時東を誘蛾灯のごとく誘う南食堂の、灯りがない。
 街灯の少ない田舎道に沿って愛車を走らせること、二時間弱。切ない現実に打ちのめされながらも、時東は店の前にバイクを停めた。
 ヘルメットを外して頭を振れば、前髪が夜風に流れていく。すりガラス越しに見える店内は真っ暗で、当然ながら人がいる気配は感じられなかった。
「……でも、まぁ、あたりまえか」
 田舎は灯りが少ないが、代わりに月や星がよく見える。陳腐な歌詞のような現実を、時東は今夜も実感する。
 都会生まれの都会育ちなので、すべてここに通い始めて知ったことだ。その暗闇の中、じっと店を見つめる。帰りがたかったのだ。
 ――まぁ、でも、しかたないよな、誰もいないんだから。
 言い聞かせるべく、心の内で繰り返す。ついでに、溜息もひとつ。心境としては「こんなはずじゃなかった」の一言に尽きている。
 結果として、収録は想定外に長引いた。ご意見番を気取っている自称大物が臍を曲げたせいだ。
 若手の時東に「いいかげんにしろよ」などと言えるわけもなく。二時間強のオーバーで、なんとか終了。本当に老害も大概にしてほしいところだ。
 このあとの予定は諦めたらどうですか、と取り成す岩見を押し切って飛び出した理由は、半ば以上意地だった。けれど、淡い期待を抱いていたからでもある。
 ――近いうちに出直そう。明日は無理だけど、明後日なら、うん、なんとか。
 脳内で予定を確認しているうちに、少しばかり気分も上向いた。そうだ。また来ればいい。
 踏ん切りをつけてヘルメットを被り直そうとした、まさにそのとき。食堂の奥手で砂利を踏む音がした。
 その音が、規則正しく近づいてくる。
「時東?」
「へ? 南、さん?」
 視認した人影に、時東は目を擦りたくなった。自分の願望が幻覚になったかと疑ったからである。
 けれど、迷惑そうな表情を隠しもしないその人は間違いなく本物で。
「あ、そっか。裏口?」
 あるのか、と。いまさらながらに思い至った。
 そういえば、はるか昔にアルバイトをしていた飲食店も、裏口にごみ置き場やその他諸々があったような。そうしてそこから帰っていたような。
 思えば、カウンターの外にいる南を見たのは今夜がはじめてだ。いつものエプロンを外した姿は、時東の目に新鮮に映る。
「なにしてんだ、おまえ。こんな時間に」
「え? いや。というか、南さんこそ、まだいたんだね。遅くまでお疲れさま」
 会話になっていないと思ったのは、たぶんお互いさまだ。
 なんか、これ、好きな人と道端で遭遇した中学生みたいだな。思いついた比喩を打ち消して、へらりと笑う。
 南の質問は真っ当な疑念であるのだが、「いないだろうなってわかってたんだけど、万が一に賭けて押しかけちゃいました」とはさすがに言いづらい。
 黙って笑顔を見つめていた南が、根負けしたように頭を掻いた。
「おまえ、明日は朝早いの?」
「え、……ううん。明日は夕方からラジオがあるだけだけど」
「おまえが不吉なこと言うから売れ残ったんだよ。着いてくるか?」
 手にしていたなにかを示すように持ち上げた南が、時東の横をすり抜ける。その先にあるのは一本道の町道だ。
「すぐ近くだから、バイク押して来いよ」
「え? え、南さん? ……いいの?」
「店の前に停めておかれるほうが迷惑」
 そういう意味で聞いたわけではなかったのだが。あっというまに先行く背中が消えてしまいそうで、時東は慌ててバイクを方向転換させた。
 少し前を行く影が、月の光る道で濃く映える。南が持っていたなにかがタッパーだと時東は遅れて気がついた。
 タッパー。おでん。前回の帰り際、たくさん売れ残っていたらいいなと俺が言った。
「南さんが女の子だったら、俺、お嫁に来てくださいって泣いて縋ったかもしれない」
