どう答えるべきなのだろうか、と悩んだことがある。
 時東が押し入れでCDを見つけていた、と春風から聞いた夜のことだ。
 隠していたわけではないし、問われたら答えるつもりでいた、というのは、春風に告げたとおり、南の本心だった。 
 だが、そもそもとして、あの子どもは覚えているのだろうか。そう南は疑問を抱いていた。仮に覚えていたとして、記憶の共有を求めているのだろうか。
 改めて考えたとき、「ないな」という結論を自分は下した。
 あの子どもは、過去を知らず、芸能人としての時東はるかに興味を持たない南食堂の店主に気を許しただけ。
 ――だから、まぁ、そういうことだよな。
 もし、万が一、尋ねてくることがあれば、正直に答えてやればいい。時東は、名前も顔もあの当時からほとんど変わっていないのだ。気がつかなかったというほうが無理があるし、妙な嘘を吐く必要もない。
 だが、逆に、時東が尋ねることを選ばないのであれば、知り合ったばかりの南食堂の店主でいてやればいい。
 そうして、いつか。元の世界に戻る背中を見送ってやればいい。
 割り切った関係は、南にとっても楽なものだった。そうでさえあれば、自分の世界が変わることもない。今までどおりでいることができる。そう思っていた。


[19:南凛太朗 1月18日21時55分]


 営業を終えた食堂のカウンターで、大きく息を吐いて首を回す。ひとりきりの店内に響いた鈍い音に、南は苦笑をこぼした。
 仕事柄、凝りやすいことは凝りやすいのだが、余計なことを考えながら包丁を握ると、よりいっそう顕著になると知っている。つまるところ、この数日ろくなことを考えていないのだ。
 ――春風のおばちゃんが言ってたことじゃないけど、次の休みくらい酒でも飲んで寝倒すか。
 明日の予定を脳内で決定し、閉店準備に取り掛かろうとしたところで、ガラリと店の戸を引く音がした。入ってきた顔を認知した瞬間、なんだ、おまえか、と南は言いそうになった。寸前のところで言わなかったけれど。
 それなのに、幼馴染みはゆっくりと瞳を瞬かせた。
「あれ。もしかして、あの子だとでも思った?」
 べつに、という言葉を呑み込んで黙り込む。言い訳になってしまいそうだったからだ。もう閉めるつもりだったんだけど、と告げることも八つ当たりに響きそうで、南は曖昧に首を振った。
 家に帰ったところで、待っている相手がいるわけでもない。春風の一杯に付き合うくらい、なんでもない話だ。閉店準備を取りやめてカウンターに肘をつく。
 受け入れると示したそれに、春風がふらりと近づいてきた。コートを着たまま定位置に座り、にこりとほほえむ。
「ひさしぶりだなぁ、凛にその顔されるの」
「ひさしぶりって」
「うん。何年か前ね。この店を凛が開けてすぐくらいのころはあったよ、けっこう。入ってきた俺の顔見てさ、失望したような顔すんの、一瞬だったけど」
 この幼馴染みが言うのであれば、そうだったのかもしれない。
 だが、いまさらどう応じるべきかはわからなかった。迷ったことを誤魔化すように春風の前に酒を置く。そうして、なんでもないふうに苦笑を返した。
「なに考えてるのかわからない顔って言われるほうが多いんだけどな」
「わかるよ。幼馴染みだしね。凜の表情の違いくらい。おまえもそうじゃないの?」
「まぁ、……そうかもな」
 仏頂面の自分とは意味合いは違うだろうが、へらへらとした笑顔を常備している春風も表情が読み取りづらいタイプだ。けれど、なんとなくであればわかるので、逆もまたしかりということなのだろう。
 時東は、野生の勘の成せる技か、「なんで」はわからないくせに、「違い」だけを器用に嗅ぎ取っていた。 
「それが嫌でさぁ。だからいつも元気な挨拶を心がけてたんだけど、これがついうっかり」
「似非臭い野郎だな」
「凛が言うならそうかもね」
