あぁ、やっぱり、味がしない。
わかっていたことなのに、食べ物を口にするたび少なくないショックを受ける。そうして、表現のしがたい苛立ち。けれど、なにも感じなくなったら、きっと、もっとヤバイのだろうな。
心身ともに充実し働き盛りであるはずの二十四才男性としては、あまりに寂しい夕食だ。
自嘲ひとつで、時東は一口かじっただけのおにぎりを机の端に追いやった。激辛キムチ炒飯。派手派手しいパッケージに淡い期待を抱き、コンビニエンスストアで購入したものである。
少し前までは、刺激が強いものであれば多少の味はわかった。
「ストレス、か」
力ないひとりごとが防音室に響く。医者に問われずとも、ストレスの原因はわかっていた。ただ、解決策が見当たらない。
プロデビューを目指していた時東悠が、「時東はるか」なる芸名で夢を叶えること、早五年。名前と顔が売れ始め、セキュリティのしっかりとしたマンションに居住を移した。ひとりで暮らすには十分な2LDK。心置きなく曲作りに打ち込むことのできる防音室の存在が決め手だった。
そのはずだったのに、熱中していた日々がどこまでも遠い。
惰性の延長線で傍らに置いたギターから視線を外し、伸びてきた前髪をかきやった。
時東が自身で作詞作曲を行う必要性を、プロダクションの社長は感じていない。
おまえはテレビの前でその顔で歌っていればいい。曲は提供してもらおう。そうだ。北風春太郎はどうだ。名案だと言わんばかりに社長が挙げた名前は、着実にヒットを生み出し続けている若手作曲家のものだった。
その提案は、自分で曲を作り、言葉を乗せ、歌っていきたいと願う時東のプライドを十分すぎるほど傷つけた。
だが、今の自分は、新しい曲どころかフレーズのひとつも生み出せないのだ。ごく当然の提案だったのかもしれない。
五年前のデビュー当時。顔のおかげで叶ったと皮肉られていたことを時東は知っている。けれど、いつかわかってもらえたらいいと思っていた。いつか。自分が生み出す曲で、歌う声で、なにかを感じてくれたらいい。いつか。
その「いつか」が、いつのまにか見えなくなった。
むしゃくしゃした感情を溜息で追いやって、防音室を出る。
モデルルームのように無機質なリビングを大股で通り抜け、時東は酒しか入っていない冷蔵庫を開けた。
無造作に発泡酒を抜き取って、缶を開ける。味がわからないのだから、高い酒も安い酒もすべて同じだ。期待するのは、アルコールによる軽い酩酊だけ。
喉に一気に流し込み、空き缶を流しに置く。防音室に引き返すつもりだった足が止まったのは、リビングの途中だった。
テーブルに放置したスマートフォンの点滅を見とめ、なけなしの義務感で手を伸ばす。届いていた文面を一読した時東は、うんざりと画面を閉じた。
「田舎に行こう、ねぇ」
なんのことはない。マネージャーからの明日の予定の念押しだった。芸能人が単独で田舎に赴き交流を図るバラエティ。ひな壇に座って笑っていれば終わるものと違い、明確な台本のない頭を使う仕事である。面倒くさい。何度目になるのか知れない溜息を吐き出して、時東は天を仰いだ。
ライブ依頼や音楽番組といった本業の出演より、バラエティ番組への出演依頼が増えたのは、いったいいつからだっただろう。
自分のキャラのなにが受けたのか、はたまたこの顔のおかげなのか。とにもかくに時東の存在は視聴者に受け、以後、バラエティばかり打診が来るようになったのだ。
ありがたいことですよ、とマネージャーは口を酸っぱくして時東を諭す。わかっている。そして、時東も子どもではない。
明日もへらへらと愛想を振り撒いて、適当に間の抜けたことを言って、味がわからなくとも、おいしそうに現地の料理を食べてやるつもりだ。「わぁ、おいしい」なんて、嘘だらけの感嘆とともに。
そのロケで、運命の味に出逢えるとは露知らず。なにもかもが面倒になって、時東はソファーに倒れ込んだ。部屋はいつも快適で、季節感を感じさせない。蝉の声のひとつも聞かないまま、夏が終わってしまいそうだ。昔はこうではなかったのに。
十代の中ごろから終わり、若さにかまけてバンド練習に打ち込んでいたころ。住んでいた六畳一間のアパートはもっともっと暑かった。夏は寝苦しいし、冬はどれだけ着込んでも隙間風が吹き込んで指がかじかんだ。ギターの騒音で隣人に怒鳴り込まれた回数も数え切れない。けれど、生きていた。きっと、あのころのほうが時東は生きていた。
