ぷるぷると目の前で厚揚げが踊っている。でかい。そのでかさに時東は圧倒された。でかい。公称百八十センチの時東よりもはるかにでかい。倒れてきたら、たぶん、死ぬ。
 恐れおののく時東の耳に、今度はご機嫌な歌が届いた。どこに口があるのかは謎だが、発信源が厚揚げであることは間違いない。そうしていまさらながらに、もうひとつに気がついた。厚揚げの後ろでは、バックダンサーよろしくジャガイモと大根が飛び跳ねている。
 夢だ。間違いなく自分は夢を見ている。時東は断定した。同時に、そんなに昨夜のおでんが嬉しかったのだろうかと自分の浮かれぶりを内省もした。
 そのあいだにも夢は進み、新たな厚揚げが舞台の端から飛び出してきた。センターで踊っている厚揚げに、勢いそのままの体当たりをかましている。時東は生まれてはじめて、厚揚げが中身を飛び散らしながらぶつかり合う瞬間を目撃した。
 陽気な音楽から急転、もの悲しい音楽がかかり始める。割れかけの厚揚げが舞台の上で倒れ伏している。我が夢ながらシュールだ。
『なによ! なんなのよ!』
 どこから声が出ているのかは謎だが、体当たりした厚揚げが悲劇のヒロインよろしく嘆いている。
『あなた今までずっと私を食べるときは、辛子で食べてくれていたじゃない!』
 目もないはずなのに、恨みがましく見つめられている気分が半端ない。まるで修羅場だ。厚揚げなのに。
『なのになんで……!』
 厚揚げだけでなく、大根とジャガイモも自分を見ている気がして、ますます腰が引ける。自慢ではないが、そんな修羅場を経験したことはないのだ。
『昨日に限って、生姜醤油なのよ!』


[3:時東はるか 11月19日7時5分]


「おい、時東。いつまで寝てんだ」
「……南さん」
 肩を揺さぶられ、時東は目を覚ました。窓からは朝日が差し込んでいる。昨日の部屋だ。そうだった。ひさしぶりに酒の味がわかって、嬉しくてはしゃぎ過ぎた。そのテンションで飲み過ぎた。
「なんか、悪夢だった」
 毛布から抜け出して、時東はひとりごとの調子で呟いた。座卓の上は綺麗に片付いている。自分が潰れたあとに南が後始末をしてくれたのだろう。
 時東は自分が酒に弱いと思ったことはなかったが、南は遥かにその上を行っていた。ザルじゃない、あれはワクだ。
「悪夢? あれだけ酒飲んで大はしゃぎしたと思ったら、寝たら悪夢かよ。大忙しだな」
「ごめんなさい」
「べつにいいけど。美人局とかに引っかかって、妙な写真、撮られねぇようにしろよ、芸能人」
「しないから。というか、なんなの、その南さんの妙に偏った知識」
 若干、昨日の酒が残っている。頭の芯が重い。座卓に肘をついて項垂れていると、全く酒の残ってなさそうな声が落ちてきた。
「飯食うか? 吐くか?」
「その二択止めてあげて、南さん」
 折角おいしくいただいたものを吐き出したくはない。
「でも、気持ち悪くはないから大丈夫。ちょっと頭が痛いだけ」
「そらあれだけ飲んだら、そうもなるだろ」
「南さんはなってないじゃない」
「俺はな」
 強いですからと言わんばかりだ。俺も、もう少し強くなりたい。時東はそのまま座卓に撃沈した。ついでにもう少しだけでいいから休みたい。
 座卓の冷たさが心地いい。頬を押し付けて目を閉じていると、なにかが座卓にとんと置かれる音がした。薄っすらと目を開けると、鈍色の湯呑。
「蜂蜜柚子」
 湯呑に手を伸ばすと、じんわりとした温かさが染み渡った。
「蜂蜜は二日酔いにいいらしいぞ。体感したことはねぇけど」
 二日酔いの経験とかないんだろうなぁ、この人、と時東は思った。それはちょっと羨ましい。そして、嬉しい。心の底から。
「マジありがとう、南さん」
 珍しく計算のない笑みを浮かべた時東の鼻先に、鍵がぶら下がった。キーホルダーもなにもついていない剥き出しのそれである。
「俺、もう店出るから。おまえ、酔い醒めるまで休んでろ。バイク乗るのはそれからな」
「え? 鍵は?」
「郵便受けにでも入れといて」
 鍵を受け取ったまま瞳を瞬かせる時東を一瞥し、南は居間を出ていく。ガシャンという玄関の戸を閉める音に、時東はようやく口を開いた。
「行ってらっしゃい」
 当然のごとく返事はなかったものの、気分の問題だ。しかし、それにしてもなんて雑さだ。おかげで、取扱いに困るものを預かってしまったではないか。
 すすっと鍵を机の端に置いて、とりあえずと湯呑に口を付ける。
 ――郵便受けに鍵、って。どこの田舎の昭和ドラマだよ。いや、まぁ、南さんも平成生まれだと思うけど。
 なんとなく、ザ・昭和なイメージがあるけれども、だ。たぶん、そこまで年は離れていないだろう。年上であることに間違いはないと思うが。
 ――でも、なんか、見たことある気もするんだよなぁ。
 そう思ったところで、時東は苦笑を浮かべた。昨夜覚えた懐かしさといい、自分はなにをどこまで南に投影するつもりなのか。
 もう一口、ごくりと蜂蜜柚子を飲む。
「甘い……」
 胃に広がったやわらかな甘さに、なぜか、幸せだな、と思った。
 朝の陽ざしが入ってくる、誰かの気配が残る部屋で、ひとり。時東の手には自分のために淹れられた味のわかる飲み物がある。この空間は、間違いなく優しさに満ちている。
 収録が長引いた苛々、だとか。いつまで経っても新しいフレーズを生み出せない行き詰り、だとか。そういったものが、飲み物と一緒に流れ落ちていく感じがした。


