古い家と評すればそれまでではあるものの、南家はとかく広くできている。
 ひとりで暮らす南は、ほとんど二階は使用していなかったらしい。「そんなわけだから好きに使って」と案内された六畳間の和室を、時東はきょろりと見渡した。
 ちなみに、本人は、あとは任せたと仕事に戻ってしまっている。
 知り合って半年も経たない人間を、よくひとりで家に置くよなぁ、と。ほんの少し呆れる気持ちもあるけれど、あの人らしいと言えば、それまでだ。
 洋タンスと、その隣に立てかけられた折り畳み式の机。南が持ち込んでくれた小型のヒーター。まだひんやりと肌寒いものの、どこか懐かしいいぐさの匂いと、なによりも窓から見える景色が気に入った。
 田んぼと国道、そして南食堂がよく見える。
 ここから眺めていると、南食堂の灯りを頼りにバイクを走らせた夜が随分と昔のように思えた。
 ――変な感じだな、なんか。
 苦笑ひとつで窓辺から離れ、時東は持ち込んだ荷物の開封作業を開始した。必要最低限しか持ってきていないので、片づけもすぐに終わるはずだ。
 ――南さんが戻ってくるまでには、終わらせておかないと。
 怒りはしないだろうが、呆れられてしまいそうな気はするし、初日からそれはちょっといただけない。
 そんな自己保身で片づけを進めること、三十分。最後の段ボール箱からパソコンを取り出した拍子に、ぽんとUSBメモリが飛び出した。畳をするすると滑り、押入れに当たったところで回転が止まる。
 USBメモリを取るために伸ばした指先が、その先にある押入れの引手を掴んだのは、ちょっとした好奇心だった。


[8:時東はるか 12月2日14時40分]


「ドラム? 南さんの、かな」
 しげしげと見つめているうちに、時東の中で「なんで教えてくれなかったんだろう」という小さな拗ねが湧き上がってくる。
 楽器をやっていた、なんて。数少ない自分との共通点だと思うのだが。
 ――まぁ、でも、そんなこと、あえて言わないかな、南さんは。
 聞けば答えてくれる気はするけれど、自分からは言わない気がした。抱いている印象を頼りに結論づけ、改めて納戸の中身を確認する。
 ソフトケースに収納されているし、長いあいだ埃を被っていた雰囲気はあるものの、ドラムであることは間違いなさそうだ。
「南さんもバンドとかやってたのかな。それともお父さんのかな」
 どちらにせよ、もう何年も使われていないものだろう。ギターはともかく、ドラムがある家は珍しい部類だと思うが。なにせ、置き場所に困る家が大半の代物だ。
 でも、ギターよりは似合っている気もするなぁ、なんて。勝手なことを想像しつつ、戻ってきたら話を振ってみようかな、と考える。
 そうと決まれば、早いうちに片づけてしまおう。よいしょと襖を閉めようとした瞬間、天袋から小さな箱が落ちてきた。引っかけてしまったらしい。
 箱から飛び出した物体に目が留まり、拾おうとした手の動きが止まる。ドラムのスティックと、プラスチックのCDケース。
「これ……」
「本当、雑だよねぇ、あいつ」
 突如として背後で響いた声に、時東は小さく息を飲んだ。春風が家に上がり込んでいたことにも、階段を上る音にもまったく気づいていなかったからだ。
「春風さん」
 振り返った時東に微苦笑を返し、春風が近づいてくる。
「詰めが甘いというか、時東くんを信用しすぎているというか。でも、悪気もないんだよね、これまた性質の悪いことに」
 そう言いながら無造作にCDとスティックを箱に戻し、ひょいと天袋に押し込んだ。春風が襖を閉めると、なにもなかったようになる。
「ごめんね、時東くん。嫌なもの見せちゃったみたいで」
「いえ」
 なんで、この人に弁解されなければならないのだろう。苛立ちなのか、なになのか。自分でもわからない感情を押し隠し、時東も笑みを張りつけた。
 もしかすると、似非臭い顔になっていたかもしれない。
「春風さんは、今日はどうしたんですか?」