ままならない、なにもかもが。今の自分を言い表すとすれば、この一言に尽きると思った。
[1:時東はるか 9月2日2時15分]
「最近、ご機嫌ですねぇ。悠さん」
トーク番組の収録を終え、次の収録先へと向かう車内である。運転席からマネージャーの岩見に話しかけられて、時東はスマートフォンの画面から視線を上げた。
「うん。ごはんがおいしいのは幸せだよねって気持ちでいっぱい」
「って、なに疲れ切った爺さんみたいなこと言ってるんですか。このあとクイズ番組なんですから、テンション高めにお願いしますよぉ」
バックミラーに映る岩見の童顔に、人畜無害な笑顔が浮かぶ。時東と一才しか変わらないとは思えない、あいかわらずのそれだ。
「ねぇ、岩見ちゃん。その収録さ、二十時にはちゃんと終わるよね?」
「あー、予定ではそうですけどねぇ。押しても小一時間だと思いますけど。デートですかぁ? バレないようにしてくださいよ」
「デートではないってば」
無用な不安を植え付けて、お楽しみを邪魔されたくはない。時東は即座に否定してみせた。そもそもとして、本当にデートではない。結婚したいとはわりと心から思っているが。主に安定した食のために。
つまるところ、今日は南食堂への来訪日なのだ。無論、約束を交わしたわけでもなく、時東が勝手に決めた予定である。だが、しかし。「今夜は味のあるご飯、味のあるご飯、南食堂」と言い聞かせ、二週間を耐え忍んだのだ。
二十時に出発することは二十二時に向こうにたどり着く最低条件なので、なにがなんでも譲れない。
「ほら。岩見ちゃん。こちらが本日の俺の予定です」
前々回、南食堂を訪れた折に撮影した写真を、時東はここぞと見せつけた。よく言って、職人気質。濁さず言えば、愛想の欠片もない立ち姿。だが、そんなことはどうでもいいのだ。
フレームの下方に映り込んでいる揚げ出し豆腐に、思わず口角が緩む。生姜と大根の風味が効いていて大変おいしかった。ぜひまた食べたい。あれでいて、南はさりげなくリクエストに答えてくれるのだ。この二ヶ月の経験則である。
信号待ちの合間に首を巡らせた岩見が、画面を一瞥するなり前に向き直った。
「なんで隠し撮り……。しかもかわいくもなんともない男……。僕には悠さんがなにをしたいのかわかりません」
「かわいいって! ここにごはんがおいしい、とか。案外、面倒見が良いとか。その手でむしろもっと俺にごはんを与えてほしいとか。そういった付加価値を付けたらかわいく見えてくるから! この仏頂面も」
「たぶん、ご本人も、付加価値を無理やり付けてもらってまで、かわいいと思われたくないでしょうけどねぇ」
しかもループしてますよ、悠さん。ごはんがおいしい以外に褒めどころないんですか。おざなりに笑ってアクセルを踏んだ岩見が、ふと呟いた。
「というか、その方、あれでしょう。このあいだの田舎のロケの。そういえば、あのころから悠さんご機嫌ですよねぇ……」
探るような沈黙に、時東は慌てて否定した。ゲイだとかそういう話ではない。
「岩見ちゃん、違うから。あの、違うからね? 俺は純粋に南さんのごはんが好きで、だから時間のあるときに寄らせてもらってるだけで」
頻度もそんなに多くないし。精々が隔週だし。今日も時間があるからちょっと行ってみようかなと考えていただけで。
つらつらと訴えた時東に、岩見が「はぁ」とも「へぇ」とも取れない曖昧さで首を傾げた。
「あの田舎まで二週間に一度。悠さん、田舎とか好きなタイプでしたっけ?」
「つまるところ、俺にとってのおふくろの味なの。いいでしょ、それで俺のご機嫌が保たれてるんだから」
「それはそうですけどねぇ。あ、収録の前になにか腹に入れますか? おにぎりかサンドイッチならありますけど、希望があればどこか寄りますよ。テイクアウトで」
「いや、大丈夫。適当にもらうから」
断って、時東は傍らの袋を覗いた。おにぎりにサンドイッチ。岩見の言葉どおり時東が好きだと言ったことのある種類ばかりだった。気遣いはありがたいが、今の時東にはどれも同じなのである。
不思議なことに、あのロケの日。回復したはずの味覚は、南食堂限定の魔法だったらしい。
以前のように、やれあそこの店がいいだのと頼む気も起こらない。岩見が訝しんでいる可能性はあるが、味覚が死んでいるとは思っていないだろう。我儘を言わなくて楽になったとでも思っていればいい。