「あれ、なんだ。凛、いないのか」
 もう帰ろうかな、でも、本当にポストに鍵を入れたんでいいのかな。そう思い悩んでいた時東の前に現れたのは、若い男だった。
 これぞ田舎というべきか、開いていた玄関から入ってきたらしい。勝手知ったると言わんばかりの飄々とした態度。だが、男のまとう雰囲気は、時東の業界でよく見る華やかなものだった。
 部屋からちょっと出てきただけのような服装にもかかわらず、とんでもなく目を惹く美形。時東は自分が雰囲気イケメンの部類と自認しているが、こちらは正真正銘の美形である。
「ええと」
「あ、どうも、はじめまして。春風です。凛ちゃんの幼馴染みなの」
「南さん、凛ちゃんって言うんだ」
 似合わないと思ったことが顔に出たに違いない。春風と名乗った男が相好を崩した。顔に似合わない気取らない笑い方に、たしかに幼馴染みっぽいな、と納得する。
 なんというか、時東に必要以上の興味を示さないところも含めて。
「似合わないでしょ。凛太朗だけどね。凛って呼ぶと嫌がるから、俺はそう呼んでるんだけど」
「まぁ、……そう、かも」
「でしょ? あいつ、このあいだも、近所のおっちゃんに、店で凜ちゃん呼ばわりされたらしくてさ。子どもに爆笑されたって根に持ってたから、今のタイミングで呼ばないほうがいいよ。間違いなくしばかれる」
「気をつけます」
 簡単に想像が付いた未来に、時東は苦笑して首を振った。そのついでに、ゆっくりと立ち上がる。ちょうどいいタイミングだ。
「あの、春風さん。戸締まりお願いしてもいいですか?」
 鍵を手渡すと、春風が「あぁ」と笑った。
「雑だろ、あいつ」
「郵便受けに入れて帰る気には、さすがになれなくて。でも、お店にお邪魔したら迷惑だろうし」
「だろうね。了解」
 否定せずさらりと請け負った春風に、同類だなぁと改めて時東は思った。空気感が南と似ている。長いあいだ一緒にいる幼馴染みとやらは、こうなるものなのだろうか。
 すごいなぁとは思うが、羨ましいとは思わない。
 時東は、友情だとか、親友だとか、仲間だとか、恋人だとか。そういった絆をあまり信じない。他人の関係を否定する気はないけれど、自分にはないと思ってしまうのだ。それを誰かに言うつもりも、もうないけれど。
 気ままに寛ぎ始めた春風に暇を告げ、バイクに鍵を差し込む。
 空が高い。まだ秋の空だ。
 今日はきっと良い一日になるなぁ。自然とそう思って、時東はエンジンを回した。また二週間後、逢いに来よう。できれば次はもう少し早い時間に。東京まで二時間弱。
 ここまで来る道のりはあっというまなのに、帰る道のりは随分と遠く感じてしまう。現金な思考を閉じ込め、町道を行く。国道に変わるまで、あと少し。
 二日酔いは、すっかりどこかに引っ込んでいた。