窓の外から響いた高い子どもの声で、時東は目を覚ました。
あれ、ここ、どこだっけ。寝起きのぼんやりとした頭のまま、のっそりと布団から這い出る。畳が冷たい。そうだ。また戻ってきたのだった。足元から感じる冷たさで思い出した。
欠伸ひとつでカーテンを引いた時東は、「うわ」と小さな感嘆をもらした。
「積もってる」
一面銀世界。道理で寒いはずである。その寒さをものともせずに遊ぶ子どもの姿に、ふっと笑みがこぼれた。警報が出ているのかもしれない。
警報が出て学校が休みになると、子どものころはうれしかったんだよな。懐かしい記憶に思いを馳せる。不謹慎とわかっていても、なんとなくわくわくしたものだ。
大人になると、そんなことばかりも言っていられなくなるけれど。引きこもる予定だった本日の時東には関係のない話である。
たぶん、東京に戻る三日後は、交通機関も機能しているだろうし。のんきに結論づけて、時東はゆっくりと身体を伸ばした。なんだか、ひさしぶりによく寝た気分だ。
――普通、自宅のほうが寝やすいと思うんだけどなぁ。
そんないまさらなことを考えながら、軽く身支度を整えて階段を下りる。漂ってきた匂いに、そういえば、実家の朝も和食だったなぁ、と。またしても懐かしいことを思い出してしまった。
母親からは「たまには帰ってきなさいよ」と言われているのだが、もう随分と実家に顔を出していない。両親と仲が悪いわけではないものの、実家に帰ると来客が増えるから嫌なのだ。
実家の近所に住んでいて、特別に自分をかわいがってくれた祖母も、デビューして間もないころに鬼籍に入っている。それもあって、ついつい足が遠のいているのだった。
「おう、おはよう」
台所にふらりと顔を出すと、南が新聞から顔を上げた。台所にあるテーブルに畳んだ新聞を置く仕草が、ひさしく見ていない実家の父親と重なって、苦笑がこぼれそうになる。
どうにかそれを呑み込んで、「おはよう」と時東は挨拶を返した。そうしてから、今日の曜日を思い出す。
「そっか、南さん、今日お休みだ?」
「俺はそうだけど。おまえは大丈夫なのか?」
「え? 大丈夫って仕事?」
「そう。このあいだよりずっと積もってるぞ。当たらねぇな、天気予報も」
「大丈夫、大丈夫。俺、二、三日こっちにいるから」
良いのかどうかは聞いていなかったけれど、決定権を委ねられた身である。まぁ、大丈夫だろう。にこりとほほえむと、南がかすかに眉を寄せた。どことなくもの言いたげな表情。
「おまえさ」
「ん?」
「その顔……、いや、まぁ、いいわ、なんでも」
「ちょっと、なに、南さん。気になる言い方しないでよ。俺のかっこいい顔がどうかした?」
意図的に茶化した自覚はあったが、南も南で必要以上に白けた顔をした。
「はい、はい。なんでもない、なんでもない。かっこいい、かっこいい。春風ほどじゃないけど」
「さらっと容姿比べないで! それもあんな規格外の人と」
「そういうことでもねぇよ」
比べるなという指摘が胸に入ったのか、妙に嫌そうに否定する。だが、それ以上の皮肉は飛んでこなかった。軽く溜息を吐いた南が立ち上がる。壁に面したキッチンスペースと、冷蔵庫。そうして、二人掛けの小さなダイニングテーブル。
夜は炬燵のある居間で食べることも多いが、朝や昼はここで食べることも多い。この家に寝泊まりするようになって知ったことだ。
「時東」
いつまで突っ立ってんだ、と呼び寄せられるかたちで席に座る。
相前後して小鍋を火にかけた南に、食べるよな、とほぼ決定事項で問われたので、うん、と時東は頷いた。
優しい味噌汁の匂い。ひとりで暮らすようになってから――味覚がおかしくなる以前からだ――の時東に朝食を食べる習慣はなかった。それなのに、この家にいると、三食きちんと食べようという気になる。
――食べることは生きること、だっけ。
大昔、祖母が言っていたことだ。聞いた当時はよくわかっていなかった。でも、今は少しわかる気がしている。自分のために食事を用意してくれる人がいることの、ありがたさも。
