「ゆっくりでええからな」
翼の声を聞きながら、鍋に熱湯を注ぐ。最初は激しい音を出していたけれど次第に音も落ち着き、ほっと安堵の息を漏らした。
「ええやん! 海未、天才パティシエや!」
「さっきスルーしたのに今言うの⁉」
ツッコミつつも気を良くした私は、誘導されるがままにカラメルの入った鍋を火からおろして混ぜた。
「粗熱が取れたらバケツに流し入れるみたいやな。ちょっと放置して次はプリンの黄色いところ作っていくで」
「疲れたよー。ちょっと休憩しようよー!」
「どうせこっちも粗熱を取る時間があるから、もう少し頑張ろ。な?」
……同い年なのに、私のほうが社会人経験もあるっていうのに、翼のほうがよっぽど大人っぽいのはどうしてだろう。
「次は何をすればいいの?」
「ボウルに卵を入れて、溶きほぐすんや。……ほら、海未。頼むで」
「また私? 卵割るのすら自信ないのに?」
「大丈夫や。ムカつく店長の顔を思い出しながらやってみ」
「……卵、粉々にしちゃうけどいい?」
ダイニングテーブルが悲惨なことになりそうだ。
「ほどほどに頼むで」
「っていうか、卵七個も使うとか贅沢じゃない?」
「そんなん言うたら、牛乳は1500 CC も使うで」
「1500 CCってどれぐらい?」
「小学生の問題やん! 1L500mmや。牛乳1本半ってこと」
「めちゃくちゃ太るじゃん!」
「バケツプリンやからな」
ついさっきも同様のやり取りをしたばかりだ。翼と顔を見合わせてゲラゲラ笑った。
「そんじゃ、卵を割っていきますか。……うりゃ!」
パカーンという感じではなくカシャリといった感じで、不格好に割れた殻から中身が飛び出してボウルの中に落ちた。
「よ! 卵割り名人! 鶏に目の敵にされそうな人間ナンバーワン!」
「意味不明な茶々入れる暇あったら卵割るの手伝ってよ~! あと六個もあるんだから~」
緊張で肩が凝って仕方がないんですけど。
「嫌や。ウチ卵アレルギーやから触られへんし」
「ウソばっかり。もー、なんで私ばっかり作るのさー。翼もやってよ」
「材料はウチが全部用意したんやし、ええやん。費用もウチ持ちやし」
そう言われてしまうと「じゃあ、しょうがないか」と思う。慎重に、卵を割る作業を六回繰り返すと、ボウルの中は卵でなみなみになった。
「そんじゃ、卵白が細かくなるようにしっかり溶きほぐしてや」
「……明日筋肉痛になりそう」
「お姫様か。生クリームを作るんとはちゃうから大丈夫や」
手渡された泡立て器でカチャカチャと卵をかき混ぜる。卵白が細かくなるように、とか言われても基準が全然わからないんだけど、これでいいのかな?
