食堂の戸締りを終えて外に出ると、町道はうっすらと白に染まっていた。
夜空から落ちてくるのは、水分の多い牡丹雪だった。夜半も降り続けば、明朝は少し積もっているかもしれない。
南の住む町は、年に数度は十センチ程度の積雪がある。
高齢者の多い地区なので、ご近所数件分の雪かきと、自宅から町道までの雪かきを担うことになるものの、負担と思ったことはない。
幼馴染みなどは「本当、よくやるよねぇ」と呆れ半分に言うけれど、たぶん、そういう性分なのだ。情けは人の為ならず。持ちつ持たれつ。そうでないと、人付き合いの密な田舎でうまくやっていくことはできないので、ちょうどいい。
つまり、自分にはこの生活が合っているのだ。そのはずで、後悔はひとつもないはずなのに。
――なんか、最近、似たようなことばっか考えてる気がするな。
言い聞かせているというか、なんというか。
この町にいるはずのない存在が、目の前に現れたせいなのかもしれない。
とりとめもないことを考えながら歩く先、明かりの灯った窓が見えた。戻ってきたのか。
仕事から帰ると、家の窓に明かりがある。数年前まではあたりまえだった光景が妙に胸に染みた。きっと、肌を刺す寒さのせいだろう。
[17:南凛太朗 1月7日21時55分]
「あ、お帰りなさい。南さん。お邪魔してます」
「ただいま」
居間からこぼれる明かりに誘われて顔を出せば、炬燵で書き物をしていた時東の顔が上がった。へにゃりとほほえむ顔は、やはりどうにも華がある。
築云十年の田舎家屋に馴染んでいることがおかしくて、自然と声が柔らかくなった。
「いつ戻ってきたの?」
「あ、えっと、一時間くらい前です。寒かった」
だろうな、と思いつつ、上着を脱ぎながらもうひとつ問いかける。
「店のほうに顔出したら、なんか食わせてやったのに。なんで顔出さなかったんだ?」
家の鍵を渡しているので、店に寄らずとも問題はなにもないのだが。小一時間前に着いていたのであれば、食堂ののれんは下りていただろうにと思ったのだ。
のれんを下ろしてるときは行ってもいいんだよね、と。食い気味に確約を取り付けたのは、店に通い出したころの時東だ。
問いかけに、「えーと」と時東が視線をさまよわせる。
「気にしてんのか、もしかして」
「いや、そういうわけでもなくもなくないかも」
「どっちだよ」
曖昧な返事に苦笑して、時東の正面に腰を下ろす。歌詞でも書いていたのだろうか。使い込んだノートには、途切れ途切れに文字が躍っていた。
「それは、まぁ、気にしないわけないじゃないですか。南さんがいくら気にしなくていいって言ってくれても」
もぞもぞと口を割った時東が、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「そういうわけで、俺なりの自戒ってやつです。南さん、修繕費とかお見舞いとか受け取ってくれないでしょ」
「まぁなぁ」
「やっぱり!? ということは、俺の食費とかそういうのも受け取ってくれないよね? いっそのこと、この机に封筒置いて行こうかな」
「事務所宛てに送り返すからな」
「それ一番地味に傷つくやつ!」
駄々っ子のように首を振って、時東はぱたりとノートを閉じた。書けないのか、と。尋ねたい衝動が疼き、けれど、すぐに内側に沈んでいく。
じっと見つめていると、時東がへにょりと眉を下げた。
「なんていうかさ、嫌だなって思ったんだよ。俺が、純粋に」
それは、どれのことなのだろう、と南は思った。「芸能人だから」というお題目でプライベートを脅かされることか。それとも節度を持たないファンを持ってしまったことか。それとも――。
「余計なこと言うなって事務所には怒られるしさぁ。どうせネットでも調子乗ってるとか言って叩かれてるんでしょ、俺。知らないけど」
「いや、俺も知らねぇけど」
「見なさそうだよね、南さんは、そういうの」
ほっとしたような言い方に、不必要な感情が動きそうになる。蓋をして、いかにもしかたないというふうに南は息を吐いた。
「事務所のことは知らないから、なんとも言えないけど。いいんじゃないの、べつに。おまえのファンに向けて、おまえが言ったことなんだから」