ありがとう、とかけた声に、ん、と愛想もそっけもない返事。なんでもないことのはずが、なんだかどうにもこそばゆかった。
[21:時東悠 1月26日8時40分]
「南さん。今日は仕事お休みなんでしょ? どこか行くの?」
仕事があろうがなかろうが、この家の主の朝は早い。
おじいちゃんみたいだね、と口を滑らせて閉口させた前科があるので言わないだけで、それに近いものがあると時東は思っている。
自分は済ませているにも関わらず、こちらが食べ終わるまで静かに同席してくれることも含めて。
母親に父親に、おじいちゃん。自分はいったい、この人にどんな夢を見ているというのか。内心で呆れつつ、ごはんの残りをさらう。
白米に、大根と玉ねぎの味噌汁。そうして、昨日の残りという煮物と、店でも提供しているお手製のお漬物。はじめて用意してもらったときは、いたく感動したものだ。もちろん、今日も大変ありがたいと思っている。
「まぁ、そうだな。とりあえず雪かきだな」
「雪かき?」
東京生まれ東京育ちの時東には無縁の言葉である。繰り返した時東に、南がわずかに苦笑をこぼした。
「店の前と、あとこの家の周辺。このあたりは道が細いから、除雪車通らないんだよ」
「……手伝おうか?」
断られるだろうなぁとわかっていたものの、一種の様式美というやつである。案の定、湯呑に口をつけた南は、あっさりと首を横に振った。
「あらかた終わってるから。残りもすぐ終わるし、気にしなくて大丈夫」
つまるところ、すでに一仕事は終えているらしい。本当に早起きだね、と言う代わりに、時東はのんびりと呟いた。
「まぁ、俺が手を出したほうが仕事も増えそうだしねぇ」
自慢でもなんでもないけれど、顔の割れている芸能人なので。その時東の本意に、南はたいていの場合、気がつかないふりを押し通す。今日もそうだった。
「慣れてないやつがやると高確率で腰痛めるんだよ」
やらなくて済むならやらないほうがいい、と。なんでもない調子で応じた南が、空いた湯飲みを机に戻す。同じタイミングで、時東も箸を置いた。にこりとほほえむ。
「じゃあ、ありがたくおこもりさせてもらおうかな。南さんも転んで怪我しないでね」
「そこまで年じゃねぇよ」
「それはそうかもしれないけど。――あ、片づけくらいは俺がしておくから。いってらっしゃい」
ごちそうさまでした、と頭も下げれば、好きに過ごしたらいいんだからな、と気遣う言葉が返ってきた。片づけくらいは、去年もしていたはずなのだが。
それとも、春風からなにか聞いたのだろうか。懸念を押し込み、時東は笑った。
「やだな、南さん。ちっちゃい子じゃないんだから、そのくらいやるって。というか、そのくらいやらせてよ」
至れり尽くせりではさすがに落ち着かない。笑ったまま言い切って、食器を手に流しに立つ。
ふと頭の中に「持ちつ持たれつ」という春風の言葉が浮かんだ。今の自分は完全に「持たれて」しかいないのだろう。
でも、せめて「持たれて」いたいと思ってしまう。なにも「持たれない」よりは。
――あ、駄目だ、これ。
あまり考えないほうがいい。昨日の夜、そう決めたことを思い出し、時東は水道のハンドルをひねった。きんとして冷たいけれど、しばらくすれば温かくなるだろう。
冷水のままでやると南が気にするので、きちんとお湯にするようにしているのだ。
注がれる視線に気づかないふりをしていると、「じゃあ、行ってくる」という声が背にかかった。洗い物をしたまま、「行ってらっしゃい」と送り返す。なんだかまるで家族みたいだ。
しばらくすると、玄関のドアを引く音が遠くで聞こえた。そうして「凜ちゃん」と呼ぶ高い女の子の声。ついで聞こえた「だから、その呼び方はやめろって言ってるだろ」という諦め半分の苦言に、時東はふっと笑みをこぼした。「遊ぼう」とゆする声が続くのが、なんともほほえましい。
子どもは本能で「いい人」を嗅ぎ分けるという話をなにかで聞いたことがある。見た目が多少怖かろうが、そういう人には素直に懐くのだ。この人は大丈夫だと本能でわかるから。
どうせ、なんだかんだと言ったところで、折れて遊んでくれる。それを子どもは知っているのだ。俺と同じだな、と思った。