「海未、そろそろええんちゃう? 次は鍋で牛乳を沸騰直前まで温めて、火を止めてから砂糖を加えるみたいや。よし、まずは牛乳一本半入れてくれへん?」
「はい、喜んで!」
「居酒屋か」
アホなやり取りをしながら牛乳が沸騰するのを待ち、砂糖を入れた。
「ここにさっきふやかしておいた水ゼラチンを入れて、混ぜるで!」
「うわ、急に重くなった!」
「しっかり混ぜてな。溶かしたら海未が混ぜてくれた魂の卵を注いで、また混ぜる!」
「さっきから混ぜてばっかりだよ!」
「見習いなのに文句言うてたら、天才パティシエにはなられへんで?」
「私まだ見習いだったの⁉ さっきと言ってること違くない⁉」
「まあまあ、ほら次は海未が好きそうな作業やで。バニラエッセンスで香りをつけるんや」
翼に小瓶を手渡された。
「どれくらい入れるの?」
「適量でええで」
「おっけー! えい!」
「ちょ⁉ あかん! 入れ過ぎや! 香りづけ程度でええねん!」
「え⁉ 早く言ってよ!」
「言わんくてもわかるやろ~……ああ、めっちゃバニラの香りするなあ~……」
「ごめん……最後にやらかした」
「最後ちゃうし、やらかしてないし、好きな香りやし、謝ることは一個もあらへんよ」
基本的に翼は、私を否定するようなことは言わない。優しくて寛容な子なのだ。
「作っておいたカラメル、粗熱が取れたみたいやしバケツに流すで」
翼が持ってきた消毒済みのバケツを目の前に置かれて、改めて思う。
「バケツに入れる行為だけ見るとさ、調理してるって感じしないよね」
「まあまあ、何事もやってみないと……頼むで」
カラメルの入った鍋をバケツの上で傾けると、注ぎ込まれた褐色の液体でバケツの底が満たされた。
「鍋の中身もこしながら、バケツに流し入れるで」
こし器を持ってきた翼がバケツの上に置いた。私はゆっくりと上から鍋の中身を注いでいく。……凄い量だった。
「……よし、全部入れたよ」
「ありがとな。あとはラップをして、冷蔵庫で一晩冷やすだけや」
「え⁉ 今日は食べられないの⁉」
「当たり前やん。固まってないんやから」
「……前日に用意していたものが冷蔵庫の中にあったり……」
「あらへん」
「ですよね」
「まあ、ゆっくりしようや。コーヒーでも飲むか? インスタントやけど」
「……いだだきます」
調理中はずっと立ちっぱなしだったから疲れた。ソファーに座って息を吐いてから、キッチンでコーヒーの準備をしている翼をぼんやりと見つめた。
ここ数日翼と一緒に暮らしてみて……というか、一方的に居候させてもらって……というか、面倒を見てもらって、改めて思った。
翼は一見大雑把に見えるけれど、とても器用だ。
料理も冷蔵庫にあるものでパッと作れるし、そこにある収納棚も自分好みのものが見つからなかったと言って、DIYしたらしい。大学にも通いつつ、洗濯も掃除も何もしない私の分までいつの間にか終わらせてしまう。
だからきっと、今回は私にやらせていたけれど、しっかり分量を量ることと手際の良さが求められるお菓子作りも得意なのだと思う。私は無理だ。そもそも、不器用なのに美容師と言う仕事を選んだこと自体間違いだったのかもしれない。
人の喜ぶ顔が好きだし、私の手で笑顔にしてあげられたら素敵だなって思って志した職業だったけれど、上手くできないことが多くて店長にはよく怒鳴られたし、朝から晩まで働いてカットの練習もしたけれど指名客はなかなか増えなかったし、それどころか担当させてもらったお客様を満足させることができなくてクレームをもらったこともあったし、私は……。
「お待たせ~」
翼の声でハッとして、現実に引き戻された。翼はローテーブルの上に二つのマグカップを置いて、私の隣に腰掛けた。
「ありがと。いただくね」
