「だから。本当にいいって。いいから、大丈夫」
 玄関からこの台詞が聞こえるのは、たぶん、これで三度目だ。
 回数を重ねるごとにうんざりとしていくさまがおもしろく、時東はそっと眦を下げた。聞き耳を立てるものではないとわかっていても、つい耳を澄ましてしまう。
 まぁ、居間にいる以上、ある程度はしかたがないということにしておく。
 少しでも役に立ちたいという健気な決心で、作業場を二階から移したはいいものの、来客対応を代わることは、いろんな意味で難しい。
 そんなわけで、呼び鈴が鳴るたびに、結局、南が重い腰を上げているのだった。
 春風が帰ってすぐに訪ねてきたのが、そもそもの原因だったらしい榊のおばあちゃんで、煮物の入った鍋を抱えてのご来訪だった。
 ありがたいけど、帰るときに転ぶなよ、なんて。心配して外まで見送りに行く様子は、春風の言ではないけれど、本当に祖母と孫という感じだった。
 そうしてふたり目が、「どうせ怪我するなら、凜ちゃんじゃなくて、うちのろくでなしならよかったのにねぇ」と笑いながら現れた春風の母親で。
 増えたタッパーを抱えた南に「おまえがいてよかった」と言われたわけだが、どうせなら違う意味で聞きたかったな、と思う。
「そんなこと言ったって、その足、半分は春香のせいなんでしょ? それを聞いたらさすがに放っておくのも悪いじゃない」
 それで今回の三人目が、件の少女の母親であるらしい。
 姉弟のやりとりのようでほほえましいものの、遠慮ではなく本当に要らないと言っていることもわかるので、ほんの少し気の毒だ。
 ――なんていうか、南さんって押しに弱いんだよな。
 なんだかんだと言ったところで、人が良くできているに違いない。
 なにせ、さした交流のなかった人間を、家にぽんと何日も泊めるくらいだ。自分だったら絶対にできない。
「だから、本当に大丈夫だって。春香のせいじゃないし、ひとりで問題ないし。仮に問題が起きても春風呼んだらいいんだし」
「そんなこと言って。あんた、いざってときに誰も頼らないじゃない。いいから、ちょっと甘えておきなさい」
「だから、ひとり暮らしの男の家に入り込むな。おい、麻美!」
「なによ、昔は麻美お姉ちゃんって智春と一緒にあたしの後を付いて回ってたくせに……って、え?」
 近づいてくる声の勢いのまま、がらりと居間の障子戸が開く。
 あ、この人も春風さんと同類だ。こう、なんというか、躊躇なく人の家に入ってくるタイプ。そんなことを考えながら、時東はにこりとほほえんだ。笑う以外にどうするべきか、ちょっとわからなかったので。
「え? え? 時東はるか!?」
 思いきり指を指されてしまったものの、愛想笑いのまま曖昧に首を傾げる。
 追いついた南が時東よりもよほど頭の痛い顔をしていたが、これはもう南のせいだとか、そういう話ではないだろう。
 むしろ、今まで誰にもバレなかったことが奇跡なのだ。そういったわけだったので、「べつになにも気にしていませんよ」を体現する調子で、時東は愛想の良い声を出した。
「あ、どうも。こんにちは」
 それに、まぁ、南の知人と思えば、愛想を振ることくらい、まったくわけはなかったので。
 にこりと向けた笑顔の奥。珍しく苦い顔で、南は溜息を吐いていた。


[23:時東悠 1月26日17時05分]


「なに、なに。なんなの? あんたの友達? 信じられないんだけど!」
 ここまでまっすぐに驚く反応も、正直ひさしぶりだなぁ、と思いつつ、時東はにこにこと愛想良くほほえんだ。
 東京の街中だと、気がつかれたとしても隠し撮りがせいぜいなので。
 ――まぁ、知人の家にいるっていう状況とは、びっくり度は違うだろうけど。
「すみません、お邪魔してました」
 という申し訳なさ込みで笑いかければ、驚いていた顔がぱっと赤くなった。「やだ、あたし、すっぴんだった」なんて言いつつ。手櫛で髪を整え始めた彼女に、南が呆れた声をかけた。
「だから、勝手に人の家に入るなって言っただろうが。おまえ、もう三十だろ。落ち着きねぇな」
「ちょっと、まだ二十九なんだけど。というか、なんでここでそういうこと言うわけ? 本当そういうとこ!」
 デリカシーもなにもないんだから、と言い捨てたところで、長々とした溜息。ようやく興奮が治まったらしい。