ぺりとサンドイッチの包みを剥がしてかじりつく。トマトときゅうりの歯ごたえは感じるものの、あるべきはずの味はないままだ。
そういえば、南さんって、こういったサンドイッチとかも作れるのかなぁ。想像して、味気なさを誤魔化そうと試みる。
まぁ、南さんにはカフェエプロンより白い手ぬぐいのほうが似合う気もするけど。あの、頭に巻く感じの。土方のお兄ちゃんというか、江戸前寿司の大将というか。つらつらとした思考の海に沈みながら、時東は残り一口を飲み込んだ。
早く終わってくれたらいいけど。クイズ番組の出演者とスタッフに念を飛ばしつつ、水を流し込む。
悲しいかな、味がないものを食べることにもそれなりに慣れてしまった。けれど、どうせならば、おいしいものを食べたい。味覚が消えてはじめて、時東は食の大切さを思い知った。
そんなわけだったので、味が戻った瞬間の感動は大変なものだったのだ。この数年の中で一番大きく感情が動いたと言っても過言ではないほどに。
――だから、よけいショックだったんだよなぁ、あれ。
東京に戻った足で意気揚々と赴いたお気に入りの店で、味を感知できなかった瞬間は。だから、時東は諦めたのだ。認めざるを得なかったと評してもいい。
理由はわからないが、あの人でなければ駄目なのだ、と。
「南さん、こっちで店やってくんないかな」
そうすれば、毎日でも通う自信がある。半ば以上本気の呟きに岩見が笑った。
「おいしかったですけど、普通の味じゃないですか。無理ですって。こっちじゃなかなか」
その普通の味が、時東にとっては運命だったのだ。この贅沢者、と内心で毒づいて、目を閉じる。
収録が終わって家に帰ったら、すぐにバイクで出かけよう。
はじめてプライベートで店に押しかけた夜。良く言えば意外そうな、悪く言えば迷惑そうな顔をされたものの、それでも南は、時東の居場所をつくり、受け入れてくれた。
時東を芸能人の『時東はるか』ではなく、ただの迷惑な客として、閉店後の店内で受け入れてくれる。そうして、味のする温かいごはんを出してくれる。
それがどれだけありがたいことなのか、きっと南は知らないのだろうけれど。自分が知っているからいいのだと時東は思った。南食堂の看板が恋しかった。
わかっていたことなのに、食べ物を口にするたび少なくないショックを受ける。そうして、表現のしがたい苛立ち。けれど、なにも感じなくなったら、きっと、もっとヤバイのだろうな。
心身ともに充実し働き盛りであるはずの二十四才男性としては、あまりに寂しい夕食だ。
自嘲ひとつで、時東は一口かじっただけのおにぎりを机の端に追いやった。激辛キムチ炒飯。派手派手しいパッケージに淡い期待を抱き、コンビニエンスストアで購入したものである。
少し前までは、刺激が強いものであれば多少の味はわかった。
「ストレス、か」
力ないひとりごとが防音室に響く。医者に問われずとも、ストレスの原因はわかっていた。ただ、解決策が見当たらない。
プロデビューを目指していた時東悠が、「時東はるか」なる芸名で夢を叶えること、早五年。名前と顔が売れ始め、セキュリティのしっかりとしたマンションに居住を移した。ひとりで暮らすには十分な2LDK。心置きなく曲作りに打ち込むことのできる防音室の存在が決め手だった。
そのはずだったのに、熱中していた日々がどこまでも遠い。
惰性の延長線で傍らに置いたギターから視線を外し、伸びてきた前髪をかきやった。
時東が自身で作詞作曲を行う必要性を、プロダクションの社長は感じていない。
おまえはテレビの前でその顔で歌っていればいい。曲は提供してもらおう。そうだ。北風春太郎はどうだ。名案だと言わんばかりに社長が挙げた名前は、着実にヒットを生み出し続けている若手作曲家のものだった。
その提案は、自分で曲を作り、言葉を乗せ、歌っていきたいと願う時東のプライドを十分すぎるほど傷つけた。
だが、今の自分は、新しい曲どころかフレーズのひとつも生み出せないのだ。ごく当然の提案だったのかもしれない。
五年前のデビュー当時。顔のおかげで叶ったと皮肉られていたことを時東は知っている。けれど、いつかわかってもらえたらいいと思っていた。いつか。自分が生み出す曲で、歌う声で、なにかを感じてくれたらいい。いつか。
その「いつか」が、いつのまにか見えなくなった。
むしゃくしゃした感情を溜息で追いやって、防音室を出る。
