――なぁんか、また、煮詰まってんなぁ。
 隠さずに溜息を押し出し、時東は弦から指先を離した。「缶詰に来てもいい?」とやってきた直後。まったくなにも浮かばなかった自宅よりは、いくらかメロディラインが浮かぶようになった、と。ほっとしたころが懐かしい。
「煙草」
 吸いたいなぁ、と探そうとして、持ち込まなかったことを思い出した。
 自宅の防音室に籠っていたころの時東は、岩見に心配されるレベルで消費していたものの、普段はヘビースモーカーではない。まして、ここは人さまの家のわけで。いくら良いと言われても、吸うつもりはなかったのだ。
「……まぁ、南さんは、なにも言わないだろうけど」
 吸いもしないのに窓辺に寄って、窓を開ける。凛とした冬の風が肌を射ったけれど、煮詰まっていた頭にはちょうど良かった。
 この家、禁煙じゃないから。吸いたかったら吸っていいよ。春風もよく縁側で吹かしてるから。
 缶詰に来た当初に、南に言われた台詞だ。ありがとうございます。ついでに、そんな些細なことでも当たり前のように春風さんの名前が出てくるんですね。なんて思ったものだった。もちろん言わなかったけど。そんなみっともない上に、意味の分からない嫉妬のようなことは。
 ふぅと切り替えるように息を吐き、時東は眼下を見下ろした。雪は降り止んでいるが、ところどころ白が残っている。いつだったか南が手を入れていた田畑に、その奥に見える南食堂の屋根。
 午前中に出ていったきり、南はまだ帰ってきていない。自分しかいない家は、ひどく静かだった。
 ――なんで、ここだったら、曲がつくれるような気がしたんだっけ。
 あのとき見えた気がした答えの片鱗は、またどこか遠くに行ってしまったようだ。それでも、かたちだけでも音を鳴らしたほうがいい。
 そう決めて窓を閉めようとした、正にそのとき。細い私道を上る軽トラックが視界に入った。珍しいなと思っているうちに、家の前に止まる。
「あれ」
 降りてきた人影に、思わず声が漏れた。春風だ。彼の家がどこなのかは知らないが、南の家に徒歩以外の手段で来たところを見たことははじめてだった。そうして助手席からもうひとり。
 なにが楽しいのか、軒先にたどり着くまでの短い距離をじゃれるように並んで歩いている。自分には絶対に見せてくれない顔。
 ――幼馴染み、ねぇ。
 二十云年一緒に育って、信頼し合って。それは、時東にはまったく想像のつかない絆だった。あるいは、想像さえもしたくない関係性。今度こそ窓を閉めて、ギターの前に戻る。
 春風の顔を見たのは、東京で話したあの日以来だった。


[22:時東悠 1月26日12時25分]


 ――そんなこと聞いて、どうするの?
 馬鹿にしているふうでもなく、悠然と春風がほほえむ。それが、意を決して尋ねた時東への、自分にはないすべてを持つ男の返事だった。
 ――逆に考えてみてよ、時東くん。もし、俺があいつを、きみの言うところの「好き」だったとしたらさ、今のきみを許してると思う?
 それって結局、自分が本気になったら、きみの出る幕なんでございませんよ、ってことなんだろうな。悶々とした気分のまま、時東はまたひとつ溜息をこぼした。ほかに人がいれば鬱陶しいと顔をしかめられるだろうが、誰もいないのでかまわないだろう。
 でも、べつに、とも思う。「このまま」を維持するつもりがあるのなら、そんなことはどうでもいいことだ。
 そもそもとして、過ごした時間の長さも密度もなにもかもが異なる相手なのだ。同じ土俵で張り合えるとも思えない。それで――。
「幼馴染みか」
 ぽつりとひとりごちた瞬間、ふたつの顔が浮かびそうになった。必死になって押し戻す。笑い合っていた期間のほうがずっと長いはずなのに、過るのはそうでない顔ばかりだ。どうせ蘇るなら、笑えよ。それもできないなら、一生出てくるな。
 呪詛のように心の内で吐き捨て、「駄目だ」と頭を振る。
「あー……、なんなんだろうな、これ」
 なんで、ずっと考えないようにしていたことまで、ふつふつと湧き上がるのだろう。
 抱えるだけになっていたギターを脇に置いて、前髪をかきやる。曲ができあがる気はいっさいしなかったし、仮にできたとしてもろくなものではないに違いない。
 ときおり階下から聞こえてくる声が、いやに胸を突いた。

「それにしても、おまえは本当にじっとできないね。ちょっとは大人しく座ってられないの。見てるこっちが気になるんだけど」
「俺はおまえの運転する軽トラの助手席に座ってるほうが怖かった」
「うわ、かわいくない。もしかして、まだ根に持ってんの? 俺がおまえの車、擦ったこと」
「違う。おまえの運転が雑だって言ってんだ」
 どうにもこうにも身が入らず一階に下りると、話し声がはっきりと耳に入った。春風がいることは想定内だったものの、会話の発生源とトーンは少し想定外だ。
 きまりが悪そうな、というか、どこか不貞腐れたような調子。
 ――というか、なんで、台所?