「熱いから気をつけてや」
砂糖とミルクはスプーン一杯分。この家に来たときに一度言っただけで、翼は私好みのコーヒーを覚えてくれた。……翼はモテるんだろうなあ。
「今更思ったんやけどな、動画に撮っておけばよかったよなあ。バケツプリンを作る機会なんてそうそうあらへんし」
「あー、確かに。でも私超必死だったし、面白い動画にはならなかったかも」
「なんで面白さ求めるん? ユーチューバーちゃうで」
「チャンネル登録アンド高評価をよろしくお願いしまーす」
「ユーチューバーちゃうねん!」
大袈裟なツッコミに笑ってから、再びコーヒーを啜る。熱い息を吐いてから、
「……ねえ、翼。なんでバケツプリンを作ろうって言い出したの?」
「最初に言うたやん。プリン食べたかったし、でっかいほうがテンション上がるし」
「それ以外にも理由があるんでしょ?」
「ないって」
「私の自惚れじゃなければ……翼は、私を元気づけようとしてくれたと思ったんだけど。違う?」
じっと見つめる。私が真面目な話をしているとき、翼はいつだって目を逸らさない。絶対に受け止めてくれる。
翼の声を聞きながら、鍋に熱湯を注ぐ。最初は激しい音を出していたけれど次第に音も落ち着き、ほっと安堵の息を漏らした。
「ええやん! 海未、天才パティシエや!」
「さっきスルーしたのに今言うの⁉」
ツッコミつつも気を良くした私は、誘導されるがままにカラメルの入った鍋を火からおろして混ぜた。
「粗熱が取れたらバケツに流し入れるみたいやな。ちょっと放置して次はプリンの黄色いところ作っていくで」
「疲れたよー。ちょっと休憩しようよー!」
「どうせこっちも粗熱を取る時間があるから、もう少し頑張ろ。な?」
……同い年なのに、私のほうが社会人経験もあるっていうのに、翼のほうがよっぽど大人っぽいのはどうしてだろう。
「次は何をすればいいの?」
「ボウルに卵を入れて、溶きほぐすんや。……ほら、海未。頼むで」
「また私? 卵割るのすら自信ないのに?」
「大丈夫や。ムカつく店長の顔を思い出しながらやってみ」
「……卵、粉々にしちゃうけどいい?」
ダイニングテーブルが悲惨なことになりそうだ。
「ほどほどに頼むで」
「っていうか、卵七個も使うとか贅沢じゃない?」
「そんなん言うたら、牛乳は1500 CC も使うで」
「1500 CCってどれぐらい?」
「小学生の問題やん! 1L500mmや。牛乳1本半ってこと」
「めちゃくちゃ太るじゃん!」
「バケツプリンやからな」
ついさっきも同様のやり取りをしたばかりだ。翼と顔を見合わせてゲラゲラ笑った。
「そんじゃ、卵を割っていきますか。……うりゃ!」
パカーンという感じではなくカシャリといった感じで、不格好に割れた殻から中身が飛び出してボウルの中に落ちた。
「よ! 卵割り名人! 鶏に目の敵にされそうな人間ナンバーワン!」
「意味不明な茶々入れる暇あったら卵割るの手伝ってよ~! あと六個もあるんだから~」
緊張で肩が凝って仕方がないんですけど。
「嫌や。ウチ卵アレルギーやから触られへんし」
「ウソばっかり。もー、なんで私ばっかり作るのさー。翼もやってよ」
「材料はウチが全部用意したんやし、ええやん。費用もウチ持ちやし」
そう言われてしまうと「じゃあ、しょうがないか」と思う。慎重に、卵を割る作業を六回繰り返すと、ボウルの中は卵でなみなみになった。
「そんじゃ、卵白が細かくなるようにしっかり溶きほぐしてや」
「……明日筋肉痛になりそう」
「お姫様か。生クリームを作るんとはちゃうから大丈夫や」
手渡された泡立て器でカチャカチャと卵をかき混ぜる。卵白が細かくなるように、とか言われても基準が全然わからないんだけど、これでいいのかな?
