メールも電話も不精である、と。自他ともに認める南にとって、意味のない長電話は面倒で苦手なものだった。
 かつて付き合った面々との喧嘩原因の上位である悪癖で、他愛のない連絡を厭う南の恋愛を「情緒がないねぇ」と笑ったのは幼馴染みだ。だが、そうすると、現状は情緒が育った結果なのだろうか。
 会う予定が反故になったと言っても、数日もすればやってくる相手だ。話す必要のあることがあったわけでもない。
 そのはずなのに。
 夜の街で聞くとりとめない時東の話は、不思議なほど悪くなかった。


[14:南凛太朗 1月3日21時30分]


「そういえば、今日は大学のころのお友達と、だったの?」
 ごめんね、ひさしぶりだったんじゃないの。そんなふうに気遣われてしまい、問題ない、と南は苦笑を返した。
 駅舎の壁に背を預けて通話をしているあいだにも、何人もの人が通り過ぎていく。雑踏を眺めながら、南は安心させるための言葉を選んだ。べつに、申し訳ない声を聴きたいわけではない。
「定期的に会ってるやつらだし。今も勝手に呑んでるだろ」
「大学のお友達とまだしっかり付き合い続いてるんだ。なんか、すごいね」
「すごいか? そんなもんだろ」
「だって、俺、友達いないもん」
 けろりとした調子で時東が笑う。それはおまえ、いないのではなくて、おまえが切っただけだろう、との突っ込みを、南は寸前で呑み込んだ。
 有名になった途端にすり寄ってくる人間って、本当にいるんだね。デビューしたら親戚が増えるっていう俗説。嘘だと思ってたのに、ガチだったよ。倍増しちゃった。年末年始に実家に帰ると、サインの書きすぎで、手首がだるくなるんだよね。
 そう言っていたのは、月子だ。笑い話半分という調子だったが、なんとも言えない嫌悪がにじんでいたことも事実で。
 だから、余計なことは言わないでおこうと思ったのだ。時東のそれは、また少し違うのかもしれないが。
 ――あの子はいまだに引きずってるよね、『Ami intime』。
 春風がそう言ったとき、なんだ、と南は得心した。俺の思い過ごしでなく、おまえの眼にもそう映っていたのか、と。
「まぁ、俺も続いてるのは、あいつらくらいだけどな」
「男ばっかり? 女の子もいるの?」
「ひとりいる」
 月子たちだと答えたら、この男はどんな反応をするだろうか。
 さほどの興味もなく「やっぱり」と笑って流す気もするが、押し入れで見つけたCDの件を絡めて尋ねてくるかもしれない。
 ――まぁ、ないか。
 後者の確率は格段に低いに違いない。海斗の家を出る前にも思ったことだ。
 時東の対人距離は近いようで、ひどく遠い。こちらがなにもしなければ、すぐそばに来て尻尾を振るくせに、触ろうとすると、さりげなくを装って距離を取る。そんなイメージ。
「その女の子ってさぁ」
「ん?」
「南さんのこと、好きだったりしない?」
 急に真面目な声を出すから、吹き出しそうになってしまった。いったいどんな心配をしているのか。そういえば、会ってすぐのころにも似たようなことを言っていたな、と思い出す。
 結婚して家族ができたら、気軽に遊びに行けなくなると踏んでいるのだろう。そんな心配は無用と言ってやったはずなのに。
 しかたない、と苦笑ひとつで否定する。
「ないない。あいつは、――」
 月子は、ずっと春風のことが好きだ。おそらく出逢った当初から。馬鹿みたいに、健気にずっと。
「その子は?」
「いや、昔から春風のことが好きなんだよ。報われてねぇけど」
「あぁ、春風さんか。それは納得。職業柄、きれいな顔の人に会う機会は多いけど、それでもやっぱり格好良いと思うもん」
「おまえでもか」