「なんでって思ったけど、そういや、テレビのロケであんたのとこに来てたんだっけ。え? もしかして、そこからの付き合いなの?」
「……まぁ、そう」
「なによ、だったら教えてくれてもいいのに」
「やだよ。煩そうだもん、おまえ。実際、今、煩いし」
 にべもなく切り捨てる調子に、時東はそっと苦笑した。自惚れではなく、自分のことを配慮してくれていたのだと知っている。その時東を視線で示し、だから、と南が言う。
「こいつもいるし、麻美が手伝ってくれなくても問題ないから。春香、待ってるだろ」
「まぁ、それならいいんだけど」
「あと、それと、怒ってないっておまえからも言っといて。またすぐに遊べるから気にすんなって」
 その言葉に、彼女は悩ましそうに眉を寄せた。そうして、芝居がかったふうに、ひとつ溜息を吐く。
「あんたがそうやって甘やかすから、うちの娘の報われない初恋が終わらないのよね。この調子であの子が思春期に差し掛かったころに、あんたが結婚でもしてみなさい。ぐれるわよ」
「誰が」
「春香が、に決まってるでしょうが」
「そんなわけないだろ。そのうち、同級生を好きになるに決まって……」
「その台詞、去年も一昨年も聞いたんだけど?」
 姉弟のような会話は変わらずほほえましいはずなのに、なぜだか苦笑をすることができなかった。
 ――結婚。結婚、か。
「ねぇ、ちょっと。時東さん。この愛想のない男のなにがそんなによかったの」
 その声に、はっとして時東は表情を取り繕った。なんでもないふうに、ほほえむ。いつもどおりの、らしい顔で。
「落ち着くんです、ここ。それで、俺も南さんについつい甘えちゃってて」
「ここが?」
 信じられないと跳ね上がった声に、同意を示して頷く。この町が、というよりは、南の傍が、ではあるのだけれど。それは言う必要のないことだ。
「あたしからしたら、なにもないところですけどねぇ。東京の人から見たら、そんなものなのかなぁ」
「麻美」
「わかった、わかった。わかりました。帰るし、誰にも言わないわよ。安心しなさい」
 おざなりに南に言い放った彼女が、時東に向かい軽く頭を下げた。
「それじゃ、時東さん。面倒かけますけど、よろしくお願いしますね、それ」
「あ……、いや、その、俺で役に立つことであれば」
「やせ我慢ばかりする意地っ張りなんで、適当に手を貸してやってください」
 騒々しさの薄れた母親然とした態度に、曖昧に時東は頷いた。そうする以外できなかったのだ。
 ここは、この人の世界なんだな。そんなことを思ってしまった。
 この人が生まれ育って、生活する世界。本来だったら、自分が存在しない世界で、自分がいなくても、なにも問題はなく回っていく世界。

 ふたりになるとすぐ、「悪かったな」と南が言った。バツの悪そうな調子に、思わず「え?」と南を見上げる。
「うちの親が死んでから、気ぃ使うやつが増えて。煩かっただろ」
 言いにくそうに付け加えられた台詞に、時東はへらりと笑った。
「南さんが大事にしてる分だけ、大事が循環して返ってきてるってことでしょ」
 この町を。そうしてこの町に住む人tたちを。南が大切に思っていることは、日常の一端を覗き見ているだけの時東にだってわかる。
 どういうかたちであれ自分も組み込まれたらいいなぁ、と思ったこともあったけれど。
「すごいいいことじゃん」
 なんでもないように笑い、手元に視線を落とす。ペンを握りしめたままだったことに、時東はようやく気がついた。
 開けたページは、ずっと白いまま。
 苛立ちなのか、やるせなさなのか。自分でもわからない感情をどうにか飲み下す。感情の赴くままに詩を書くことができたのは、本当に子どもだったころのことだ。
 心から楽しいと思うことも、誰かに伝えたいと思うことも、いつしかなくなって。けれど、必死に絞り出して誤魔化していた。時東はるかの歌詞は心に刺さらない。そう評されていることも知っている。
 恋だとか愛だとか。友愛だとか、信頼だとか。そういったものを、時東自身が信じていないからなのだろうか。
 かつて持っていたはずのあたたかななにかが抜け落ちてしまったからなのだろうか。だから、心に響くものを書くことができないのだろうか。
 悩んでいたものの、曲を作ることができるうちは、それでもどうにかなっていたのだ。どうにもならなくなったのは、曲を作ることができなくなったからだ。