「海未、そろそろええんちゃう? 次は鍋で牛乳を沸騰直前まで温めて、火を止めてから砂糖を加えるみたいや。よし、まずは牛乳一本半入れてくれへん?」
「はい、喜んで!」
「居酒屋か」
アホなやり取りをしながら牛乳が沸騰するのを待ち、砂糖を入れた。
「ここにさっきふやかしておいた水ゼラチンを入れて、混ぜるで!」
「うわ、急に重くなった!」
「しっかり混ぜてな。溶かしたら海未が混ぜてくれた魂の卵を注いで、また混ぜる!」
「さっきから混ぜてばっかりだよ!」
「見習いなのに文句言うてたら、天才パティシエにはなられへんで?」
「私まだ見習いだったの⁉ さっきと言ってること違くない⁉」
「まあまあ、ほら次は海未が好きそうな作業やで。バニラエッセンスで香りをつけるんや」
翼に小瓶を手渡された。
「どれくらい入れるの?」
「適量でええで」
「おっけー! えい!」
「ちょ⁉ あかん! 入れ過ぎや! 香りづけ程度でええねん!」
「え⁉ 早く言ってよ!」
「言わんくてもわかるやろ~……ああ、めっちゃバニラの香りするなあ~……」
「ごめん……最後にやらかした」
「最後ちゃうし、やらかしてないし、好きな香りやし、謝ることは一個もあらへんよ」
基本的に翼は、私を否定するようなことは言わない。優しくて寛容な子なのだ。
「作っておいたカラメル、粗熱が取れたみたいやしバケツに流すで」
翼が持ってきた消毒済みのバケツを目の前に置かれて、改めて思う。
「バケツに入れる行為だけ見るとさ、調理してるって感じしないよね」
「まあまあ、何事もやってみないと……頼むで」
カラメルの入った鍋をバケツの上で傾けると、注ぎ込まれた褐色の液体でバケツの底が満たされた。
「鍋の中身もこしながら、バケツに流し入れるで」
こし器を持ってきた翼がバケツの上に置いた。私はゆっくりと上から鍋の中身を注いでいく。……凄い量だった。
「……よし、全部入れたよ」
「ありがとな。あとはラップをして、冷蔵庫で一晩冷やすだけや」
「え⁉ 今日は食べられないの⁉」
「当たり前やん。固まってないんやから」
「……前日に用意していたものが冷蔵庫の中にあったり……」
「あらへん」
「ですよね」
「まあ、ゆっくりしようや。コーヒーでも飲むか? インスタントやけど」
「……いだだきます」
調理中はずっと立ちっぱなしだったから疲れた。ソファーに座って息を吐いてから、キッチンでコーヒーの準備をしている翼をぼんやりと見つめた。
ここ数日翼と一緒に暮らしてみて……というか、一方的に居候させてもらって……というか、面倒を見てもらって、改めて思った。
翼は一見大雑把に見えるけれど、とても器用だ。
料理も冷蔵庫にあるものでパッと作れるし、そこにある収納棚も自分好みのものが見つからなかったと言って、DIYしたらしい。大学にも通いつつ、洗濯も掃除も何もしない私の分までいつの間にか終わらせてしまう。
だからきっと、今回は私にやらせていたけれど、しっかり分量を量ることと手際の良さが求められるお菓子作りも得意なのだと思う。私は無理だ。そもそも、不器用なのに美容師と言う仕事を選んだこと自体間違いだったのかもしれない。
人の喜ぶ顔が好きだし、私の手で笑顔にしてあげられたら素敵だなって思って志した職業だったけれど、上手くできないことが多くて店長にはよく怒鳴られたし、朝から晩まで働いてカットの練習もしたけれど指名客はなかなか増えなかったし、それどころか担当させてもらったお客様を満足させることができなくてクレームをもらったこともあったし、私は……。
「お待たせ~」
翼の声でハッとして、現実に引き戻された。翼はローテーブルの上に二つのマグカップを置いて、私の隣に腰掛けた。
「ありがと。いただくね」
「熱いから気をつけてや」
砂糖とミルクはスプーン一杯分。この家に来たときに一度言っただけで、翼は私好みのコーヒーを覚えてくれた。……翼はモテるんだろうなあ。
「今更思ったんやけどな、動画に撮っておけばよかったよなあ。バケツプリンを作る機会なんてそうそうあらへんし」
「あー、確かに。でも私超必死だったし、面白い動画にはならなかったかも」
「なんで面白さ求めるん? ユーチューバーちゃうで」
「チャンネル登録アンド高評価をよろしくお願いしまーす」
「ユーチューバーちゃうねん!」
大袈裟なツッコミに笑ってから、再びコーヒーを啜る。熱い息を吐いてから、
「……ねえ、翼。なんでバケツプリンを作ろうって言い出したの?」
「最初に言うたやん。プリン食べたかったし、でっかいほうがテンション上がるし」
「それ以外にも理由があるんでしょ?」
「ないって」
「私の自惚れじゃなければ……翼は、私を元気づけようとしてくれたと思ったんだけど。違う?」
じっと見つめる。私が真面目な話をしているとき、翼はいつだって目を逸らさない。絶対に受け止めてくれる。