モデルルームのように無機質なリビングを大股で通り抜け、時東は酒しか入っていない冷蔵庫を開けた。
無造作に発泡酒を抜き取って、缶を開ける。味がわからないのだから、高い酒も安い酒もすべて同じだ。期待するのは、アルコールによる軽い酩酊だけ。
喉に一気に流し込み、空き缶を流しに置く。防音室に引き返すつもりだった足が止まったのは、リビングの途中だった。
テーブルに放置したスマートフォンの点滅を見とめ、なけなしの義務感で手を伸ばす。届いていた文面を一読した時東は、うんざりと画面を閉じた。
「田舎に行こう、ねぇ」
なんのことはない。マネージャーからの明日の予定の念押しだった。芸能人が単独で田舎に赴き交流を図るバラエティ。ひな壇に座って笑っていれば終わるものと違い、明確な台本のない頭を使う仕事である。面倒くさい。何度目になるのか知れない溜息を吐き出して、時東は天を仰いだ。
ライブ依頼や音楽番組といった本業の出演より、バラエティ番組への出演依頼が増えたのは、いったいいつからだっただろう。
自分のキャラのなにが受けたのか、はたまたこの顔のおかげなのか。とにもかくに時東の存在は視聴者に受け、以後、バラエティばかり打診が来るようになったのだ。
ありがたいことですよ、とマネージャーは口を酸っぱくして時東を諭す。わかっている。そして、時東も子どもではない。
明日もへらへらと愛想を振り撒いて、適当に間の抜けたことを言って、味がわからなくとも、おいしそうに現地の料理を食べてやるつもりだ。「わぁ、おいしい」なんて、嘘だらけの感嘆とともに。
そのロケで、運命の味に出逢えるとは露知らず。なにもかもが面倒になって、時東はソファーに倒れ込んだ。部屋はいつも快適で、季節感を感じさせない。蝉の声のひとつも聞かないまま、夏が終わってしまいそうだ。昔はこうではなかったのに。
十代の中ごろから終わり、若さにかまけてバンド練習に打ち込んでいたころ。住んでいた六畳一間のアパートはもっともっと暑かった。夏は寝苦しいし、冬はどれだけ着込んでも隙間風が吹き込んで指がかじかんだ。ギターの騒音で隣人に怒鳴り込まれた回数も数え切れない。けれど、生きていた。きっと、あのころのほうが時東は生きていた。
ままならない、なにもかもが。今の自分を言い表すとすれば、この一言に尽きると思った。
[1:時東はるか 9月2日2時15分]
「最近、ご機嫌ですねぇ。悠さん」
トーク番組の収録を終え、次の収録先へと向かう車内である。運転席からマネージャーの岩見に話しかけられて、時東はスマートフォンの画面から視線を上げた。
「うん。ごはんがおいしいのは幸せだよねって気持ちでいっぱい」
「って、なに疲れ切った爺さんみたいなこと言ってるんですか。このあとクイズ番組なんですから、テンション高めにお願いしますよぉ」
バックミラーに映る岩見の童顔に、人畜無害な笑顔が浮かぶ。時東と一才しか変わらないとは思えない、あいかわらずのそれだ。
「ねぇ、岩見ちゃん。その収録さ、二十時にはちゃんと終わるよね?」
「あー、予定ではそうですけどねぇ。押しても小一時間だと思いますけど。デートですかぁ? バレないようにしてくださいよ」
「デートではないってば」
無用な不安を植え付けて、お楽しみを邪魔されたくはない。時東は即座に否定してみせた。そもそもとして、本当にデートではない。結婚したいとはわりと心から思っているが。主に安定した食のために。
つまるところ、今日は南食堂への来訪日なのだ。無論、約束を交わしたわけでもなく、時東が勝手に決めた予定である。だが、しかし。「今夜は味のあるご飯、味のあるご飯、南食堂」と言い聞かせ、二週間を耐え忍んだのだ。
二十時に出発することは二十二時に向こうにたどり着く最低条件なので、なにがなんでも譲れない。
「ほら。岩見ちゃん。こちらが本日の俺の予定です」
前々回、南食堂を訪れた折に撮影した写真を、時東はここぞと見せつけた。よく言って、職人気質。濁さず言えば、愛想の欠片もない立ち姿。だが、そんなことはどうでもいいのだ。
フレームの下方に映り込んでいる揚げ出し豆腐に、思わず口角が緩む。生姜と大根の風味が効いていて大変おいしかった。ぜひまた食べたい。あれでいて、南はさりげなくリクエストに答えてくれるのだ。この二ヶ月の経験則である。
信号待ちの合間に首を巡らせた岩見が、画面を一瞥するなり前に向き直った。