怒られようが、叩かれようが、おまえにとっての正解はそれだったのだろう、と言えば、時東は目を瞬かせた。
「南さんも?」
「なんで俺だよ、おまえとおまえのファンの話だろうが」
「いや、……まぁ、それも、まぁ、そうなんだけど」
「だったら、それでいいだろ。面倒だったんだろうとは思うけど、とりあえず終わった話なんだろ? もう置いとけよ」
自分がどうのという方向に話を進めたくなかっただけなのだが、怒ったように響いたかもしれない。
言葉に迷っている様子が見て取れて、さりげなさを装い卓上に視線を落とす。閉じられたノート。響かないギターの音色。
そのいずれもが再び芽吹くことを南は願っている。不必要な感情が増えようとも、それだけは本心のつもりだった。手助けのひとつとして、場所を貸してやろうと考えたことも。
「あの、南さん」
「……なに?」
おずおずとした呼びかけに、諦めて視線を向け直す。いつか見た、怒られることを待つ子どもに似た顔。
「その、……このあいだは、新年早々ごめんなさい」
「仕事だったんだろ? いいよ、謝らなくて」
「ええと、それもそうなんだけど。そこじゃなくて」
その、とまたしても言いあぐねるように時東は口を噤んだ。なにをそんなに気を使っているのだろうか。半ば呆れながら続きを待つ。
おまえにとってのここは、気を使わなくて済む楽な場所だったんじゃないのか、と言ってやりたい気がした。
「なんか、南さん、雰囲気ちょっと違うし」
「雰囲気?」
「そう、なんていうか、棘があるとまでは言わないけど、壁があるっていうか」
「俺がとっつきにくいのはもともとなんだけどな」
そつなく愛想の良い春風と違い、南は幼いころから無愛想だった。そんな人間の家に、なぜ、こいつは、店主と客の垣根を飛び越えて入ってきたのだろう。
そう考えたところで、ひとつ南は思い出した。遠慮するそぶりを見せた時東を最初に引き入れたのは、自分だ。
「いや、それもそうかもしれないんだけど、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「怒ってるのかな、と思って。勝手に俺の……なんていうのかな、理想みたいなのを南さんに押しつけたこと」
神妙な顔で告げた時東に、なんだ、と南は安堵を覚えた。わざわざ自分が深読みをしなくとも、時東はきちんと理解をしている。
だったら、構わない。そう思ったので、南は苦笑を返した。
「怒るか、そんなことで。この年にもなって」
「年齢ってそんなに関係ないんじゃ。いや、まぁ、自分が年より幼い自覚は一応あるんだけど。……いや、それも違くて」
どうにも要領を得ない話しぶりだったが、心の内を話すことに慣れていないからなのだろう。
あのテレビを見たとき、春風もそんなふうに評して笑っていた。
「なんて言ったらいいのか、ちょっとわからないんだけど。その、苛々してました。ごめんなさい。会えると思ってたのに会えなかったからかな……って、これもぜんぶ俺の勝手だな、ごめんなさい。それで、あの」
「時東」
延々と続きそうだった釈明を遮り、口を開く。
「好きにしたらいい、ぜんぶ、おまえの」
「え……?」
「俺がおまえを受け入れてるのは、俺の意志だ。だから、ここに帰ってきたかったら、いつでも戻ってきたらいい」
来たいと思っているうちは、そうすればいい。それだけのことだ、と。目の前の相手を見つめたまま南は言い切った。
「逆に、今までの場所に戻りたかったら、とっとと忘れたらいい。こんなものぜんぶ」
気の抜けた顔で落ち着くと笑った時間も、とりとめのない交流も、おいしいと笑顔で一緒にごはんを食べたことも、すべて。
精神が落ち着いて、曲を作れるようになって。ストレスが減れば減るだけ、向こうでも笑って食べることができるようになる。自分の作ったものであろうと、なかろうと、なにも関係がなく。
そうやって、テレビの中の「時東はるか」に戻っていけばいい。本当に、そう思っていた。
「なんで、そういうこと、言うの?」
はじめて聞く、静かな声だった。
「そういうことって?」