 南がこの時間帯に家にいないことを、知らないはずがないだろうに。
「引っ越しではないかもけど、まぁ、似たような感じかなと思って。引っ越し祝い代わりに、家で採れた野菜持ってきたの。台所に置いておいたから、凛に調理してもらいな」
 人懐こい笑顔で切り返し、春風が喋りかけてくる。
「俺のおすすめは、天ぷらそばかな。温かいそばのほうが好きなんだよね、個人的に。時東くんは?」
「どっちかというと、温かいほう、ですかね」
「だよな。いいよな」
「春風さん」
「あいつの隣、楽でしょ。なかなか」
 軽口の続きのように、春風の態度は飄々としていた。
 笑みが消えた自覚はあったものの、張り付け直そうとは思わなかった。笑顔を取り繕うことは得意だが、笑顔が意味を成さない相手を見分けることもうまくなったのだ。ひとりで戦い続けた、五年のあいだに。
 その経験が、この人には通用しないと時東に告げている。
「踏み込まないのに、拒絶もしない。芸能人であるところの時東くんに、過度な興味も示さない。好きにしたらいいって放っておいてくれる」
 読めない瞳を軽く笑ませ、春風はさらりと続けた。
「楽でしょ、時東くん」
 まただ、と時東は思った。
 またひとつ、ざらりとしたなにかが身体の内側に蓄積されていく。そうして積もり積もったなにかは、箍が外れる「いつか」まで息を潜めているのだろうか。
 不穏なイメージを切り捨て、いつもどおりの調子で時東は応じた。いつもどおりの、時東はるかの声。
 顔のわりに喋ると天然で、馬鹿な発言もあるけれど、なんとなく憎めない。そう評される芸能人の時東はるかを時東はよくよく知っている。
「春風さんは違うんですか」
「それはまぁ、楽っちゃ楽だけど。でも、まぁ、さすがに、そればっかりじゃ二十云年一緒にいられませんって」
 持ちつ持たれつっていうのも、案外、難しいけどねぇ。
 試すように笑って春風は肩をすくめた。芝居がかった気障な仕草が自然と似合う。そういった人種も、時東はよく知っている。自分のいる業界に多いからだ。
 ――でも、まさかな。
 さすがにそんなことがあるわけがない。浮かんだ疑念に蓋をし、笑みを張り付ける。通用しないからと言って無愛想を保つことも面倒だったのだ。
 自分でもわかっていない「素の自分」とやらよりも、使い慣れた「時東はるか」の皮のほうが、よほど使い勝手が良い。時東はそう思っている。
「そうですよね、気をつけないと」
 その笑顔を呆れたふうに笑った春風が、半分ほど中身の詰まった段ボールを指差した。
「あいつ帰ってくるまでに、それ片づけとかないと。怒られるよ?」
「そうします」
 へら、とお得意の笑みで返して、時東は片づけに着手した。中身を畳の上に広げることで、春風も視界から追い出してしまう。
 作業に没頭しているふうに見せかけているうちに、立ち去る気配がして階段が軋んだ。呆れられていたとしても構わない。べつにどうでもいいことだ。
 ひとりに戻った部屋で、時東は表情を消した。
 まだ子どものような顔をしたふたりの少年とひとりの少女。背の高い少年を真ん中に肩を組んで笑ったジャケット写真。左端に印字した筆記体がグループ名だった。『Ami intime』。フランス語で親友。ガキくさいと笑いながら、ガキだからいいじゃないかと三人で決めた。
 インディーズ時代に、自費で制作したCDだった。たいした数は作っていない。路上ライブやライブハウスに出演した折に自分たちの手で売った。これを作ったのは、高校生の時東たちだ。
 何年も前の話だ。今も持っている人間なんて、ほとんどいないはずのもの。時東は、五年前にすべてを捨てた。
「なんでそんなものを後生大事に持ってんの。南さんは」
 溜息まじりの声が、ぽつりと畳に吸い込まれていく。
 けれど、きっと、このことを南に聞くことを自分は選ばないのだろう。その未来だけははっきりとしていた。
 薮をつついて人間関係を面倒にするなんて、まっぴらだ。忘れることにして、時東は空になった段ボール箱を片づけた。