あれ、ここ、どこだっけ。寝起きのぼんやりとした頭のまま、のっそりと布団から這い出る。畳が冷たい。そうだ。また戻ってきたのだった。足元から感じる冷たさで思い出した。
欠伸ひとつでカーテンを引いた時東は、「うわ」と小さな感嘆をもらした。
「積もってる」
一面銀世界。道理で寒いはずである。その寒さをものともせずに遊ぶ子どもの姿に、ふっと笑みがこぼれた。警報が出ているのかもしれない。
警報が出て学校が休みになると、子どものころはうれしかったんだよな。懐かしい記憶に思いを馳せる。不謹慎とわかっていても、なんとなくわくわくしたものだ。
大人になると、そんなことばかりも言っていられなくなるけれど。引きこもる予定だった本日の時東には関係のない話である。
たぶん、東京に戻る三日後は、交通機関も機能しているだろうし。のんきに結論づけて、時東はゆっくりと身体を伸ばした。なんだか、ひさしぶりによく寝た気分だ。
――普通、自宅のほうが寝やすいと思うんだけどなぁ。
そんないまさらなことを考えながら、軽く身支度を整えて階段を下りる。漂ってきた匂いに、そういえば、実家の朝も和食だったなぁ、と。またしても懐かしいことを思い出してしまった。
母親からは「たまには帰ってきなさいよ」と言われているのだが、もう随分と実家に顔を出していない。両親と仲が悪いわけではないものの、実家に帰ると来客が増えるから嫌なのだ。
実家の近所に住んでいて、特別に自分をかわいがってくれた祖母も、デビューして間もないころに鬼籍に入っている。それもあって、ついつい足が遠のいているのだった。
「おう、おはよう」
台所にふらりと顔を出すと、南が新聞から顔を上げた。台所にあるテーブルに畳んだ新聞を置く仕草が、ひさしく見ていない実家の父親と重なって、苦笑がこぼれそうになる。
どうにかそれを呑み込んで、「おはよう」と時東は挨拶を返した。そうしてから、今日の曜日を思い出す。
「そっか、南さん、今日お休みだ?」
「俺はそうだけど。おまえは大丈夫なのか?」
「え? 大丈夫って仕事?」
「そう。このあいだよりずっと積もってるぞ。当たらねぇな、天気予報も」
「大丈夫、大丈夫。俺、二、三日こっちにいるから」
良いのかどうかは聞いていなかったけれど、決定権を委ねられた身である。まぁ、大丈夫だろう。にこりとほほえむと、南がかすかに眉を寄せた。どことなくもの言いたげな表情。
「おまえさ」
「ん?」
「その顔……、いや、まぁ、いいわ、なんでも」
「ちょっと、なに、南さん。気になる言い方しないでよ。俺のかっこいい顔がどうかした?」
意図的に茶化した自覚はあったが、南も南で必要以上に白けた顔をした。
「はい、はい。なんでもない、なんでもない。かっこいい、かっこいい。春風ほどじゃないけど」
「さらっと容姿比べないで! それもあんな規格外の人と」
「そういうことでもねぇよ」
比べるなという指摘が胸に入ったのか、妙に嫌そうに否定する。だが、それ以上の皮肉は飛んでこなかった。軽く溜息を吐いた南が立ち上がる。壁に面したキッチンスペースと、冷蔵庫。そうして、二人掛けの小さなダイニングテーブル。
夜は炬燵のある居間で食べることも多いが、朝や昼はここで食べることも多い。この家に寝泊まりするようになって知ったことだ。
「時東」
いつまで突っ立ってんだ、と呼び寄せられるかたちで席に座る。
相前後して小鍋を火にかけた南に、食べるよな、とほぼ決定事項で問われたので、うん、と時東は頷いた。
優しい味噌汁の匂い。ひとりで暮らすようになってから――味覚がおかしくなる以前からだ――の時東に朝食を食べる習慣はなかった。それなのに、この家にいると、三食きちんと食べようという気になる。
――食べることは生きること、だっけ。
大昔、祖母が言っていたことだ。聞いた当時はよくわかっていなかった。でも、今は少しわかる気がしている。自分のために食事を用意してくれる人がいることの、ありがたさも。
ありがとう、とかけた声に、ん、と愛想もそっけもない返事。なんでもないことのはずが、なんだかどうにもこそばゆかった。