瞳に潜む険には気がつかないふりで、南は問い返した。間違ったことを言ったつもりはなかったからだ。
「わかってるくせに。その、俺を遠ざけるようなこと」
「あのな、時東」
溜息を呑み込み、宥める調子で呼びかける。どうしてわざわざ言葉にしないといけないのか。ほんの少し、そんなふうに苛立ちながら。
自分が年上だからか。人間関係に傷ついた過去を持つ子どもが、誰かに遠ざけられることを嫌がっていると承知しているからか。随分と馬鹿らしいことをしていると思った。
「俺は、あたりまえのことを言ってるだけだ」
ついさっき、おまえも言っていただろうとは心底思ったけれど。最後の情けで指摘はしなかったが、そういうことでしかなかった。
理想を押しつけ、自分の理想郷を作ろうとしていた。その相手がたまたま自分だったというだけのこと。だが、それが悪いわけではない。
時東が立ち直るために必要な過程だったと思うこともできる。けれど、だからこそ、立ち直ったら出て行くべきなのだ。
「それに、誰も二度と来るなとは言ってないだろ」
選ぶのはおまえで、その未来を選ぶべきとは言ったかもしれないが。必要以上に強要するつもりは南にはなかった。傷つけたいわけではなかったからだ。
「それが南さんの本心なの?」
座卓に置いた手に時東のものが重なる。緊張しているのか、ひどく冷たかった。
それなのに、頭に浮かんだのは、この家は暖かいと言ったいつかのうれしそうな声で。
「あぁ」
その声を封印し、南は淡々と応じた。
「本心というか、まぁ、そうだな。それ以外にないだろ」
この家が、自分が、避難場所として機能しているあいだは、おまえを捨てるつもりはない。それだけのことなのだ。
親身になる理由がわからないというのであれば、南の中にある過去の罪悪感ゆえだと答えてやってもいい。
理由を知れば、時東が来ることはなくなるのだろうけれど。
「そう」
感情の凪いだ声だった。
「うん、わかった」
にこり、と。テレビの中で見る顔でほほえんだのを最後に、時東の手が離れていく。
寒い、と思った。
理由はわからなかった。
底冷えのする家にも、ひとりで過ごす夜にも、慣れていたはずだったのに。なぜ、そんなふうに思ってしまったのだろう。
南には結婚をするつもりがない。心を明け渡した人が、また突如いなくなる。その可能性を想像することに耐えられなかったからだ。
だから、ひとりで生きていくつもりでいた。でも、それでいいと思っていた。たまに顔を出す春風の相手をしながら、やれる年まで食堂をやって、この家で暮らしていく。それで十分に幸せだと、そう。
本心で思っていたはずなのに、中途半端に招き入れてしまった。灯りのついた家に帰ることに慣れてしまった。
反省すべき点はそこだった。そこでしかない。時東はなにも悪くない。
「時東」
呼びかけると、「なに?」ともう一度時東がほほえんだ。
「気に障ったんなら、謝る」
剥がれ落ちた殻を、一枚一枚張りつけ直したような笑顔だった。
ここにいるあいだは、ありのままでいることができるはずだったんだろう。よくわからない、八つ当たりのような感情が渦巻いていた。そのすべてを押さえ込んで、言葉を続ける。
「だから、帰るとか言い出すなよ」
「え……」
「雪。おまえが来たときよりもずっと積もってる。雪道になんて慣れてないだろ。そんなやつがバイクで二時間もかかるところに夜中に帰ろうとするな。……頼むから」
慣れない夜道は怖いと南は知っている。雪が積もっていれば、なおさらだ。いくら自分が気をつけても、スリップした車が突っ込んできたらどうにもならない。あの怖さを、もう二度と知りたくはなかった。そんなニュースは見たくない。
静かに耳を傾けていた時東が、ふっとした笑みをこぼした。
もしかすると、話の底に流れる不安に気がついたのかもしれない。だが、それで残ろうと思ってくれるのであれば構わない。そう思った。
わずかに視線を逸らし、時東が呟く。隠しきれない呆れと自嘲のにじんだ声だった。
「南さんのそれって、本当に性質悪いよね」
圧いカーテンに覆われた窓の外では、雪起こしのような雷鳴が響いている。