「なんで隠し撮り……。しかもかわいくもなんともない男……。僕には悠さんがなにをしたいのかわかりません」
「かわいいって! ここにごはんがおいしい、とか。案外、面倒見が良いとか。その手でむしろもっと俺にごはんを与えてほしいとか。そういった付加価値を付けたらかわいく見えてくるから! この仏頂面も」
「たぶん、ご本人も、付加価値を無理やり付けてもらってまで、かわいいと思われたくないでしょうけどねぇ」
しかもループしてますよ、悠さん。ごはんがおいしい以外に褒めどころないんですか。おざなりに笑ってアクセルを踏んだ岩見が、ふと呟いた。
「というか、その方、あれでしょう。このあいだの田舎のロケの。そういえば、あのころから悠さんご機嫌ですよねぇ……」
探るような沈黙に、時東は慌てて否定した。ゲイだとかそういう話ではない。
「岩見ちゃん、違うから。あの、違うからね? 俺は純粋に南さんのごはんが好きで、だから時間のあるときに寄らせてもらってるだけで」
頻度もそんなに多くないし。精々が隔週だし。今日も時間があるからちょっと行ってみようかなと考えていただけで。
つらつらと訴えた時東に、岩見が「はぁ」とも「へぇ」とも取れない曖昧さで首を傾げた。
「あの田舎まで二週間に一度。悠さん、田舎とか好きなタイプでしたっけ?」
「つまるところ、俺にとってのおふくろの味なの。いいでしょ、それで俺のご機嫌が保たれてるんだから」
「それはそうですけどねぇ。あ、収録の前になにか腹に入れますか? おにぎりかサンドイッチならありますけど、希望があればどこか寄りますよ。テイクアウトで」
「いや、大丈夫。適当にもらうから」
断って、時東は傍らの袋を覗いた。おにぎりにサンドイッチ。岩見の言葉どおり時東が好きだと言ったことのある種類ばかりだった。気遣いはありがたいが、今の時東にはどれも同じなのである。
不思議なことに、あのロケの日。回復したはずの味覚は、南食堂限定の魔法だったらしい。
以前のように、やれあそこの店がいいだのと頼む気も起こらない。岩見が訝しんでいる可能性はあるが、味覚が死んでいるとは思っていないだろう。我儘を言わなくて楽になったとでも思っていればいい。
ぺりとサンドイッチの包みを剥がしてかじりつく。トマトときゅうりの歯ごたえは感じるものの、あるべきはずの味はないままだ。
そういえば、南さんって、こういったサンドイッチとかも作れるのかなぁ。想像して、味気なさを誤魔化そうと試みる。
まぁ、南さんにはカフェエプロンより白い手ぬぐいのほうが似合う気もするけど。あの、頭に巻く感じの。土方のお兄ちゃんというか、江戸前寿司の大将というか。つらつらとした思考の海に沈みながら、時東は残り一口を飲み込んだ。
早く終わってくれたらいいけど。クイズ番組の出演者とスタッフに念を飛ばしつつ、水を流し込む。
悲しいかな、味がないものを食べることにもそれなりに慣れてしまった。けれど、どうせならば、おいしいものを食べたい。味覚が消えてはじめて、時東は食の大切さを思い知った。
そんなわけだったので、味が戻った瞬間の感動は大変なものだったのだ。この数年の中で一番大きく感情が動いたと言っても過言ではないほどに。
――だから、よけいショックだったんだよなぁ、あれ。
東京に戻った足で意気揚々と赴いたお気に入りの店で、味を感知できなかった瞬間は。だから、時東は諦めたのだ。認めざるを得なかったと評してもいい。
理由はわからないが、あの人でなければ駄目なのだ、と。
「南さん、こっちで店やってくんないかな」
そうすれば、毎日でも通う自信がある。半ば以上本気の呟きに岩見が笑った。
「おいしかったですけど、普通の味じゃないですか。無理ですって。こっちじゃなかなか」
その普通の味が、時東にとっては運命だったのだ。この贅沢者、と内心で毒づいて、目を閉じる。
収録が終わって家に帰ったら、すぐにバイクで出かけよう。
はじめてプライベートで店に押しかけた夜。良く言えば意外そうな、悪く言えば迷惑そうな顔をされたものの、それでも南は、時東の居場所をつくり、受け入れてくれた。
時東を芸能人の『時東はるか』ではなく、ただの迷惑な客として、閉店後の店内で受け入れてくれる。そうして、味のする温かいごはんを出してくれる。
それがどれだけありがたいことなのか、きっと南は知らないのだろうけれど。自分が知っているからいいのだと時東は思った。南食堂の看板が恋しかった。