 モデルでも、アイドルでも、俳優でも。きれいな顔の人間など、通話先の男は見慣れているだろうに、と。少し驚いた。
 地元の人間は、格好良いだの、素敵だの、と噂をしているけれど。
「逆に南さんは思わないの?」
「物心つく前から見てる顔だし、そこまでなんとも。昔はそれこそ女みたいだったけど」
 とは言え、だ。見た目に反し、春風の性格は昔からえげつなかった。からかわれると南が引くレベルの仕返しを完遂したくらいである。自分が庇う必要など皆無。むしろ、南は春風を止める側だった。
 そんなことはつゆ知らない母親に、「智治くんはかわいいんだから、一緒に帰ってあげるのよ」と言われるたび、なんとも言えない気持ちになったものである。人は見た目が九割というやつだ。
 つらつらとした思い出語りに、楽しそうに時東が笑う。
「美少女が大きくなったら美青年になる典型的なパターンだよね、それ。俺もそうだったもん」
「なに自分で自分のことを美形だって言ってんだ、おまえは」
 軽口で返したものの、想像は容易かった。時東も十分に整った顔をしている。スポットライトを浴びる「今」が似合う華やかさ。
 月子や海斗にしてもそうだが、人の目を意識する世界にいると、自然とそうなるのだろうか。
「ところで寒くない? まだ駅前にいるの? それとも歩いてる?」
 年上の同性をごく自然と気遣う言動に、南は笑った。
 こういうところに育ちの良さがにじんでいるというか、かわいいというか。
「まだ駅」
「そうなんだ。ちなみに俺はね、控室。出番待ちなんだけど、もうちょっともうちょっとって言いながら、だいぶ押してるっぽいんだよね」
「おつかれ」
「うん、ちょっとね。でも、電話できるのはうれしいかな。寒くはない?」
「うちのほうが寒い」
「たしかに。南さんの家のあたり、外気温低いよね。好きだけど」
 古い田舎の一軒家だからな。苦笑で応じ、自宅を思い浮かべる。
 底冷えのする寒さはあるけれど、それでも。誰かがいたら、マシになるのだ。
 たまらなさを感じる瞬間のある、一人の夜とは違う。
「俺さ。東京のマンションに戻ってからのほうが、なんか寒く感じるんだよね。絶対にマンションのほうがあったかいはずなのに」
 変だよね、と時東が笑う。そうか、と南も静かに笑った。自分も似たようなものだったからだ。
「うん」
 あまりにも素直な調子だったので、なんでなのだろうな、と。南はよくわからない気持ちになった。
 なんで、こういうところばかり変わらないのだろう。
 改札口から流れ出る人波に視線を向ける。
 幼い子どもを連れた若夫婦に、大学生と思しき若者たち。両親が生きていれば同年代だろう初老の夫婦。それぞれに仲の良い様子で通り過ぎていく。
 彼らのうちの誰が、通話相手が「時東はるか」だと思うだろうか。そう考えると、少し非現実的な心地がした。
「お友達の家までは、駅から何分くらいかかるの?」
「歩いて十分ってところだな」
「それはいいところだね、安心だ」
「なにが安心?」
 意図を掴み損ね、南は問い返した。
「いや、その、なんていうかさ。世の中いろんな趣味の人がいるじゃない。男だから安心かというと、そうとも言い切れないご時世なわけで」
「はぁ?」
「だって! そんな馬鹿じゃないの、みたいな声出さなくてもいいじゃん、ひどい!」
 なにをしどろもどろに言っているのかと不審がっているうちに、やけくそ気味に時東が叫んだ。「馬鹿か、こいつ」という呆れは正確に伝わっていたらしい。
「そりゃ、南さんは南さんだけどね。どんな趣味の人がいるのかなんてわからないし。そもそもとして、誰もが顔見知りの南さんの地元とは違うんですよ、東京は」