寒い、冬の夜だった。
夜空から落ちてくるのは、水分の多い牡丹雪だった。夜半も降り続けば、明朝は少し積もっているかもしれない。
南の住む町は、年に数度は十センチ程度の積雪がある。
高齢者の多い地区なので、ご近所数件分の雪かきと、自宅から町道までの雪かきを担うことになるものの、負担と思ったことはない。
幼馴染みなどは「本当、よくやるよねぇ」と呆れ半分に言うけれど、たぶん、そういう性分なのだ。情けは人の為ならず。持ちつ持たれつ。そうでないと、人付き合いの密な田舎でうまくやっていくことはできないので、ちょうどいい。
つまり、自分にはこの生活が合っているのだ。そのはずで、後悔はひとつもないはずなのに。
――なんか、最近、似たようなことばっか考えてる気がするな。
言い聞かせているというか、なんというか。
この町にいるはずのない存在が、目の前に現れたせいなのかもしれない。
とりとめもないことを考えながら歩く先、明かりの灯った窓が見えた。戻ってきたのか。
仕事から帰ると、家の窓に明かりがある。数年前まではあたりまえだった光景が妙に胸に染みた。きっと、肌を刺す寒さのせいだろう。
[17:南凛太朗 1月7日21時55分]
「あ、お帰りなさい。南さん。お邪魔してます」
「ただいま」
居間からこぼれる明かりに誘われて顔を出せば、炬燵で書き物をしていた時東の顔が上がった。へにゃりとほほえむ顔は、やはりどうにも華がある。
築云十年の田舎家屋に馴染んでいることがおかしくて、自然と声が柔らかくなった。
「いつ戻ってきたの?」
「あ、えっと、一時間くらい前です。寒かった」
だろうな、と思いつつ、上着を脱ぎながらもうひとつ問いかける。
「店のほうに顔出したら、なんか食わせてやったのに。なんで顔出さなかったんだ?」
家の鍵を渡しているので、店に寄らずとも問題はなにもないのだが。小一時間前に着いていたのであれば、食堂ののれんは下りていただろうにと思ったのだ。
のれんを下ろしてるときは行ってもいいんだよね、と。食い気味に確約を取り付けたのは、店に通い出したころの時東だ。
問いかけに、「えーと」と時東が視線をさまよわせる。
「気にしてんのか、もしかして」
「いや、そういうわけでもなくもなくないかも」
「どっちだよ」
曖昧な返事に苦笑して、時東の正面に腰を下ろす。歌詞でも書いていたのだろうか。使い込んだノートには、途切れ途切れに文字が躍っていた。
「それは、まぁ、気にしないわけないじゃないですか。南さんがいくら気にしなくていいって言ってくれても」
もぞもぞと口を割った時東が、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「そういうわけで、俺なりの自戒ってやつです。南さん、修繕費とかお見舞いとか受け取ってくれないでしょ」
「まぁなぁ」
「やっぱり!? ということは、俺の食費とかそういうのも受け取ってくれないよね? いっそのこと、この机に封筒置いて行こうかな」
「事務所宛てに送り返すからな」
「それ一番地味に傷つくやつ!」
駄々っ子のように首を振って、時東はぱたりとノートを閉じた。書けないのか、と。尋ねたい衝動が疼き、けれど、すぐに内側に沈んでいく。
じっと見つめていると、時東がへにょりと眉を下げた。
「なんていうかさ、嫌だなって思ったんだよ。俺が、純粋に」
それは、どれのことなのだろう、と南は思った。「芸能人だから」というお題目でプライベートを脅かされることか。それとも節度を持たないファンを持ってしまったことか。それとも――。
「余計なこと言うなって事務所には怒られるしさぁ。どうせネットでも調子乗ってるとか言って叩かれてるんでしょ、俺。知らないけど」
「いや、俺も知らねぇけど」
「見なさそうだよね、南さんは、そういうの」
ほっとしたような言い方に、不必要な感情が動きそうになる。蓋をして、いかにもしかたないというふうに南は息を吐いた。
「事務所のことは知らないから、なんとも言えないけど。いいんじゃないの、べつに。おまえのファンに向けて、おまえが言ったことなんだから」