 うっかり口から零れたそれは、しっかり前行く背中に届いたらしい。返ってきたのは、笑いを含んだ声だった。
「家に女兄弟はいねぇから、安心しろ」
 いや、たぶん、これも、そういう意味ではなかったのだけれど。
 だが、しかし。どういう意味だと問い直されても、答えに窮するに違いない。誤魔化すように「残念だなぁ」と時東は笑った。
 都会ではめったと聞けない、コオロギの震えるような鳴き声が足元から響いていた。


[2:時東はるか 11月18日23時32分]


 南食堂から町道に出てすぐの丁字路を左に折れる。車が行き交うことは難しいレベルの細い道だ。バイクを押しながら、緩やかな傾斜を上ること数分。
 南の足が止まったのは、木造の二階建て家屋の前だった。田舎らしい庭付きの一軒家。ほかにも家族が住んでいるような雰囲気だったが、屋内の電気は点いていない。
「あの、南さん」
 門扉を開けずんずんと進んでいく背中に、時東は思わず声をかけた。
「俺が言うことでもないと思うんですが、こんな時間にやってきて大丈夫だった?」
「あー、俺ひとりだから大丈夫」
「ご旅行?」
「いや、もう、俺ひとり」
 南が建てた家ではないだろうから、実家であることは間違いないだろう。ということは、両親は諸事情で別居をしているか、あるいは、もういないか、だ。
 判断しかね、時東は曖昧に相槌を打った。自分が介入する話ではない。玄関の明かりを灯した南が、ようやく時東を振り返った。
「おまえ、案外、真面目というか、常識あんのな」
「それ、芸能人のくせにって言ってます? だって、俺、二世ちゃんとかじゃないもん。つい五年前まで普通の学生だったんだし、あたりまえじゃん」
「いや。いい家で育ったんだろうなって思っただけ。食べ方もきれいだし」
 思いがけず褒められて相好を崩しかけた時東だったが、続いた言葉に口を尖らせる羽目になった。
「まぁ、片道二時間かけてこんなところに押しかけてる時点で、馬鹿だろうとは思ってたけど」
「ちょっと、南さん?」
「バイク、そのへんに置いといて」

 玄関を開け広げにしたまま、南は家の中に入っていく。遠ざかる廊下の軋む足音を耳に、指示された場所にバイクを停めた。
 店の外で会うことははじめてだが、店で会った回数も両手の数を超えていない。だというのに、南の態度は気心の知れた友人に対するもののようだ。嬉しくないわけではないけれど、どこかこそばゆく、少しだけ落ち着かない。
「南さん? 入るよ」
 玄関の土間で一声かけると、奥から応えがあった。時東からすれば、信じられない不用心さだ。先ほども感じたことだが、これが田舎の距離感というやつなのだろうか。そんな偏見を抱きつつ、玄関の鍵をかける。さすがに開けたままにはしておかないだろう。たぶん。
 声のした方向に向かって廊下を進む。足先から伝わる冷たさが、田舎の祖父母の家に遊びに行ったときの感覚を時東に思い起こさせた。
 ――そうそう、マンションとかに比べて、一軒家って底冷えするんだよな。
 年末に顔を出すと、居間の炬燵で顔を突き合わせ他愛もないことを話したものだった。連想して浮かんだ記憶に、ふいに懐かしくなった。
 はじめて来た場所なのになぁ、と内心で苦笑しつつ、開いていた襖の先に顔を出す。どうも、ここが居間のようだ。しかし、肝心の家主が見当たらない。
 来たばかりの廊下に視線を戻すと、ちょうど南が入ってくるところだった。
「あ、南さん」
「適当に座ってたらいいから。ほれ、上着」
 手を差し出され、時東は慌てて上着を脱いだ。いまさらだが、ちょっと図々しかったかもしれない。
「なんかいろいろとすみません……」
「なにをいまさら」
 あ、やっぱり、いまさらだった。へらりと眉を下げた時東の上着をハンガーにかけた南が、座卓のほうを指差した。