 へらりと笑って、春風が酒に口を付けた。
「うん、おいしい。西崎くんは好きじゃないけど、西崎くんのところのお酒はおいしいな」
「おまえ、まだ根に持ってんの」
 小学生になるかならないかのころに、散々にからかわれたことを。
 呆れたように南が言えば、「まぁねぇ」と意味深長な笑みが浮かぶ。顔が良いだけに腹が立つくらい様になっている。
「根には持ってないけど、まぁ、好きにはならないよね。嫌いでもないけど」
 やられた当時に十倍以上の仕返しをしていた記憶があるのだが、それもまた別の問題なのだろうか。
 仕入れの関係で西崎の兄に会うことがあるのだが、三回に一回は「春風ちゃん、どう?」と阿られるこちらの身にもなってほしい。そうして、それに。
「というか、おまえ、ほとんどがそうじゃねぇか」
 好きでもないが嫌いでもない。それが、春風の対人関係における基本的なスタンスだ。
「まぁ、それもそうかもね」
 否定もせずに笑った春風が、もう一口呑んでからグラスをカウンターに置いた。
「これはこれでおいしいけど、次は熱燗がいいな。知ってる? 今も雪降ってんだよ、たぶん積もらないけど」
「熱燗呑ませたら長いから、それにしたんだよ。今日はつまみはないからな」
「えー、なんで。もう閉店なの。凛ちゃん居酒屋」
「そんな展開はしてねぇ」
「時東くんにはしてあげてるくせに。幼馴染みの俺にはもうなしですってか。冷たいなぁ、酒が胃に染みる」
 芝居がかった仕草で泣き真似を披露されてもダメージはない。そうか、と呟いて、南は出入口に視線を向けた。
「また雪降ってんのか」
「ね、今年は多いね。また凜ちゃん雪かき大忙しでしょ」
 大変だねぇ、と苦笑して、春風がグラスを手に取った。少しの沈黙。なにか言いたいことでもあるのだろうかと思っていると、春風がぽつりと口を開いた。
「というか、凜ちゃんはさ、あんまり恋愛を楽しもうっていう気がないよね。話は変わるけど」
「変わるのかよ」
「いや、実際は変わってないんだけど。その、つまり、なんというか、心配してるわけよ。幼馴染みの智治くんとしては。うちの凛ちゃんは大丈夫なのかな、と」
「大丈夫って」
 なにを馬鹿なことを笑い飛ばすには、春風の瞳は優しい色をしていた。黙って、カウンターに肘をつき直す。その態度にか、春風がまた小さく笑った。
「べつにね、十代の女の子じゃあるまいし、凛に恋愛をしろって言ってるわけじゃないんだよ。それは本当にどうでもいいと思うし。まぁ、するなら良い恋愛をするに越したことはないと思うけど。凛、女見る目ないからなぁ」
「おい、そこは放っとけよ」
「だから、放ってたじゃん。あーあ、見る目ねぇなぁ。どうせすぐに別れるよって思ったら、大概すぐに別れてたけど、まぁ、それは凛の自己責任だし」
 大学生だったころの話を引っ張り出さないでほしいし、そもそもとして、春風に言われたくない台詞のオンパレードである。なんとも言えない心地で南は再び黙り込んだ。
 ――というか、おまえも大概だっただろ。
 特定の彼女と呼べる存在がいたのかすら疑わしい付き合い方しかしていなかったくせに。じとりとした視線をものともせず、春風は話を続ける。
「なんていうか、凛は手間がかかる系の駄目女が好きだよね。俺が面倒見てやらなきゃって気分になるの? よくないよ、そういうの」
「ヤリモクの女としか遊んでなかったやつに言われたくない」
「だって、本気の相手とか面倒くさいでしょ。俺が本気じゃないのに」
 なかなかの言い草だった。人の恋愛の心配をするより自分の心配をしろ。
 そう言ってやってもよかったのだが、へらりとした顔を前にするとどうでもよくなってしまった。ある意味で、春風は変わらない。
 へらへらと笑って、本音を言わないところも。誰にでも優しいようでいて、無関心なところも。
