「ところで、はるかさん。アルバムの曲って、どうなってます?」
 とりとめのないことばかり話しかけてくるなぁ、と。正直、辟易としていたのだが、切り込みどころを探していただけだったらしい。
 口調こそ軽いものの、バックミラーに映る岩見の目はなにひとつ笑っていなかった。
「あー……、うん」
 せめてもの誠意で、スマートフォンから視線を上げる。だが、しかし。時東には愛想笑いで誤魔化すことしかできなかった。なにせ、まったく進んでいないのである。
「ねぇ、そろそろだよねぇ」
 進捗を一向に報告しなかった自分に非があることは重々承知しているが、報告できる進捗がなかったのだ。察してくれ。
 時東の愛想笑いを一瞥した岩見が、生ぬるい笑顔で首を横に振った。
「できてないならできてないで、いいですけどね? ただ、このままだとアレですよ。本当に曲は提供してもらうことになると思いますよ」
「聞いたは聞いたけど。それ、社長の思いつきじゃなかったんだ」
「北風春太郎ですか? まぁ、社長も良い返事がもらえるか自信がなかったそうですが、予想外に感触が良かったらしくて。張り切ってましたよ」
 北風だかなんだか知らないが、余計なことを。断ってくれたらいいのに。八つ当たりでしかないことを考えつつ、手元に視線を戻す。
 ――それにしても、北風春太郎ねぇ。
「その人って、専属じゃなかったんだ。ほら、あの、……なんとかっていうふたり組の」
「ちょっと、ちょっと、はるかさぁん。少しくらいは周りに興味持ってくださいって。外でそれ口にしたら、僻みだって思われますよ」
 呆れ声に、時東は記憶を辿った。周囲に興味がないと言われようとも、それなり以上に売れている同業者であれば、ぼんやりとした知識はある。ギター&ボーカルの女生と、男性キーボード。
 インディーズからメジャーに進んだ時期は、時東より二年ほど早かったはずだ。そうして、彼らの楽曲をデビュー前からずっと創り続けているのが、件の作曲家。
「星と太陽」
「違います。『月と海』です」
 せっかく思い出したのに、すげなく切り返されてしまった。
「いい線行ったと思ったんだけど」
「ご一緒するときに、間違った名前で呼びかけたりしないでくださいね?」
「するわけないでしょ。というか、岩見ちゃんもご存じのとおり、俺はそういう交流はいたしません」
「あぁ、……そうでしたね、はるかさんは」
 苦笑して、岩見が言葉を継いだ。よかったですね、と言わんばかりに。
「つまりそういうことです。北風さんの曲は旬ですし、人気が出ると思いますよ。変わり者だっていうお噂は聞いてたんですが、色良いお返事で僕もほっとしました。さすがはるかさんですよね」
 なにがさすがだ、なにが。との不満が滲んでいたのか、岩見の声が阿る調子に変わる。
「もちろん、はるかさんの曲も入りますよ?」
「できあがりさえすれば、ね」
 でも目玉はその北風とやらの提供曲になるんでしょ、との嫌味は呑み込んで、窓の外に視線を向ける。人工的なビルの連なるオフィス街を、足早に通り過ぎていくスーツの一群。
 ――あそこは、ちゃんと虫の声もするのになぁ。
 目の前にいる相手以外の声は聞こえないような、静かな町。ゆったりとした時間の流れる、時東の心をほぐす場所。
 あそこであれば、創りたいなにかが思い浮かぶこともあるのだろうか。
 現実逃避だとわかっていたのに、でも、それでも、と。現場に着くまで、時東はずっとそんなことを考えていた。


[6:時東はるか 11月30日14時52分]


 あいつの最大ヒットって、デビュー曲だよな。
 いいよな、顔が良いやつは。たいして歌がうまくなくてもデビューできて。
 っていうか、最近、バラエティでしか見なくない? 曲出してんの?

 自分を評する世間の声を、時東はよくよく知っている。はいはい、そうですよ。どうせ俺はめちゃくちゃ歌がうまいわけでもなければ、神がかった曲を生み出せるわけでもないですよ。強いて言うなら、顔が良くて、それなりに歌がうまかったところがポイント高かったんじゃないですかね。そうして、それを見初めてもらうことのできた運の強さ。どうだ、羨ましいか、この野郎。
 そう思うことで、批判も羨望も嫉妬もすべて受け流し走り続けてきた。この世界を、ずっと、ずっと。
 けれど、ふと足元があやしくなった瞬間。なにもかもが見えなくなった。前も後ろもわからない真っ暗闇。踏み出そうとした足は、ずっと宙に浮いたままだ。
 その状態が、もう何ヶ月も続いている。


「だからって、これはよくない現象だよなぁ」
 あえて言葉にしなくとも、こちらも重々承知していることだった。現実から逃げる場として、自分はここを選んでいる。ここ。南食堂。性懲りもなく訪れた店の前で、時東は小さく息を吐いた。
 のれんは店内にひっこめられ、「閉店」の札がかかっている。だが、まだ明かりはついている。「入ってよし」の基準はすべてクリアしているのだが。
 ……いや、ここで立ち尽くしてるほうが不審者だよな。
 南が引き上げているということであればともかく、中にいるのだ。入らないのであれば、本当になにをしにきたという話になってしまう。
 よし、と心の中で呟いて、取っ手に手をかける。やはり鍵はかかっていなかった。不用心だなぁと思う一方で、自分のために開けてくれているのではないかと穿ってしまう。真実はわからないけれど、想像することは自由だ。
 店に足を踏み入れると、あたたかい空気が時東を包んだ。なにかがじんわりと緩むのを感じながら、笑いかける。
「こんばんは、南さん」
 呼びかけに、カウンターの中にいた南の顔が上がった。あいかわらずのそっけない表情。
 それなのに、不思議と受け入れてもらっている気分になるのだ。なんでなのだろう。
「珍しいな。仕事、明日休みなのか」
「ううん。明日も昼から仕事なんだけど」
 仕事が終わった途端に、バイクに乗ってやって来てしまった。元より決めている曜日でも、なんでもないのに。
 真相を隠し、へらりと笑う。南の顔がよく見えるいつもの特等席に腰かけて、コートを脱ぐ。
「余りものでよかったら食うか」
「いいの?」
「じゃなかったら、なんで来たんだ?」
 さも当然と問われ、時東は内心で首を傾げた。ごはんを食べたい。ここに来るときは、いつもそう思っていた。
 味のあるもの。一緒にいてくれる誰か。気負わない場所。自然体でいることのできるところ。
「南さんの顔が見たかった、かな」
 ぽろりとこぼれたそれに、南の動きがかすかに止まった。
「おまえな」
 あれ、と思っているうちに、呆れたような声が耳に響く。
「そういう台詞は、好きな女にでも言えよ」
 実践してしまったのかもしれない。ほんの少し疑いながら、「それもそうだね」と時東は笑った。そうするべきなのだろう、本来であれば。
 なにか温め直してくれているのか、優しい出汁の匂いがした。時東がいようがいまいが、おそらくはなにも変わらない、淡々とした動作。けれど、時東のために用意されているものなのだ。
 ――落ち着くなぁ、やっぱり。
 この場所は、どうしようもなく落ち着く。否定することは、もうできなかった。いつのまにか、そういう場所になってしまっている。誰にも邪魔をされたくない、なによりも大切な場所。
 目の前の優しい光景を、ただじっと時東は見つめていた。