時東は、深酒をすることはほとんどない。
 たぶん、「派手な生活を送る芸能人」のイメージからすると、意外なくらい少ないのではないかと思う。
 味覚が鈍ったからでも、とんでもない失敗をしたからでもない。
 単純に、懲りたのだ。五年前、現実から逃げるように深酒をしても、なにも忘れることはできないと痛感したから。


[7:時東はるか 11月30日23時55分]


「南さーん、お風呂ありがとう」
 風呂上がりに使えと渡されたジャージの胸元を見下ろしつつ、時東はそう声をかけた。「西高 南」という刺繍がなんとも言えない昭和感を漂わせている。
 ――いや、まぁ、平成の高校生だったことはわかってるんだけど。
 つまるところ、イメージの問題だ。だって、小豆色だし。あと、なんとなくの田舎のヤンキー臭。これも勝手なイメージだけど。
 障子戸を引いたところで、あれ、と時東は首を傾げた。
 居間にいると思っていた家主がいない。きょろりと見回して、耳を澄ませる。時計の針と、風の音。それだけで、どこからも生活音は聞こえてこない。
 押し問答の末に、一番風呂に押し込まれたのが二十分ほど前のことだ。
 どこに行ったのだろうと思ったものの、三度目の来訪で家探しを敢行する図々しさは、さすがに持ちえていない。
 ――まぁ、いいか。適当に待ってれば。
 結論づけ、腰を下ろしたタイミングで、「こっち」と居場所を伝える声が飛び込んできた。導かれるように、ふらりと立ち上がる。
 声の方向にあたりをつけて、長い廊下を進む。行き当たったのは縁側だった。くれ縁ではあるものの、雨戸が開いていることもあって、少し肌寒い。けれど、窓越しに見える高い月がすごく綺麗だ。その月に、時東はしばし見とれた。
 そうか、満月か。一拍遅れて、思い至る。
 都会にいると見えないものに、ここでは出逢うことができる。
「月見酒?」
「多少寒いけどな」
「よかった。南さんにも寒いっていう感覚があって」
 笑って隣にしゃがみ込むと、南が手にしていたグラスを膝元に置いた。脇にあった日本酒の瓶に視線が留まる。この家で南が呑んでいるときはビールや発泡酒ばかりだったから、珍しいな、と思う。自分がいないときに呑んでいるのかもしれないけれど。
 時東の飛び出した踝を見て、ふっと南が笑った。
「丈、足りてるか、それ」
「んー、大丈夫。ありがとう。お借りしてます」
「春風のやつのほうがサイズ合ったかもな」
「春風さんの?」
「あいつ、適当に自分のもの置いていくんだよ。そのへんに置いてあるし、寒かったらそっち使えば? 洗ってあるし」
 さも当然と答えられ、慌てて首を振る。曖昧に応じたら最後、取り上げられてしまいそうだったので。
「いや、これでいいです。ぜんぜん、本当に」
 ……って、取り上げられるってなんだ。取り上げられるって。
 覚えた違和感を呑み込み、にこりとほほえむ。その顔をじっと見つめていた南が、妙にしみじみと呟いた。
「それにしても、無駄にふたり揃ってでかいよな」
「無駄にって。これでもがんばって伸ばしたんです」
「がんばって伸びるもんなのか?」
「知らないけど。でも、高三くらいから急に伸びたんだよ、俺。それまでは小さかったから」
「そういや、そうだったかな」
「え?」
「呑むか?」
 そのつもりでもうひとつグラスを用意してくれていたらしい。差し出されたグラスを受け取って、時東は瞳を瞬かせた。
「いいの?」
「ひとりで呑むもんでもないしな」
「明日休みだし?」
「まぁ、俺はそうか」
「ところで、いまさらなんだけど、俺、泊まってよかったの? 南さんって、あんまりそういうのに抵抗ない人?」
 なさそうだなということは言動から感じ取っているけれど。迷惑ではないという言質を取りたかったのかもしれない。
 窓の外を眺めたまま、南がかすかに喉を鳴らした。
「なんだよ、そういうのって」
「まぁ、そういうのですよ」
「田舎だからな。良くも悪くも。春風が朝起きたらいるとか、普通だし」
「……それは普通なの」
 田舎だからどうのこうのというより、もっと単純にこのふたりの距離感の問題な気がする。ささくれた気分で、注いでもらった酒を流し込む。ほんのりとした苦みはあるけれど、呑みやすい味だ。
 改めて、不思議に思う。なんで、この人と一緒だと味がするんだろうなぁ。
 呑みやすいね、と呟くと、だろ、と南が言う。
「ここの地酒。同級生の兄ちゃんが継いだ店なんだけど、たまに呑みたくなるんだよな」
「南さんみたいに地元に残ってる人って多いんだ」
「いや? 都会に出てそれっきりみたいなやつも多いよ。……あぁ、でも、大学出て、そのまま都会で二、三年働いて。そこからやっぱり戻ってきた、みたいなやつもそれなりにいるな」
「春風さんも?」
「春風?」
「なんというか、あんまりこのへんの人っぽくないなぁと思って」
 不思議そうに問い直されて、へらりと取り繕う。それらしい理由を用意するのは得意だ。
「いや、あいつは、大学は俺と同じで東京だけど、卒業してすぐこっちに戻ってきたクチ」
「大学も一緒だったんだ」
「学部は違ったけどな。うちの親もあいつの親も、そのほうが安心だって、ひとまとめに一緒のアパートに放り込まれて。結局、ずっと一緒だったな。そう思うと」