[21:時東悠 1月26日8時40分]
「南さん。今日は仕事お休みなんでしょ? どこか行くの?」
仕事があろうがなかろうが、この家の主の朝は早い。
おじいちゃんみたいだね、と口を滑らせて閉口させた前科があるので言わないだけで、それに近いものがあると時東は思っている。
自分は済ませているにも関わらず、こちらが食べ終わるまで静かに同席してくれることも含めて。
母親に父親に、おじいちゃん。自分はいったい、この人にどんな夢を見ているというのか。内心で呆れつつ、ごはんの残りをさらう。
白米に、大根と玉ねぎの味噌汁。そうして、昨日の残りという煮物と、店でも提供しているお手製のお漬物。はじめて用意してもらったときは、いたく感動したものだ。もちろん、今日も大変ありがたいと思っている。
「まぁ、そうだな。とりあえず雪かきだな」
「雪かき?」
東京生まれ東京育ちの時東には無縁の言葉である。繰り返した時東に、南がわずかに苦笑をこぼした。
「店の前と、あとこの家の周辺。このあたりは道が細いから、除雪車通らないんだよ」
「……手伝おうか?」
断られるだろうなぁとわかっていたものの、一種の様式美というやつである。案の定、湯呑に口をつけた南は、あっさりと首を横に振った。
「あらかた終わってるから。残りもすぐ終わるし、気にしなくて大丈夫」
つまるところ、すでに一仕事は終えているらしい。本当に早起きだね、と言う代わりに、時東はのんびりと呟いた。
「まぁ、俺が手を出したほうが仕事も増えそうだしねぇ」
自慢でもなんでもないけれど、顔の割れている芸能人なので。その時東の本意に、南はたいていの場合、気がつかないふりを押し通す。今日もそうだった。
「慣れてないやつがやると高確率で腰痛めるんだよ」
やらなくて済むならやらないほうがいい、と。なんでもない調子で応じた南が、空いた湯飲みを机に戻す。同じタイミングで、時東も箸を置いた。にこりとほほえむ。
「じゃあ、ありがたくおこもりさせてもらおうかな。南さんも転んで怪我しないでね」
「そこまで年じゃねぇよ」
「それはそうかもしれないけど。――あ、片づけくらいは俺がしておくから。いってらっしゃい」
ごちそうさまでした、と頭も下げれば、好きに過ごしたらいいんだからな、と気遣う言葉が返ってきた。片づけくらいは、去年もしていたはずなのだが。
それとも、春風からなにか聞いたのだろうか。懸念を押し込み、時東は笑った。
「やだな、南さん。ちっちゃい子じゃないんだから、そのくらいやるって。というか、そのくらいやらせてよ」
至れり尽くせりではさすがに落ち着かない。笑ったまま言い切って、食器を手に流しに立つ。
ふと頭の中に「持ちつ持たれつ」という春風の言葉が浮かんだ。今の自分は完全に「持たれて」しかいないのだろう。
でも、せめて「持たれて」いたいと思ってしまう。なにも「持たれない」よりは。
――あ、駄目だ、これ。
あまり考えないほうがいい。昨日の夜、そう決めたことを思い出し、時東は水道のハンドルをひねった。きんとして冷たいけれど、しばらくすれば温かくなるだろう。
冷水のままでやると南が気にするので、きちんとお湯にするようにしているのだ。
注がれる視線に気づかないふりをしていると、「じゃあ、行ってくる」という声が背にかかった。洗い物をしたまま、「行ってらっしゃい」と送り返す。なんだかまるで家族みたいだ。
しばらくすると、玄関のドアを引く音が遠くで聞こえた。そうして「凜ちゃん」と呼ぶ高い女の子の声。ついで聞こえた「だから、その呼び方はやめろって言ってるだろ」という諦め半分の苦言に、時東はふっと笑みをこぼした。「遊ぼう」とゆする声が続くのが、なんともほほえましい。
子どもは本能で「いい人」を嗅ぎ分けるという話をなにかで聞いたことがある。見た目が多少怖かろうが、そういう人には素直に懐くのだ。この人は大丈夫だと本能でわかるから。
どうせ、なんだかんだと言ったところで、折れて遊んでくれる。それを子どもは知っているのだ。俺と同じだな、と思った。