 いつもなら、炬燵のある居間にいるはずなのに。そう踏んで台所の前を通るルートを選択したのだが、間違ったみたいだ。
 とは言え、いるとわかって素通りをすることも感じが悪いだろう。
「お帰りなさい、お疲れさま……って、どうかしたの? 南さん」
 そう思い切って、台所の暖簾を愛想良く捲った時東だったが、目に入った光景に首を傾げることになった。朝と同じように椅子に座っているものの、南の右足にはなぜか包帯が巻かれている。
 反応を示した時東に、もう片方の椅子に座っていた春風が楽しそうな笑みを浮かべた。
「こんにちは、時東くん。さすが目敏いね」
「目敏……、はぁ」
 褒められている気はいっさいしないし、春風に聞いたわけではなかったのだが。
 時東の微妙な返事をものともせず、「まぁ、聞いてよ」と春風が話を進める。
 自分もマイペースだと評されることはあるけれど、この人ほどではないだろうな、と時東は思った。
「見てのとおりなんだけど、右足、捻っちゃったらしくて」
「あれ。俺、フラグ立てちゃった?」
「そんなわけあるか」
 嫌そうに南に一蹴され、「冗談だってば」と慌てて苦笑を返す。
「それはそうとして、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫」
 請け負ったのは、南ではなく春風だった。
「そこまでひどくないらしいから。まぁ、この人、じっとできないからね。歩き回ったら治りが遅くなるとは脅されてたけど」
「なら、まぁ、よかったですけど」
 それは、まぁ、本当にそう思うのだけど。雪道で怪我なんて誰がするかと豪語したあとだからか、どことなく不機嫌そうな顔をしている。
 だが、しかし。春風にとっては、その不機嫌顔もさした問題ではないらしい。説明半分の茶々を入れながら、けたけたと笑っている。
「榊のばあちゃんが転びかけたの支えようとして巻き込まれたんだって。馬鹿だねー、本当。自分は若くて運動神経も良いって過信してるから、そういうことになるんだよ」
「おまえよりマシだ。というか、違う。榊のばあちゃんは関係ない。反対側から春香が突っ込んできたから、こうなったんだ」
「かわいいじゃない。春香ちゃんなりに助けてあげようと思ったんでしょ。あの子、凛のこと大好きだもんね」
「危うく踏みつぶしかけたけどな」
「もっと妙な転び方して、手首捻ったりするよりよかったじゃん。まぁ、踏みつぶしたほうが怪我は少なかったと思うけど」
 なんとなく状況が察せられ、時東もお愛想で笑った。その春香ちゃんとやらは、「遊ぼう」と強請っていた相手に違いない。
 関わり合いの深い田舎ではあたりまえなのかもしれないが、今の自分の周囲とは人付き合いの濃密さがまったく異なっている。
 ずっと面倒だと思っていたはずの濃密な場所に、なんで自分はいるんだろう。ぼんやりと考えていると、「ちなみにね」と春風が時東に水を向けた。
 「その春香ちゃんって、ちょっと先のご近所さんなんだけど。御年六歳。将来の夢は凛ちゃんのお嫁さんらしいよ?」
「おまえじゃなくて俺を選ぶあたり、将来安泰だって言われてたけどな」
 笑うに笑えないまま、曖昧に頷く。
 まぁ、見た目だけなら、女の子は春風さんを選ぶだろうなぁ。王子様的美形ってやつだし。見た目だけなら。
 内心で毒づいて憂さを晴らしていただけだったのだが、含みのある笑みを向けられ、時東はドキッとした。
「それにしても、凛はモテるね。はるかちゃんに」
「え? あぁ、時東も『はるか』なんだっけ」
「そうだけど」
 なんで、そこで自分の名前に思考が直結するのか。幼い子どもの好きと完全に同一視されている現状に、苦笑いで補足する。
「本名は漢字なんだけどね。デビューするときに字面が硬いって話になって、ひらがなにしたの」
 特にこだわりはなかったので、時東に否はなかった。もともと自分を下の名前で呼ぶ人間はほとんどいない。今となっては、家族とマネージャーくらいのものだ。
「なんて書くの?」
「え?」
「漢字」
 予想外に興味を示され、時東は瞳を瞬かせた。
「えーと、悠久の歴史とかの悠で『はるか』。小さいころは女の子みたいとか言われたけど」
「きれいな名前なのにな」
 話の流れで褒められただけだというのに、なんだか妙に落ち着かない。誤魔化すように「そうかな」と笑ったタイミングで、春風が立ち上がった。
「じゃ、俺、帰るわ」
「あれ。もう帰られるんですか」