 いろいろな趣味を持った人間はいるだろうが、自分を選ぶという趣味は最底辺でなかろうか。実の親でさえ、そういった類の心配は、かわいすぎる幼馴染みに向けたくらいだ。
「たとえば、俺みたいなさ」
「あぁ、はい、はい」
「めちゃくちゃ聞き流された気がする……。なんかいつも聞き流されてる気がする……」
 いつも、いつも。そうされても問題のない伝え方しかしないからだろう。溜息と一緒に台詞を呑み込んで、周囲を見渡した。おたがいさまだということは、重々承知している。
 ロータリーの向こう。商業ビルの側面につるされた看板が目に入り、南は小さな声をもらした。先ほど覚えた非現実がじわりと足元から蘇る。
「なに? 南さん」
「いや、おまえ、芸能人なんだなと思って」
「え? え? なに、いきなり」
「いや、目の前におまえのドアップがあったことに気づいて。なんだっけ。なんか、酒の」
「あぁ、たぶん、チューハイ……」
「変な感じだよな、なんか。おまえの看板見ながら、電話してんの」
 そうだ。この状況は「変」なのだ。あたりまえのことではない。
 南がよく目にする、へにゃりとした力の抜けた笑顔ではない、爽やかな笑顔。芸能人の時東はるかの顔。遥か頭上から、それが自分を見下ろしている。
「時東?」
 不意に訪れた沈黙に、名前を呼ぶ。しばらくしてスマートフォン越しに響いたのは、どこか拗ねた声音だった。
「南さんの家に行きたい。炬燵に入って、お酒飲みたい。南さんのごはんも食べたいし、あの部屋で寒いなって思いながら眠りたい」
「寒いのかよ、結局」
「いや、寒いけど、そこはいいんだって。こう、なんというか、心の持ちようの問題だし。今度、あったか毛布を持ち込もうかなぁと企んでたけど、そうじゃなくて」
 じれったそうに言い募った時東が、はぁ、と小さく息を吐いた。ぐちゃぐちゃと髪を掻き混ぜる姿が浮かぶ。苛立ったとき、自分の感情に困ったとき、時東はよくそういう仕草を見せたから。
「俺のわがままだよ。わがままなんだよ。わかってる。でも、あんまり、なんていうのかな。南さんに、そういうこと言われたくなかった」
 そういうこと。芸能人として扱われること。そういう目で見られること。
「俺がいないところで、俺の前にいてほしい」
 時東の本音なのだろうとわかったから、「そうか」と南は応じた。いつもどおりの調子で。
 正しかったと確信したからだ。自身に言い聞かせていたことは正しかった。そして、自分が距離感を取り違えなかったことに安堵した。
 時東が求めているのは、芸能人ではない自分を受け入れてくれる場所で、誰かで、それがたまたま「あのときの自分」だったというだけ。
 だから、そういう自分である限りは「好き」だというだけ。
 ――まぁ、でも、そうだよな。
 薄々とわかっていたことでもあった。
 町役場勤めの旧友に頼まれ、断り切れずにテレビ番組の取材を了承した。たまたま番組のゲストが時東だった。それだけの、縁。
 いつ切れてもおかしくなかった細い糸が、たまたま、本当にたまたま、いろいろな偶然が積み重なって、繋がっていただけのこと。俺は、そうではなかったけれど。
 暗くなった画面を一瞥し、南はスマートフォンをしまった。帰ろう、と思った。
 馬鹿みたいに。先ほど月子を形容した言葉が過った。
 馬鹿みたいに記憶の底にずっと沈めていたのは、誰だ。湖面に浮き上がりそうになったあどけない笑顔から、南はそっと目を逸らした。
 あいつが捨てた過去を、なんでよりによって、俺が覚えているのだろう。
 あいつはすべてを捨て去っているのに。記憶されることなど望んでいないだろうに。

 だから、あいつは俺になにも聞かない。だから、俺もなにも問わない。