怒られようが、叩かれようが、おまえにとっての正解はそれだったのだろう、と言えば、時東は目を瞬かせた。
「南さんも?」
「なんで俺だよ、おまえとおまえのファンの話だろうが」
「いや、……まぁ、それも、まぁ、そうなんだけど」
「だったら、それでいいだろ。面倒だったんだろうとは思うけど、とりあえず終わった話なんだろ? もう置いとけよ」
自分がどうのという方向に話を進めたくなかっただけなのだが、怒ったように響いたかもしれない。
言葉に迷っている様子が見て取れて、さりげなさを装い卓上に視線を落とす。閉じられたノート。響かないギターの音色。
そのいずれもが再び芽吹くことを南は願っている。不必要な感情が増えようとも、それだけは本心のつもりだった。手助けのひとつとして、場所を貸してやろうと考えたことも。
「あの、南さん」
「……なに?」
おずおずとした呼びかけに、諦めて視線を向け直す。いつか見た、怒られることを待つ子どもに似た顔。
「その、……このあいだは、新年早々ごめんなさい」
「仕事だったんだろ? いいよ、謝らなくて」
「ええと、それもそうなんだけど。そこじゃなくて」
その、とまたしても言いあぐねるように時東は口を噤んだ。なにをそんなに気を使っているのだろうか。半ば呆れながら続きを待つ。
おまえにとってのここは、気を使わなくて済む楽な場所だったんじゃないのか、と言ってやりたい気がした。
「なんか、南さん、雰囲気ちょっと違うし」
「雰囲気?」
「そう、なんていうか、棘があるとまでは言わないけど、壁があるっていうか」
「俺がとっつきにくいのはもともとなんだけどな」
そつなく愛想の良い春風と違い、南は幼いころから無愛想だった。そんな人間の家に、なぜ、こいつは、店主と客の垣根を飛び越えて入ってきたのだろう。
そう考えたところで、ひとつ南は思い出した。遠慮するそぶりを見せた時東を最初に引き入れたのは、自分だ。
「いや、それもそうかもしれないんだけど、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「怒ってるのかな、と思って。勝手に俺の……なんていうのかな、理想みたいなのを南さんに押しつけたこと」
神妙な顔で告げた時東に、なんだ、と南は安堵を覚えた。わざわざ自分が深読みをしなくとも、時東はきちんと理解をしている。
だったら、構わない。そう思ったので、南は苦笑を返した。
「怒るか、そんなことで。この年にもなって」
「年齢ってそんなに関係ないんじゃ。いや、まぁ、自分が年より幼い自覚は一応あるんだけど。……いや、それも違くて」
どうにも要領を得ない話しぶりだったが、心の内を話すことに慣れていないからなのだろう。
あのテレビを見たとき、春風もそんなふうに評して笑っていた。
「なんて言ったらいいのか、ちょっとわからないんだけど。その、苛々してました。ごめんなさい。会えると思ってたのに会えなかったからかな……って、これもぜんぶ俺の勝手だな、ごめんなさい。それで、あの」
「時東」
延々と続きそうだった釈明を遮り、口を開く。
「好きにしたらいい、ぜんぶ、おまえの」
「え……?」
「俺がおまえを受け入れてるのは、俺の意志だ。だから、ここに帰ってきたかったら、いつでも戻ってきたらいい」
来たいと思っているうちは、そうすればいい。それだけのことだ、と。目の前の相手を見つめたまま南は言い切った。
「逆に、今までの場所に戻りたかったら、とっとと忘れたらいい。こんなものぜんぶ」
気の抜けた顔で落ち着くと笑った時間も、とりとめのない交流も、おいしいと笑顔で一緒にごはんを食べたことも、すべて。
精神が落ち着いて、曲を作れるようになって。ストレスが減れば減るだけ、向こうでも笑って食べることができるようになる。自分の作ったものであろうと、なかろうと、なにも関係がなく。
そうやって、テレビの中の「時東はるか」に戻っていけばいい。本当に、そう思っていた。
「なんで、そういうこと、言うの?」
はじめて聞く、静かな声だった。
「そういうことって?」