 挙句に味覚までおかしくなって、なにもかもがいっぱいいっぱいで。でも、相談する誰かもいなくて、真っ暗な底にいたとき。
 この人に出逢った。出逢うことができた。出逢うことができて、そして。
 ――ここに来て、少しずつ書けるような気がしたのは、この人の近くだったから、だ。
 それなのに、また書くことができなくなった。歌詞も曲も、なにひとつ生み出すことができない。その理由を深掘りしたくなくて、時東は笑って繰り返した。
「うん。いいことだと思うな、俺は」
「時東」
 呆れた声が思いのほか近くで聞こえ、顔を上げる。時東の正面に腰を下ろした南は、声同様の渋い顔をしていた。だが、怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもないらしいことはわかった。そのくらいはわかる。
「おまえさぁ」
「なに? というか、座ってから言うのもなんだけど、椅子のほうが楽じゃない? 持ってこようか」
「いや、べつに。そこは本当に気を使わなくていいから。気にするな。というか、そうじゃなくて」
「でも、今も正に頼まれた直後だし」
「あのな」
 へらりと笑った時東に、南の眉間の皺が増えた。余計な世話を焼き過ぎただろうか。小首を傾げると、今度は溜息。どうしたものかと思っていると、南が口を開いた。
「笑えてない」
「……え?」
「おまえ、ぜんぜん笑えてない」
 その指摘に、時東は瞳を瞬かせた。ずっと笑っているつもりだったからだ。愛想笑いは得意中の得意で、それなのに、なんで。
 意識すると途端に失敗している気がしてしまった。ぎこちなく笑みを浮かべる。
「やだな、南さん。そんなことないでしょ、ほら」
 いつもの笑顔の作り方を、時東は知っている。テレビのカメラが回っているときに、不機嫌な表情なんてできないから。この五年で、ますますうまくなったのだ。機嫌の取り繕い方も、体調が悪くてもそう見せない方法も。
 そのはずなのに、南の渋い表情は変わらなかった。
「いや、笑えてないから。変な顔しなくていい」
「変な顔って。だから、そういうこと言わないでってば。でも、どうしよう。さっきの……麻美さんにも? 俺、笑えてなかったのかな。どうしたんだろ、疲れてたのかな」
 時東はるかのイメージが悪くなっちゃう。茶化した時東の言葉尻に乗る気配は見せないまま、「あいつは気づいてなかったと思うけど」と南が応じる。
 その言葉に、時東はほんの少しほっとした。なんだ。ということは、できてるんじゃないか。
「ただ、なんだ。テレビで見る顔してるっていう話」
「テレビで、って……」
「おまえ、去年はそんな顔してなかっただろ」
 淡々と告げられ、時東はぎゅっとペンを握りしめた。身体の中のどこかがたまらなく痛かった。あんたがそれを言うのか、と言いたい衝動が渦巻いている。
 あんたが距離を置こうとしたから、これ以上は踏み込むなと言ったから、だから――。
「だから戻っていいって言ったんだよ。そんな顔してるやつ、引き留められないだろ」
「なにそれ」
 ぽろりと非難がこぼれた。一度こぼれたら、もう駄目だった。次から次へと際限なくあふれ出していく。
「それで帰れって言ったの? なに、それ。そんな顔してるんだったら、むしろ置いてやってよ」
「なんでだよ」
「なんでだよって。南さんにはないの、こう、俺がふつうに笑わせてやるとか」
 そういうのさぁ、と言いかけたところで、時東は我に返った。
 自分の口から飛び出した言葉の恐ろしさに気がついたからである。
 おまえが笑わせろ? どんな期待を、俺は他人に押しつけようとしているんだ。そんなものはこりごりだと思っていたはずなのに。
「時東?」
 気遣う呼びかけに、「なんでもない」と必死に笑顔を取り繕う。
「ごめん。南さんには、南さんが大事にしてる世界があるんだなぁって。それだけ」
 へらりとした笑みで、へらりとしたことを時東は言った。笑っていることにしてほしかった。踏み込んだあとに拒絶されることは怖い。捨てられることは怖い。
 だから、時東も線を引き直したのだ。この場所がなくなるよりはいいと、そう思い切って。だから、だから。そちらもそのつもりだったのであれば、世界を広げるつもりがないのであれば、急に踏み込まないでほしかった。
 そうでないと、どうしていいのか、わからなくなってしまう。