「まぁでも、べつになんでもいいよ、本当に。凛が若いころのあれやらこれで、もう恋愛なんて懲り懲りだって言うなら、それはそれで」
「……おう」
「俺はずっとここにいるし、凛もずっとここにいるでしょ。たとえば、俺が結婚して子どもが生まれたとしてもさ。嫁とチビ連れて、おまえの店に食いに行くよ。なんなら、おまえの家にも遊びに行くし。近所のおじちゃんポジションも悪くないとは思うけど」
 そこで一度言葉を切って、にこりと春風がほほえんだ。
「おまえがそれで本当にいいならね」
 この町で。この店で。この先もひとりで切り盛りをして。たまにこうして春風の相手をして。
 それは、南が漠然と思い浮かべていた未来だった。
「いいもなにも、正に今がそうだろ」
「まぁ、それに近いものはあるかもしれないけどさ、この先の話だよ?」
「そうだな。おまえが結婚してもいいって思える女を見つけないことには進まない話だな」
 飄々とした良い父親をやっている気もすれば、嫁の尻に敷かれている気もする。当たり障りのない未来を想像して笑うと、春風も笑った。
「じゃあさ」
「なんだ?」
「俺とふたりで生きてみる?」
 変わらない顔で笑い、春風は酒に口を付けた。その調子のまま、淡々と言葉を続ける。
「俺とふたりで、おまえの家で。俺も空いてる時間に、おまえの店を手伝ってもいいしさ。仕事して、畑耕して、茶ぁ飲んで、飯食って。五十年後、曲がった背中で頑固に店に立ってるおまえを見るも良し、ふたりでとっとと楽隠居して、裏庭の畑耕すのも良し。悪くないと思うよ。俺、老後も金に困らない自信はあるし」
「……まぁ、おまえは金に困らないだろうな」
「そうそう。印税ってやつ? すごいよね、音楽のちから」
「使いどころ違わねぇか、それ」
「そうかもね」
 楽しそうに喉を鳴らし、「でも」と軽く首を傾げる。この仕草を見た覚えは幾度もあった。酒場で。あるいは夜の街で。狙った女を落とすとき、この幼馴染みが使用する常とう手段。
「月ちゃんとふたりの老後は十年経っても想像できないだろうけど、おまえとならできるよ」
 整いすぎたきらいのある顔に見慣れた微笑を刻み、春風はただ南を見ている。呆れたふうに南は嘆息した。
「いや、ないだろ」
 むしろ、月子とのそれを想像してやれと心底思う。あるいは、そこまではっきりできないと言うのであれば、引導を引き渡してやれ。
 適当に手を出さないだけ、大事にしているのだと思うが。
「俺とおまえに、それはないだろ」
「そうかな。わかんないだろ。やってみなきゃ」
 拗ねたふうに眉をひそめた春風が、酒を呑み切るなりとんでもないことを言った。
「じゃあ、時東くんなら想像できるの、凛は」
「なんでそうなる」
 ここで話を戻すあたり、手のひらで転がされているようで嫌になる。南は苦虫を噛んだ声を出した。
「言いたくないが、俺の恋愛の心配をしてくれてたんじゃないのか、おまえは」
「してるんじゃん、だから」
「……」
「というか、まぁ、そうだな」
 閉口した南が憐れになったのか、春風は雰囲気を少し和らげた。
「わかりやすいかなぁと思って恋愛とは言ったけど。べつに恋愛じゃなくてもいいんだよ。とにかく、なんていうのかな」
 悩んだ春風の指先が、コップの縁をなぞる。
 恋愛だのなんだのということを、今はあまり考えたくない気分だった。藪を突きたくないので口にはしなかったが。
 黙ったままでいると、春風が静かに口火を切った。
「凜が新しい交友関係を築くのが怖いっていうなら、それもべつに俺はいいんだ」
「おい」
「なに? 怖いって言われるのは心外だった?」
 くすくすとからかうように笑って、春風は続ける。
「まぁ、でも、だってさ。さっきも言ったとおりで俺はここにいるし、この店に来る人もたくさんいる。月ちゃんだって海斗くんだっているよ。凜が大事にしたいものはぜんぶ揃ってる」
