『お世話になりました。少し仕事が立て込んでいるので、しばらく東京に帰ります。落ち着いたころに顔を出しますので、ご心配なく』
「なにがご心配なく、だ。好きにしろって言っただろ」
店から戻ってきて見つけた書き置きに、南は顔をしかめた。
時東が使っていた部屋に入り、電気をつける。軽い掃除を行ったらしい気配は見て取れたものの、荷物は残されたままだ。もちろん、肝心のギターも。
「戻ってくるかどうかの心配なんて、誰がするかよ」
吐き捨てるように呟いて、窓を開けた。入り込んだ冷たい夜風が、残された気配を消し去っていく。暗い空を見つめたまま、南はひとつ溜息を吐いた。
[18:南凛太朗 1月13日13時35分]
南食堂が一番の賑わいを見せるのは、言わずと知れた昼食時だ。
この時間帯に提供するメニューは日替わり定食二種類と割り切っているので、どうにか自分ひとりでも回すことができている。
ただ、メニューを増やそうと考えると難しい。アルバイトをひとり雇っても採算は取れなくないのだが、もろもろの億劫さと天秤にかけた結果、長らく保留になっていた。
春風が手伝うと言ってくれることもあるのだが、さすがにそれは甘えすぎというやつだ。
――まぁ、これで生活できるしな。
生活をしていくだけの最低限プラス少しの確保はできているし、無理をして店を大きくしたいという思いはない。
両親がやっていたころと変わらず足を運んでくれる常連客が喜ぶ場所であったらいいと思っている。こういう言い方もなんだが、支えてもらった恩返しのようなものだ。
十三時を三十分も過ぎると、慌ただしさも落ち着きを見せる。店内に残っているのは、世間話が主目的の常連客の二組のみ。
おばさま方もじいさまも、南が子どものころからよく知る顔馴染みだ。おしゃべりをBGMに水仕事をしていると、「あら」とひと際大きな声が飛び込んできた。
その声があまりにうれしそうだったので、つられて視線を上げた瞬間。テレビに映っていた顔に、無意識に南の手が動いた。
「ちょっと、凛ちゃん! なんで急にテレビ消すのよ、見てたのに!」
「あ、いや……」
「そう言ってやんなよ、カナちゃん。凛ちゃんも複雑なのよ。その子のファンってヤツに押しかけられて、困ってただろう」
「そういえば、そんなこともあったわねぇ。でもあたしは好きよ、はるかちゃん。かわいいんだもん」
だがしかし、このおばさまが「はるかちゃん」をミュージシャンではなくバラドルとして認知していることを、南は知っている。時東が知れば、また微妙な顔をしそうだ。
そんなどうでもいいことを、あえて考えてみる。そうして、ごめん、と苦笑いをひとつ。
リモコンのスイッチを押せば、小さなブラウン管に再び時東はるかの笑顔が映る。完璧な芸能人の顔。
――もう、リモコンは自分の手の届かないところに置いておこう。
そう決めて、南は水量を上げた。
「去年一年を総括して、ですか。そうですねぇ」
どうも年末年始に放送された特別番組の再放送らしい。お題に沿ってゲストがトークを展開する形式のバラエティー。
なにもこうもタイミング良く時東の番にならなくともいいだろうに。そんなことを思いながら、洗い物を続ける。水量を上げた悪あがきはほとんど意味を成していなかった。
「一番びっくりしたことは、意外な人と再会したこと、ですかね」
悩むような間を挟んで応じた時東に、「女の子?」、「初恋の人?」とお決まりの声が飛ぶ。
「女の子じゃないですよ、男です。男の人」
苦笑いの否定に、すかさず突っ込みが入って、また笑い声。
「嘘じゃないですってば。インディーズでやってた当時に、何度かサポートで来てくれたことのある人だったんですけど。まさか、また会えるとは思ってなかったので、すごくびっくりしましたね」
様式美なやりとりってやつだな、と。聞き流していた手の動きが止まる。
インディーズ。あの当時のことを時東の口から聞いたのは、はじめてだった。だって、あの子、いまだに引きずってるじゃん。いつだったか、呆れたように春風は言っていて、南も「そう」だと思っていた。
「本当に予想外のところで会ったので、気がついたのもしばらくしてからだったんですけど。そうですね、びっくりですけど、嬉しかったですね」
はにかむような声がすぐそばで聞こえた気がして、ぱっと顔を上げる。
――そうだ、ここには。
気まぐれに閉店後に現れては、南が作った料理に「おいしい」と心底うれしそうにはしゃいでみせる。にこにこととりとめもないことを喋り、テレビと違う気の抜けた顔で笑う、時東悠。
そんな幻影が見えたのは、ここによくいたからだろうか。仕事をする南の正面。その椅子に、あの子どもはいつも座っていた。
過去を振り切るように、店内を見渡す。この時間帯の常連客が二組。一席空けたテーブル席に座り、片や新聞を広げ、もう片方はテレビに熱心な視線を送っている。