「汚くはないから。適当に座布団使って」
「あ、うん」
 ありがとう、と頷くと、南はまた居間を出て行ってしまった。
 テレビと座卓、そうして作り付けの本棚に飾り棚。ひとりで暮らすには十分すぎる広さの座卓の前におずおずと座り、時東は部屋を見渡した。
 懐かしい家の匂いがする。怒られても困るので口にはしないが、祖父母の家のような温かさ。必要最低限のものしかない、時東のマンションとはまったく違う。
 他人の家に――それもはじめて訪れた家だ――ひとり取り残されている状況だというのに、なんだか妙に落ち着く感じがして。それがどうにも不思議だった。
「まぁ、でも、南さん自体が不思議だからなぁ」
 唯一、時東の味覚を刺激する料理を出してくれるという一点に置いて。ぽろりと零れたひとり言に、焦って時東は背後を振り返った。
 よかった。いない。突っ込まれずにすむ。安堵を抱いて座り直してすぐ足音が戻ってきた。
「お帰り、南さん。――あ、おでんだ」
 南が手にしていたそれに、自然と顔がほころぶ。タッパーに、缶ビールが二本。
「まだ温かいから、このままでいいだろ。おまえ、もう泊まってくよな? 酒飲める?」
「へ?」
「へ? って、おまえ、このあと東京まで戻るつもりだったの? 明日、朝から予定ないんだよな」
 目を瞬かせた時東に、南はさも不思議そうな顔で答えを待っている。据わりが悪くなったのは、時東のほうだった。
「なんというか。南さん、不用心だな、と。俺が悪さしたら、どうするの?」
「俺よりどう考えても金持ってそうなのに?」
「わかんないじゃん、そんなの」
「なに。おまえ、まさかその年でギャンブルとかで、資産食い潰してんの?」
「いや、してないけど」
 そこはさすがに否定しておきたい、人間的な信用の意味で。首を振った時東に、南は「なら、いいだろ」と缶を一本突き出してきた。
「あんまり無理な運転するなよ、おまえ。若いつもりか知らねぇけど。必要ないなら午前様に単車転がすなって」
「いや、……うん、仕事柄、普通の人より運転には気をつけてるつもりだけど。まぁ、そうだね」
 もごもごと応じて、でも、まぁ、あれだな、と時東は納得することにした。俺より南さんのほうが強そうだもんな。自分のほうが一応身長は高いが、ガタイはそう変わらない。というか、腕相撲でもすれば、かなりの確率で負ける気がする。
 缶ビールを受け取って、時東はへらりとほほえんだ。
 いっそのこと、俺の笑顔で女の子みたいに南さんが絆されて、もっといっぱい料理を作ってくれたらいいのになぁ。それであわよくば俺の家まで持ってきてほしい。詮無いことを妄想しながら、缶を軽く持ち上げる。
「ね、ね、乾杯しよ。南さん」
「乾杯? なにに?」
 面倒くさそうに缶のプルトップを開けて、南が視線を上げる。睨んでいるわけではないのだろうが、睨んでいるように見える。よく言って目力の強いタイプだ。とどのつまり、目つきが悪い。
 はじめて見たときは、客商売に向いていない顔だと思ったが、そんなことはなかった。本当に人間、顔じゃない。
 だって、南の店はものすごく落ち着くのだ。適度に放っておいてくれる南の接客は、ひどく居心地がいい。少なくとも、時東にとって。
「じゃあ、南さんに」
 有無を言わせず、かちんと缶を当てに行って、ビールを口にする。次の瞬間、時東は瞠目した。味がする。南の手作りじゃないのに、味がした。苦みがあった。
「なんで俺だよ」
 納得のいかない顔でぼやく南をまじまじと見つめ、時東は呟いた。
「いや、やっぱり南さん、俺の神様だわ、ガチで」
 頭大丈夫か、おまえ、と言わんばかりの視線にも、時東の笑顔は崩れなかった。神様だと思えば、なんの支障もない。そうか、この人と食べれば味がするのか。
 それは間違いなく世紀の大発見だった。