瞳に潜む険には気がつかないふりで、南は問い返した。間違ったことを言ったつもりはなかったからだ。
「わかってるくせに。その、俺を遠ざけるようなこと」
「あのな、時東」
溜息を呑み込み、宥める調子で呼びかける。どうしてわざわざ言葉にしないといけないのか。ほんの少し、そんなふうに苛立ちながら。
自分が年上だからか。人間関係に傷ついた過去を持つ子どもが、誰かに遠ざけられることを嫌がっていると承知しているからか。随分と馬鹿らしいことをしていると思った。
「俺は、あたりまえのことを言ってるだけだ」
ついさっき、おまえも言っていただろうとは心底思ったけれど。最後の情けで指摘はしなかったが、そういうことでしかなかった。
理想を押しつけ、自分の理想郷を作ろうとしていた。その相手がたまたま自分だったというだけのこと。だが、それが悪いわけではない。
時東が立ち直るために必要な過程だったと思うこともできる。けれど、だからこそ、立ち直ったら出て行くべきなのだ。
「それに、誰も二度と来るなとは言ってないだろ」
選ぶのはおまえで、その未来を選ぶべきとは言ったかもしれないが。必要以上に強要するつもりは南にはなかった。傷つけたいわけではなかったからだ。
「それが南さんの本心なの?」
座卓に置いた手に時東のものが重なる。緊張しているのか、ひどく冷たかった。
それなのに、頭に浮かんだのは、この家は暖かいと言ったいつかのうれしそうな声で。
「あぁ」
その声を封印し、南は淡々と応じた。
「本心というか、まぁ、そうだな。それ以外にないだろ」
この家が、自分が、避難場所として機能しているあいだは、おまえを捨てるつもりはない。それだけのことなのだ。
親身になる理由がわからないというのであれば、南の中にある過去の罪悪感ゆえだと答えてやってもいい。
理由を知れば、時東が来ることはなくなるのだろうけれど。
「そう」
感情の凪いだ声だった。
「うん、わかった」
にこり、と。テレビの中で見る顔でほほえんだのを最後に、時東の手が離れていく。
寒い、と思った。
理由はわからなかった。
底冷えのする家にも、ひとりで過ごす夜にも、慣れていたはずだったのに。なぜ、そんなふうに思ってしまったのだろう。
南には結婚をするつもりがない。心を明け渡した人が、また突如いなくなる。その可能性を想像することに耐えられなかったからだ。
だから、ひとりで生きていくつもりでいた。でも、それでいいと思っていた。たまに顔を出す春風の相手をしながら、やれる年まで食堂をやって、この家で暮らしていく。それで十分に幸せだと、そう。
本心で思っていたはずなのに、中途半端に招き入れてしまった。灯りのついた家に帰ることに慣れてしまった。
反省すべき点はそこだった。そこでしかない。時東はなにも悪くない。
「時東」
呼びかけると、「なに?」ともう一度時東がほほえんだ。
「気に障ったんなら、謝る」
剥がれ落ちた殻を、一枚一枚張りつけ直したような笑顔だった。
ここにいるあいだは、ありのままでいることができるはずだったんだろう。よくわからない、八つ当たりのような感情が渦巻いていた。そのすべてを押さえ込んで、言葉を続ける。
「だから、帰るとか言い出すなよ」
「え……」
「雪。おまえが来たときよりもずっと積もってる。雪道になんて慣れてないだろ。そんなやつがバイクで二時間もかかるところに夜中に帰ろうとするな。……頼むから」
慣れない夜道は怖いと南は知っている。雪が積もっていれば、なおさらだ。いくら自分が気をつけても、スリップした車が突っ込んできたらどうにもならない。あの怖さを、もう二度と知りたくはなかった。そんなニュースは見たくない。
静かに耳を傾けていた時東が、ふっとした笑みをこぼした。
もしかすると、話の底に流れる不安に気がついたのかもしれない。だが、それで残ろうと思ってくれるのであれば構わない。そう思った。
わずかに視線を逸らし、時東が呟く。隠しきれない呆れと自嘲のにじんだ声だった。
「南さんのそれって、本当に性質悪いよね」
圧いカーテンに覆われた窓の外では、雪起こしのような雷鳴が響いている。
寒い、冬の夜だった。