いつもどおりの光景だった。南が求める、あたりまえで、だからこそ大切にしたいと願っている日常。
この場所に、キラキラとした男がいたことがおかしかったのだ。
「まぁ、とは言っても、お互い、昔話をしたわけでもないので。向こうが僕のことを覚えてるかどうかもわからないんですけどね」
「そりゃ、覚えてるでしょ、お相手は。天下の時東はるかですよ?」
「いや、どうなんでしょうね。僕が怖くて、聞けてないだけです。今の付かず離れずの距離感が心地よくて」
画面の中で、時東が微笑う。南の視線は、いつのまにか画面に吸いついていた。
「でも、いつか、話してみたいなって。これも最近になって、やっと思えるようになったことなんですけど」
ふっと懐かしそうな表情を、時東がした気がした。「どんな話?」という問いに、「そうですね」と時東が首を傾げる。
「餌付けされたこと、ですかね。ふつうの塩のおにぎりだったんですけど、すごいおいしかったんですよね」
そのころって、時東くん高校生くらいだったんじゃないの、渋いな。誰かが笑い、気を悪くしたふうでもなく、ですよね、と時東も愛想の良い顔で笑う。
そこでようやく、南は出しっぱなしになっていた水を止めた。
――ごめんなさい。それで、あの。
続くのは、同じ言葉の繰り返しだと思っていた。あるいは、単純にそれ以上を聞きたくなくて逃げたのかもしれない。
会話を断ち切った南に、「なんでそんなことを言うの」と詰め寄った時東の顔と、テレビの中で笑っている顔が交錯する。そうして――。
――思い出の味なんだよね、これ。
「おーい、凛ちゃん」
ガタンと席を立つ音と呼びかけに、慌てて顔を向ける。
幼いころから知る馴染みの客が「どうかしたか?」と軽く眉を寄せる。余計な心配をさせるわけにはいかない。いつもの調子を南は取り繕った。
「お粗末様でした。えー、と、お勘定でよかったですよね」
皺の刻まれた手にお釣りを渡し、背中を見送る。変わらず賑やかなテレビの声を聞きながら、中途半端になっていた洗い物を南は再開させた。
過去なんて忘れてしまえと思うのは、一種の呪いなのだろうか。わからない。でも。溜息を呑み込み、お喋りに興じている彼女たちをちらりと見やる。なんだか妙に日常が遠かった。
時東が思い出したくないのなら、なにも言う必要はない。
そう思っていたことも嘘ではないつもりだ。けれど、自分が言わなかった一番の理由は、時東のためなどという優しいものではない。すべて自分のためだった。
「なにがご心配なく、だ。好きにしろって言っただろ」
店から戻ってきて見つけた書き置きに、南は顔をしかめた。
時東が使っていた部屋に入り、電気をつける。軽い掃除を行ったらしい気配は見て取れたものの、荷物は残されたままだ。もちろん、肝心のギターも。
「戻ってくるかどうかの心配なんて、誰がするかよ」
吐き捨てるように呟いて、窓を開けた。入り込んだ冷たい夜風が、残された気配を消し去っていく。暗い空を見つめたまま、南はひとつ溜息を吐いた。
[18:南凛太朗 1月13日13時35分]
南食堂が一番の賑わいを見せるのは、言わずと知れた昼食時だ。
この時間帯に提供するメニューは日替わり定食二種類と割り切っているので、どうにか自分ひとりでも回すことができている。
ただ、メニューを増やそうと考えると難しい。アルバイトをひとり雇っても採算は取れなくないのだが、もろもろの億劫さと天秤にかけた結果、長らく保留になっていた。
春風が手伝うと言ってくれることもあるのだが、さすがにそれは甘えすぎというやつだ。
――まぁ、これで生活できるしな。
生活をしていくだけの最低限プラス少しの確保はできているし、無理をして店を大きくしたいという思いはない。
両親がやっていたころと変わらず足を運んでくれる常連客が喜ぶ場所であったらいいと思っている。こういう言い方もなんだが、支えてもらった恩返しのようなものだ。
十三時を三十分も過ぎると、慌ただしさも落ち着きを見せる。店内に残っているのは、世間話が主目的の常連客の二組のみ。
おばさま方もじいさまも、南が子どものころからよく知る顔馴染みだ。おしゃべりをBGMに水仕事をしていると、「あら」とひと際大きな声が飛び込んできた。
その声があまりにうれしそうだったので、つられて視線を上げた瞬間。テレビに映っていた顔に、無意識に南の手が動いた。
「ちょっと、凛ちゃん! なんで急にテレビ消すのよ、見てたのに!」
「あ、いや……」
「そう言ってやんなよ、カナちゃん。凛ちゃんも複雑なのよ。その子のファンってヤツに押しかけられて、困ってただろう」
「そういえば、そんなこともあったわねぇ。でもあたしは好きよ、はるかちゃん。かわいいんだもん」
だがしかし、このおばさまが「はるかちゃん」をミュージシャンではなくバラドルとして認知していることを、南は知っている。時東が知れば、また微妙な顔をしそうだ。
