「お帰り。早かったね」
 勝手知ったるとばかりにドアを開けた幼馴染みは、チャイムを鳴らした南の顔を見てわずかに首を傾げた。
「てっきりもっと遅くなると思ってたな」
「最初からすぐ戻るって言ってただろ」
 春風が出てきたということは、家主は酔い潰れているのだろう。気の毒にと思いつつ、南は春風から視線を外した。仮にも年上なのだから、潰れる前に止めてやればいいものを。
「それはそうだけど」
 靴を脱ぐ南を見つめたまま、春風が応じる。いつもと変わらない調子に、寒さで強張っていた身体から、ほっと力が抜けた。
 昔から一緒にいる幼馴染みの声を聞くと、無条件に安心する。たぶん、自分のテリトリーに帰ってきたという感じがするのだと思う。
「時東くんが帰さないかと思って」
「そんなわけあるか」
 一蹴したものの、南はすぐに言い足した。切り捨てすぎたかもしれないと危ぶんだのだ。
「仕事、抜けられなくなったらしいぞ。駅に着いたあたりで電話があった。だから、会ってない」
「ふぅん、売れっ子も大変だ」
 からかう調子で笑った春風が、小さく肩をすくめる。
「やっぱり俺は裏方がいいね。変に顔が売れて出歩けなくなるのも嫌だし、縛られるのも嫌だ」
「だろうな、おまえは」
 リビングに続くドアの向こうから、懐かしい曲が漏れ聞こえている。月子だ。インディーズで活動していた当時の人気ナンバー。
 四人で集まると、月子は決まって昔の歌を口ずさむ。あのころは特別だったのだと懐かしむように。


[15:南凛太朗 1月3日22時34分]


「凛太朗、お帰り」
 ワイングラスを片手に振り返った月子が、ふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべる。その顔と、自分の不在中に積み上がったワインボトル。そうして、グラスを握ったまま力尽きた海斗の寝顔。
 それらすべてを順繰りに見やり、南は小さく溜息を吐いた。
「おまえ、また飲ませ過ぎたな」
「えー、あたしは、あたしのペースで飲んでただけだもん。海斗が勝手に無理してペース上げたの」
 机に突っ伏した屍は、静かな寝息を立てている。いつものパターンと言えば、いつものパターンである。
 海人も弱いわけではないものの、南も春風もワクだし、月子はザルなので、結果としてこうなってしまうのだ。
「抑えてやれよ。ふだん、あれだけ面倒見てもらってるんだから」
「でも、逆に、こういうときじゃないと、海斗の面倒なんて見れなくない?」
 ふふんと自慢げに笑った月子の細い指先が、海斗の頬をつつく。遊んでいるの間違いではなかろうか。そう疑ったものの、構われている海斗の寝顔は至極幸福そうだ。
 ――まぁ、いいか。
 海人がいいなら、それで。おざなりに割り切って、上着を脱ぐ。空いていたところに腰を下ろすと、その隣に春風も滑り込んだ。
「ほら、凛」
「……なんだよ」
「なんだよってご挨拶だな。飲みたそうな顔してたから、持ってきてあげたのに」
 卓上に置かれた一升瓶を一瞥し、眉間に皺を寄せる。
「してねぇ」
「してた、してた。飲みたそうな顔というか、飲んで忘れたそうな顔というか」
 だから、そんな顔はしていないだろう。言い返そうかと思ったものの、言い包められる未来しか予見できず、南は大人しく口を噤んだ。
「でも、あたし、ハルちゃんもだけど、凛太朗が酔ったところも見たことないな。ねぇ、凛太朗。ハルちゃんが酔うことある?」
「ないな」
「やっぱり。じゃあ、凛太朗は?」
「ねぇよ」
 グラスに日本酒を注ぎながら、おざなりに否定する。「なぁんだ」とつまらない声を出した月子に、春風が口を挟んだ。
「いや、一回だけ見たことあるよ、俺」
「本当?」
「さすがの俺もびっくりしたけどね。このワクが酔い潰れるとか、どれだけ飲んだんだって話でしょ。おまけに、介抱してる俺に思いっきりゲロぶっかけるしさぁ」
「……悪かったな」
「いや、まぁ、それはいいんだけど。それだけ飲んでも泣けないんだもん。馬鹿だねぇって思ったら、逆にかわいく見えてきちゃって」
 くすくすと春風は笑っている。
 自分をかわいいと表現するのは、この男くらいのものである。やめろと言いたかったが、南は言葉を呑み込んだ。
 悲しいかな、酒で記憶が飛ぶ性質ではないので、すべて覚えてしまっているのだ。その前提で、どう文句が言えようか。
「思わず俺の胸を貸しちゃったね。まぁ、ゲロまみれになっただけだったんだけど」
「さすが、ハルちゃん。優しい」
 きゃっきゃっと楽しそうな月子の声を聞きながら、グラスに口をつける。春風がその話をするとは思わなかったな、と思いながら。
 昨日まで元気だった人間が、あっさりといなくなることがある。いつまでもいると思い込んでいた人間が、忽然と消えることがある。そんなことを、思い知った夜だった。
 だからというわけではないものの、あの夜を終えてからの南は、新しい対人関係が億劫になった。今ある人間関係だけで十分と思うようになった。
 あの町にいれば、それで問題はなかった。昔から南を知る人間しかいない町で、穏やかで代わり映えのない、退屈ながらも幸せな日々が続いていく。
 そのはずだったのに。いつのまにか南の日常に新しい顔が入り込んだ。そうして、距離感を誤りそうになった。
 これ以上、亡くして怖い人間は要らない。
「そういえば、さ」
 こちらに向いた声に、思考に蓋をして顔を上げる。ほほえむ月子の顔は華やかだった。出会った当初は、飛び抜けてかわいいわけでも美人なわけでもない「ふつうの女子大生」だったのに。カメラの前に立つようになり、どんどんときれいになった。魅惑的になった。
 時東もそうだったのだろう。電話で話していたときにも思ったことだ。自分とはもう違う世界に立っている。
「あの子、誰にも個人的な連絡先教えないことで有名なんだよね。凛太朗、よく知ってたね」
 その問いかけに、南は言葉を呑んだ。けれど、ほんの少しのことだった。酒を舐め、いつもと変わらない淡々とした調子で応じる。
「都合が良かったんだろ、ちょうど」
 家を間借りしている人間として。あるいは、都合の良い避難先への連絡手段として。
「凛」
 かげった春風の声に、仕方なく視線を合わせる。付き合いが長いと言ってしまえばそれまでだが、簡単に変化を読み取るから困るのだ。
「どうかした?」
「いや」
 おそらく。強いて言うならば、今までがどうかしていたのだろう。それに気づくことができたから、だから、問題はなにもない。
「どうもしない」
 自分が言い切ってしまえば、春風はそれ以上を問わないと知っていた。案の定、春風は「そう」と頷いただけだった。
 残りを飲み切って、テーブルにグラスを置く。すべて、昔の話だ。
 まだ大学生だったころ。両親も健在で、都会で好き勝手に遊んで暮らしていたころ。数多く会ったわけでもなかったのに、なぜか妙に自分に懐いた少年がいた。