「そんなセンチメンタルなことを、ちょっと考えてました。今、絶賛、制作活動中だったので」
 だから、この話はこれで終わり。そう告げるように、時東は視線をノートに向け直した。なんでもいい。適当に文字を書けばいい。わかっているのに、指先は笑えるくらい固まってしまっていた。
 ――嘘も、適当にやり過ごすことも、得意だったはずなんだけどな。
 悩んでいるていで溜息を吐くと、また声がかかった。
「おまえにだって、おまえの世界はあるだろ」
「どうだろう。まぁ、あるのかな」
 なんで、そんな慰めるようなことを言うかな。思ったものの、八つ当たりに近い感情の気がして、精いっぱい愛想の良い相槌を打つ。
「同じ場所で生活してるうちにできあがっていくもんだろ。そういうものは」
「うん、でも、そうだなぁ」
 みんながみんな、南さんみたいには生きていけないんだよ。拗ねた子どもの台詞に、ひっそりと蓋をする。俺が大切にしていたつもりの世界はどこに消えたんだろう。過ったそれに、時東は愕然とした。
 これは、駄目だ。自分で言うのもなんだとは思うけれど、精神的にかなり落ちている。
「この家にも」
「え?」
「いや、だから、この家もそうだって言ってんの。おまえがしばらく居座ってただけでも、おまえの場所はできただろ。そういうもんなんだよ」
 視線を上げて後悔した。顔を見るつもりなんて、なかったのに。
「悪かったな。説教臭くて」
 自分はいったいどんな表情をしていたのだろうか。謝られてしまい、時東は慌てて言葉を継いだ。笑うことは、今度こそできていなかっただろうけれど。
「いや、べつに。そういうわけではなくて」
 本当に、そういうわけではなくて。でも、だとしたら、どういうわけなのだろう。自分で自分の感情をコントロールできないことは、時東は嫌だ。だから、いつだって、「時東はるか」の仮面を被って生きていた。それが最善と思っていたかったからだ。
 そうすることは、楽だった。仮面を被っていれば、生身の自分が傷つくことはない。ぐっとペンを握りしめる。
「なんというか」
 誤魔化すつもりだった台詞の続きが、急かすでもなく話を聞く瞳を認識した瞬間、消え失せてしまった。心の奥底に閉じ込めていた破片が、ぽろりとこぼれおちる。
「俺もここの一部になれてたのかな」
 それは、ずっと。この家にはじめて招かれたときから、心のどこかにあった時東の願望だった。
 この場所は、この家は、この人の隣は、いつのまにか、時東にとって、心の安らぐ唯一になっていたから。
「まぁ、現に今、助かってるしな。おまえがいるおかげで」
「……そっか」
 あいかわらず、甘いなぁ。そんなふうに思ったら、なんだか泣きそうになってしまった。けれど、べつに、自分が特別というわけではないのだろう。
 たとえば、この人の幼馴染みである人にも。この人はあたりまえに同じようなことを言うのだ。どろりとあふれたのは、少し前の記憶だった。
 ――俺がなにを言ったところで、時東くんの眼には、そういうふうに映っちゃってるんでしょ。
 余裕たっぷりの顔に微笑が浮かぶ。計算され尽くした、自分の魅せ方をよく知っている人間のそれ。時東と同じようで、少し違うもの。
 ――でも、まぁ、いいんじゃないの。そんなに深読みしなくても。だって、あいつにかわいがってもらってるでしょ、時東くん。少なくとも、今は。だったら、それでいいじゃない。
 それだけで満足していたら、問題はなにもないだろう、と牽制するように。言葉の意味を理解した時東の胸に沸いたのは、怒りとも嫉妬とも羞恥とも言い切れない、どろどろとした感情だった。
 なにもかも持っているくせに。他人と比較して自分を卑下したところで、時間の無駄だ。わかっていても、そう思わずにいられなかった。
 なんでも持っているくせに。特別な才能も。優れた容姿も。気心の知れた特別も。
「時東?」
「なんでもない。ちょっとトリップしてた」
 それはある意味で、嘘ではなかったので。苦笑して、今度こそと時東はノートに向き合った。
「やばい。なんかすごく暗い歌ができそうな気がする」
「なんでだよ。おまえの曲、基本的に明るいだろうが。似非臭いくらいに」
 ――もう、本当に嫌だ、この人。
 俺の歌を知らないっていう設定なら、最後まで順守してよ。なんて、言えるわけもなく、「そんなことないよ」とペンの先を見つめたまま時東は応えた。