 ね、と笑いかける春風の声は、どこまでも優しい。そうしてそれは、たしかに南が求めているものだった。だから、と変わらない穏やかな調子で春風が言う。
「そこに無理して新しいものを入れる必要はないでしょ」
 新しいもの。今までこの空間になかった存在。浮かぶ顔はたったひとつだった。なにも言えないでいるうちに、春風がまた小さく笑った。コップの縁を撫でていた指先が離れていく。
「でも、入れたいって思うことも、悪くはないと思うよ。まぁ、俺はちょっと嫌だけど、それは俺の勝手だし。口出すつもりはないし」
「……出してんじゃねぇかよ」
 警戒心が強いと評すべきか、こだわりが強いと評すべきか。正確な表現はわからないものの、この幼馴染みが人間関係に関する変化を好まないのは昔からだ。
 懸念していたはずの習性を、この数年利用していたのは、ほかならぬ自分だと南は理解していた。そうして、間違いなく春風も。
「だって、俺がいくら口を出しても、凜は自分の選択を変えないでしょ。信頼して、甘えてるんだよ」
 勝手なこと言った春風は、取り出したスマートフォンの画面に視線を落としながら喋り続けている。
「まぁ、それはそうとしてさ。俺、実は明日からお仕事で東京なんだけど。凜も来る?」
「なんでだよ」
「なんでって、明日休みだから?」
「休みだけど。明日は一日寝るって決めてたんだよ、俺は」
「それ予定って言う? 考え直してくれてもいいじゃん。まぁ、無理にとは言わないけど。でも、時東くんに会わせてあげられるよ、俺。俺の仕事って、今回、それだから」
 仕事、と半ばひとりごちる調子で南は呟いた。
 そういえば、そんな話も聞いたのだった。時東の曲作りを頼まれた、と。春風のことだから、とうの昔に完成していたのだろう。含みを多分に持った顔で、春風が南を覗き込む。
「北風春太郎が俺だって知って驚く時東くん見たくない?」
「見たくない」
「えー、なんで。凛がいたらおもしろい顏すると思うんだけどなぁ」
「年下相手に意地の悪いことばっかりしてやるなよ」
 いろいろと気の毒になり、南は物を申した。返ってきたのは、なにをいまさらと言わんばかりの呆れ顔だったけれど。
「そっくり凜に返してあげたい台詞だな。いろいろ、ぜーんぶ黙ってるよね」
「それとこれとは話が違うだろ」
「なんで? 俺はそのほうがおもしろいから黙ってたけど、凜はそのほうが自分に都合が良いから黙ってたんだよね。どっちも俺らの勝手なんだから、あの子からしたら一緒じゃない?」
 笑顔で突き付けられた正論は、思いのほか胸に刺さった。黙り込んだ南に、またへらりと春風が笑う。
「あれ? ぐうの音も出なかった? 嫌だな、苛めるつもりはなかったんだけど」
「俺も苛められたつもりはねぇよ」
「つもりはないけど、とか付きそうな感じの顔だね、凛ちゃん」
「だから、その呼び方やめろって」
「凛も都合悪くなったら話をすり替えるの、いいかげんにやめたら?」
「……」
「なに? 凛ちゃん。聞こえないんですけど」
 春風は笑っている。見慣れた顔で。けれど、もしかすると怒っていたのかもしれない。南は思い至った。いや、――怒ってるというより、拗ねてんな。
 遅れて確信する。そうだとすれば、中途半端な自分に対してなのだろうか。
「もし」
 踏ん切りをつけるように、南は吐き出した。
「もしだけどな、会うとしたら、俺が連絡するのが筋だろ」
 会える手段を自分は持っているのだから。話したいのであれば、そうすべきなのだ。今までずっと「ここに来る限りは」と、時東の意志に任せていたけれど。
 自分のほうから伝えることがあるのであれば、そうすべきた。この数日、あるいは、時東とこの店で会ってからの諸々を吐き出す覚悟が付いたのなら。
 言い切った南に、うん、と春風は頷いた。あいかわらずの、柔らかな調子で。
「それは、ちょっと凛らしいかな」