 懐かしそうに南が目を細める。はじめて見た表情だと思った。そうして、きっと、自分が知らない顔はもっとあるのだろうな、とも。
「まぁ、今は、あれだ。兼業、農家?」
 なんで疑問形なんだろうと訝しんだものの、時東自身もミュージシャンのうしろに疑問符を付けかねられない身だ。
 無用な薮は突かないことにして、もう一口酒を呑む。日本酒はあまり好きでなかったのだけれど、おいしいなと素直に思う。
 一緒に呑んでいる相手の問題なのかもしれない。
 南が地元に戻ろうと決めた理由は、ある意味でとてもわかりやすい、と時東は思う。親の遺した店を継ぐと決めたからだ。そうだとすれば、あの人の決め手はなんだったのだろう。
 視線を隣に流すと、南の横顔が視界に入った。静かに外を見つめるそれは、それなりに整っているものの、女性的でもなければ中性的でもない、男のものだ。それも自分より年上の。
 そうでしかないのに、この人の傍にいると、気が安らぐ。
 もし自分が、と。とりとめのないことを時東は考えた。自分がこの人と同い年で、同じ場所に生まれ、一緒に育ったら、その先もずっと傍にいたいと願ったかもしれない。
「あのさ。この前、俺がここに来た日のことなんだけど」
「ん? ああ、おまえがおでん持ってきた日な」
「そう。そうなんだけど、……その、あの日って、なにかあったかな」
「なにかって?」
「春風さんがすれ違ったときに」
 なんと言えばいいのか。迷ったのは、覚えた焦燥を言葉にできる気がしなかったからだ。
 妙な感情の揺らぎを見せたくないと思うのは、意地なのだろうか。いまさら格好をつけたところで意味がない程度には、醜態を晒しているというのに。
「あぁ」
 察したらしい南が、グラスから口を離した。感情のない平たい声。
「親の命日」
 だからか、と素直に得心した。だから、来るのか。
「それだけ。おまえがいて、気が紛れてよかったわ。変な話聞かせて、おまえには悪かったけど」
「あのね、南さん」
 縁板のひんやりとした冷たさが、置いた指先から伝わってくる。その温度を感じながら、時東は呼びかけた。
 夜に慣れてきた目に、家庭菜園らしき畑が映る。この庭で小さかったこの人は遊んでいたのだろうか。そうして、今、なんの因果か時東と並んで酒を呑んでいる。夜風と虫の声。生きている音がした。
「俺、曲が作れないの」
 口にしたのは、はじめてだった。けれど、想像していたよりもずっとさらりとした音になった。案外と言えてしまうものだったのだと知る。
 認めたくない、認めるわけにはいかないと必死で抗っていたなにかですら、ここであれば。
「そうしたら、物の味もわからなくなってきた」
 にことほほえんだ時東に、南の瞳が一度ゆっくりと瞬いた。
「知ってた」
「え? 本当?」
「具体的になにがどうとは知らなかったけど。おまえ、異常に俺の飯にこだわってたし。なにかしらあるのかな、とは」
 それは果たして、「知っていた」なのだろうか。自分の笑顔が情けなく崩れていることを時東は疑った。
「ここにギター持ってきてもいい?」
「好きにしろ」
「ここで缶詰してもいい?」
「自分のことは自分でしろよ」
 あっさりと請け負った南が、手に取った酒瓶をそのまま戻した。空になったらしい。
 呑むペース早いなぁ、と心配になったのだが、言っても、たぶん気には留めてくれないだろう。だから、時東は名前を呼んだ。
「南さん」
「なに」
 立ち上がった南が、邪険そうに振り返る。その目をまっすぐ見つめたまま、時東は一息に告げた。
「大好き」
 この人に出逢えてよかったと心の底から思っている。時東を見下ろしていた南が呆れた顔をして背を向けた。
「あぁ、そう」
「だから、ちょっと、なんで南さんは、大スターの告白をいつもいつも軽く流すの!」
 あんまりと言えばあんまりだ。飼い犬よろしく吠えながら、どこかに歩いていく南を追いかける。顔は見えない。けれど、声は疑いようもなく呆れ切っていた。
「そんなもん、おまえが本気じゃないからに決まってるだろうが」
「そんなことないもん」と子どもじみた反論を試みた時東だったが、効果がないことはわかり切っていて、軽く頬を膨らませる。
 必要以上に本気だと迫って、店を出禁にされると、ものすごく困る。死活問題だ。というか死んでしまう。
「俺はこんなに南さんのことが好きなのになぁ」
 そんなわけだったので、時東はあくまで冗談に聞こえる調子を選んだ。前を行く南の肩がかすかに揺れ、小さな溜息が耳に届く。
「おまえが好きなのは、俺の飯だろ」
 否定できない。けれど、それは三ヶ月前の自分だったらば、だ。
 それだけだったら、こんなところまで来ないに決まっている。覚えたもやもやを押し込んで、へらりと笑う。
 きっともう日付が変わって、十二月になった。
 この人と出逢って、まだたったの三ヶ月だ。「もう」なのかもしれない。でも、まだまだ足りない気がしていた。会う時間が増えれば増えるほど、もっともっと知りたくなる。
 来年は、と思った。来年の俺はどうしているのだろう。どうしていたいのだろう。