そんなどうでもいいことを、あえて考えてみる。そうして、ごめん、と苦笑いをひとつ。
リモコンのスイッチを押せば、小さなブラウン管に再び時東はるかの笑顔が映る。完璧な芸能人の顔。
――もう、リモコンは自分の手の届かないところに置いておこう。
そう決めて、南は水量を上げた。
「去年一年を総括して、ですか。そうですねぇ」
どうも年末年始に放送された特別番組の再放送らしい。お題に沿ってゲストがトークを展開する形式のバラエティー。
なにもこうもタイミング良く時東の番にならなくともいいだろうに。そんなことを思いながら、洗い物を続ける。水量を上げた悪あがきはほとんど意味を成していなかった。
「一番びっくりしたことは、意外な人と再会したこと、ですかね」
悩むような間を挟んで応じた時東に、「女の子?」、「初恋の人?」とお決まりの声が飛ぶ。
「女の子じゃないですよ、男です。男の人」
苦笑いの否定に、すかさず突っ込みが入って、また笑い声。
「嘘じゃないですってば。インディーズでやってた当時に、何度かサポートで来てくれたことのある人だったんですけど。まさか、また会えるとは思ってなかったので、すごくびっくりしましたね」
様式美なやりとりってやつだな、と。聞き流していた手の動きが止まる。
インディーズ。あの当時のことを時東の口から聞いたのは、はじめてだった。だって、あの子、いまだに引きずってるじゃん。いつだったか、呆れたように春風は言っていて、南も「そう」だと思っていた。
「本当に予想外のところで会ったので、気がついたのもしばらくしてからだったんですけど。そうですね、びっくりですけど、嬉しかったですね」
はにかむような声がすぐそばで聞こえた気がして、ぱっと顔を上げる。
――そうだ、ここには。
気まぐれに閉店後に現れては、南が作った料理に「おいしい」と心底うれしそうにはしゃいでみせる。にこにこととりとめもないことを喋り、テレビと違う気の抜けた顔で笑う、時東悠。
そんな幻影が見えたのは、ここによくいたからだろうか。仕事をする南の正面。その椅子に、あの子どもはいつも座っていた。
過去を振り切るように、店内を見渡す。この時間帯の常連客が二組。一席空けたテーブル席に座り、片や新聞を広げ、もう片方はテレビに熱心な視線を送っている。
いつもどおりの光景だった。南が求める、あたりまえで、だからこそ大切にしたいと願っている日常。
この場所に、キラキラとした男がいたことがおかしかったのだ。
「まぁ、とは言っても、お互い、昔話をしたわけでもないので。向こうが僕のことを覚えてるかどうかもわからないんですけどね」
「そりゃ、覚えてるでしょ、お相手は。天下の時東はるかですよ?」
「いや、どうなんでしょうね。僕が怖くて、聞けてないだけです。今の付かず離れずの距離感が心地よくて」
画面の中で、時東が微笑う。南の視線は、いつのまにか画面に吸いついていた。
「でも、いつか、話してみたいなって。これも最近になって、やっと思えるようになったことなんですけど」
ふっと懐かしそうな表情を、時東がした気がした。「どんな話?」という問いに、「そうですね」と時東が首を傾げる。
「餌付けされたこと、ですかね。ふつうの塩のおにぎりだったんですけど、すごいおいしかったんですよね」
そのころって、時東くん高校生くらいだったんじゃないの、渋いな。誰かが笑い、気を悪くしたふうでもなく、ですよね、と時東も愛想の良い顔で笑う。
そこでようやく、南は出しっぱなしになっていた水を止めた。
――ごめんなさい。それで、あの。
続くのは、同じ言葉の繰り返しだと思っていた。あるいは、単純にそれ以上を聞きたくなくて逃げたのかもしれない。
会話を断ち切った南に、「なんでそんなことを言うの」と詰め寄った時東の顔と、テレビの中で笑っている顔が交錯する。そうして――。
――思い出の味なんだよね、これ。
「おーい、凛ちゃん」
ガタンと席を立つ音と呼びかけに、慌てて顔を向ける。
幼いころから知る馴染みの客が「どうかしたか?」と軽く眉を寄せる。余計な心配をさせるわけにはいかない。いつもの調子を南は取り繕った。
「お粗末様でした。えー、と、お勘定でよかったですよね」
皺の刻まれた手にお釣りを渡し、背中を見送る。変わらず賑やかなテレビの声を聞きながら、中途半端になっていた洗い物を南は再開させた。
過去なんて忘れてしまえと思うのは、一種の呪いなのだろうか。わからない。でも。溜息を呑み込み、お喋りに興じている彼女たちをちらりと見やる。なんだか妙に日常が遠かった。
時東が思い出したくないのなら、なにも言う必要はない。
そう思っていたことも嘘ではないつもりだ。けれど、自分が言わなかった一番の理由は、時東のためなどという優しいものではない。すべて自分のためだった。