引き延ばされた吾輩の影におびえて「猫又だ!」と騒ぎよったから、少しは面目が立ったというものだ。

 まったく、人間とは昔から変わらぬくだらんやつらだ。

 ――さてと。

 軽トラの去っていった坂を上り、棘の生えたミカンの木が並ぶ農園をすりぬけて丘の向こうへ出る。

 人間はこんな小さな島ですらわざわざ曲がりくねった坂道をたどらないとどこへも行けないが、吾輩は最短距離を突っ切って一瞬でたどりつける。

 太りすぎでも身は軽い。

 なにしろ吾輩は猫又なのだからな。

 坂の下の港からフォンと汽笛が鳴り、対岸の本土へ向かって小さなフェリーが動き出した。

 牧童のようにチョココロネをくわえながらデッキの手すりにもたれかかったあいつの姿が見える。

 上着はちゃんと直したらしい。

 結構、結構。

 今朝も無事に間に合ったようで何よりだ。

 吾輩はどんなに遠くのものでもはっきり見通せる。

 何度でも言うが、猫又だからな。

 断じて猫などというつまらぬ存在ではないのだ。

 こうして吾輩が恩恵を授けておるというのに、あいつらはまるで気づかない。

 だが、それでいい。

 人間ごときに感謝されたところで吾輩の偉大さは増えも減りもせぬ。

 港で一番大きな製氷工場の陰から軽トラが姿を現し、うなりながら坂を上がって戻ってくる。

 荷台には魚の入った箱が積まれている。

 ――ふん。

 今日はブイヤベースか。

 軽トラが帰ってくる前に丘の向こう側に戻っておくとするか。

 心配で確かめに行ったなんて知られたら、どんな目で見られるか、想像するだけでも震えが止まらない。

 吾輩のねぐらは海を見下ろすつづら折りの坂の途中にある。

 白い壁にオリーブの葉陰が揺れる四角い建物はあいつらの家でもあり、カフェとかいうものでもある。

 海に面した壁が少しだけ引っ込んで、屋根の下に小さな中庭がある。

 真鍮製の丸テーブルを囲んで木製の椅子が三つ並んでいる。

 テーブルの上には空っぽの葡萄酒瓶が転がっていて、椅子には膝掛けを肩まですっぽりかぶった女が口を開けて眠っている。

 カナブンでも放り込んでやろうかとテーブルの上に乗ったところで、自分のいびきで目が覚めたらしい。

「なんだ、ポムか」

 なんだとはなんだ。

 鋭い爪で手を引っかいてやろうとしたら、両腕を空に突き上げて吾輩も驚くほど背を反らす。

「ふわあ。いつの間に寝ちゃったんだろ。ポム、知ってる?」

 知るか、そんなこと。

 興味もないわ。

 テーブルの上でそっぽを向くと、勝手に吾輩の尻尾に触りやがる。

「あんたは自由でいいね」

 酒を飲んで寝落ちするようなやつに言われたくはないが、実際吾輩は自由なので間違ってはおらぬ。

 ちょっとだけ尻尾を跳ねさせてやると、ご機嫌と勘違いしたのか、指を振り振り絡めてくる。

 吾輩の尻尾はおまえをもてなす猫じゃらしではないぞ。

 表で軽トラのブレーキがきしんだ。

「ちょっと、羽美香(うみか)、起きてる?」

「なによ、(うしお)おねえ」

「あ、起きてた。港で魚もらったから、仕込みの手伝いしてよ」

「あいよ」

 ボサボサ髪を手でかき混ぜながら酒臭い女が立ち上がる。

 吾輩はテーブルから動かない。

 へたについていって、おこぼれを狙っているなどと勘違いされてはかなわない。

 なにしろ吾輩は偉大な猫又なのだ。

 海を眺めながら尻尾を振っていたら、葡萄酒の瓶が転がって芝生の上に落ちた。

 やれやれ、吾輩のせいにされてはつまらぬ。

 ごちそうができあがるまで、屋根の上で毛繕いでもしておくとするか。