「時東くんもいるし、問題ないでしょ。とりあえず、今日一日くらい大人しくしときな。榊のばあちゃん、こともあろうか俺の家に血相変えて飛び込んできたんだから」
 あぁ、それで。一緒に戻ってきた理由に時東は納得した。たまたま場所が近かっただけかもしれないけれど、いいな、と思う。ほんの少し、羨ましい。
「いくつになってもセット扱いが抜けないから嫌なんだ、ばあちゃんたちの認識は」
「そんなこと言って。遠い孫よりなんとやらでかわいがってもらってるくせに」
 呆れたふうに言うくせに、春風の声は優しかった。幼馴染みねぇ。今日だけで幾度になるのか知れないことを、また考えてしまった。
 幼馴染みというものは、そんなに特別に大事で、優しくしたい存在なのだろうか。
 時東にはわからない。先ほど羨ましく感じたのは、あくまで物理的な距離の近さに関してだ。この場所で南になにかあれば春風に連絡が行き、春風になにかあれば南もあたりまえに知ることになる。
 時東になにかあったとしても、南が知るのはテレビを通してになるだろうし、南になにかあったとして、時東が知ることはない。あるいは、知るころにはすべて終わっている。あの一件が良い例だった。
 ――でも、変わる気がないなら、それで納得しなきゃ。
 内心で言い聞かせ、愛想笑いを張り付ける。
「じゃあ、安心して、南さん。いつもやってもらってるけど、こう見えて、俺もひとり暮らし長いから。家事全般一応できるし」
「それだったら、ここにいる意味ないだろ、おまえ」
「え?」
 呆れたように言われてしまい、時東は間の抜けた声を出した。その反応をどう取ったのか、言い聞かせる調子で、南が続ける。
「むしろ東京戻っても大丈夫というか。町道のほうも除雪終わってたから。変な裏道選ばなかったら、道路も問題ないだろ」
「俺、要らない?」
 悶々としそうになった感情を呑み込んで、笑いかける。この手の年下の子どもらしい言動に、南が甘いと知っていたからだ。案の定、少しひるんだような顔になる。
「そういう問題じゃ」
「こら、凜」
 渋る言葉尻に被せて、春風の声が割り込んだ。苦笑としか言いようのない表情で、南の肩にぽんと手を置く。
「かわいげのないことばっかり言ってないで。普段面倒見てあげてるんだから、こういうときくらい返してもらいな」
「返してもらうもなにも、誰もそういうつもりで見てねぇよ」
「凜がそうなのは知ってるけど、してもらってばっかりっていうのも案外落ち着かないもんだよ。ねぇ、時東くん」
「それはそうですね。――だから、お願い。面倒見させて」
 茶化すように手を合わせると、諦めたふうに南が息を吐いた。
「まぁ、おまえがいいなら、それはいいけど」
 物言いたげな雰囲気は残っていたものの、気にしないことにして、うん、と頷く。
 それに、どうせ、ひとりで籠ろうが、家事をしようが、曲作りが進まないことに変わりはないのだ。ある意味で、ちょうどいい気分転換かもしれない。
「おまえがいいならって、助かるでしょ、実際ちょっとは。まぁ、本当は、俺が頼まれたんだけどね、拓海くんから。時東くん代わりにお願いね」
「はぁ」
「あぁ、拓海くんって、このあたりのお医者さんなんだけどね。俺らより五才上の昔なじみでもあるんだけど。捻挫の程度がどうのこうの以前に、この人、じっとできないからさ、悪化させないように見張っとけって仰せつかっちゃって」
「だから。子どもじゃないんだから、大丈夫って言ってるだろうが」
 いかにもうんざりといった調子で切り捨てて、「時東」と南が言う。その呼びかけに、時東は慌てて笑顔をつくった。
「こいつの言うことは話半分で流しといてくれていいからな。本当に大丈夫だし」
 大丈夫なことはわかってるけど、それでも、こんなときくらい役に立ちたいものなの。それに、べつに、俺、南さんにお世話してもらいたくて、ここに来てるわけじゃないんだしさ。
 と、言うことができたら、よかったのだろうか。それとも言わないでいる今が正解なのだろか。わからない。わからないまま、うん、と時東はもう一度頷いた。
 きっとこのふたりは、こんなふうに正解不正解を考えながらの会話なんてしないのだろう。
 けれど、ずっと昔は、自分もそうだったのだ。まっすぐに感情をぶつければ、同じだけの感情が返ってくると信じていた。愚鈍なまでに、素直に。傍迷惑にそう思い込んでいた。親友だから大丈夫なのだと、そんなふうに。
 その親友は、自分のそばにはもういない。