次に帰るのは、年が明けてからになると思うんだよね。だから、おせちは諦めるけど、お雑煮は食べさせてください、お願いします。
 と、図々しいことをへらりと告げたのを最後に、来たときと同じ唐突さで時東はバイクに乗って去っていった。本当に時間はなかったらしい。
 ……というか、なんだ、帰るって。
 おまえの家はここじゃないだろう、とか、なんとか。突っ込みどころはいくらでもあるわけだが、たぶん、これは深く考えないほうがいいやつだ。
 そう決め打った南は、食堂付近の草むしりに没頭することにした。軍手などない。素手だ。かじかみそうに冷たかったものの、無心になることのできる作業がこれしかなかったのだ。
 雑草の山が三山ほど完成したころ、不意に頭上が陰った。
「なにやってんの? 凛」
「おわっ」
「おわってなんだよ、おわって。人の顔見て変な声出すなっての。母ちゃんが、凛ちゃんが新しい暖簾飾ってたわよって言うから、散歩がてら見にきただけだったんだけど」
 気がつかなかったものはしかたがない、はずだ。うっかり声を上げてしまったことは不覚であったけれど。
 不承不承と顔を上げれば、いい年をして寝起きにダウンジャケットを羽織っただけのような格好の春風が、ポケットに手を突っ込んで立っていた。
 まじまじと観察するようだった瞳が、得心したように笑んでいく。
「もしかして、来てたの。時東くん」
 だから、なんだ、その顔は。二十年来の幼馴染みの顔がにんまりと変化していく様に、諦めの境地で南は溜息をもらしたのだった。


[12:南凛太朗 12月22日9時35分]


「そういえば、月ちゃんがさぁ」
「おう」
 しらと話題を変えた春風を後目に、南は草むしりを再開した。こういうものは、やり始めるとなかなか止まらなくできているのだ。
「忘年会と新年会は絶対にやりたいって言ってるらしいよ」
 隣にしゃがみ込んだ春風が煙草に火をつける。実家で禁煙を言い渡されている春風は、南家の縁側と店の前を喫煙所に定めているのだ。
「海斗くんから年末年始は予定空けとけって連絡があってさ。凜のところにもきてると思うけど。あいかわらず、海斗くんは月ちゃんの執事みたいだね」
「言ってやるなよ、それ」
「だって、月ちゃんは我儘なわりに健気でかわいいし、海斗くんはそんな月ちゃんが大好きで忍耐強いじゃない。まさにお嬢様と優秀な執事でしょ。『月と海』じゃなくて『お嬢様と執事』でも良かったなって、たまに真剣に思うよ、俺」
「……言ってやるなよ」
 間違いなく月子は泣くし、その月子を見て海斗が怒る。月子のほうはしばらくすればけろりと立ち直るだろうが、海斗の静かな怒りはそれはもうしつこく持続するのだ。
 あいだに挟まれる身にもなれ、という話である。
 そもそもとして、自分に片思いをしている元バンド仲間の恋心に対して「健気」と評すること自体「ない」と思うのだが。
 南自身も恋愛に慣れているわけではないものの、それでも「ない」だろうとは心底思う。
「俺ばっかりひどいみたいに言うけどさぁ。凛だって相当だからね、ちなみに」
 だというのに、春風は、南も同類であるような顔をする。
「というか、話変わるけど。おまえ、一応、料理人の手なんじゃないの。この寒空の下、無意味な作業してんなよ」
 それを言うなら、おまえの手は、何万人もの人間が喜ぶ曲を創り出す手だろう、と思った。
「あーあー、赤くして」
 ふざけた調子で言って、春風が南の手を取る。まじまじと凝視される居心地の悪さを、南は立ち上がることで振り払った。
「おまえの銜え煙草のほうが、灰が落ちそうで怖ぇよ、ふつうに」
「はは、もっと信用してくれてもいいのに。ひどーい、凛ちゃん」
「ちゃん、って呼ぶな。ちゃん、って」
 何度言っても改まることのない呼び方は、嫌がらせに違いない。
 春風の親や、昔からよく知るご近所さんに「凜ちゃん」と呼ばれることは、諦めて受け入れているけれど。
 対人距離の近い田舎だが、南はこの町が好きだ。戻ってきたことに悔いはない。
「昔はもうちょっと似合う顔してたのにねぇ。そうやって不機嫌な顔ばっかりしてるから、余計に似合わなくなるんだと思うよ、俺」
「似合いたくもねぇよ、年を考えろ、年を」
 憮然と言い切った南に、「そうだよなぁ」と応じて春風も立ち上がった。冬の風に揺れて、紫煙が流れていく。
「二十六だもんね、俺もおまえも。それで来年には二十七かぁ」
「なに、あたりまえのこと、しみじみ呟いてんだ」
「いや? もうそれだけの時間、凛と一緒にいるんだなぁって
 幼いころから一緒に育って、同じ時期に町を出て、そうしてほぼ時を同じくして町に戻った。
 だが、あのできごとさえなければ、春風は今とは違う働き方を東京でしていたのではないだろうか。そう思う瞬間が、南にはまれにある。
「おまえには、感謝してる」
 覚えた罪悪感を正確に読み取ったらしい春風が、笑って煙草をもみ消した。昔から変わらない匂いが強くなる。
「凛はねぇ、そうやって、他人にたやすく懐を見せるから、付け込まれるんだよ」
「付け込まれる?」
「そう、そう。付け込まれたいんだったら、それでいいけどさ。そうじゃないなら、もう少し距離を図ってあげてもいいんじゃない? 相手のためにもね」
 相手のため、という言葉に内心で首を捻りつつも、南は否定した。
「べつになにもしてねぇよ」
「凜がそう言うなら、まぁ、それでもいいけどさ。どうするの、時東くん」
「どうする、って」
「戻ってきたら、知らぬ存ぜぬでお家に入れてあげるつもりなの」
 ――しかたないだろ、それは。
 時東が時東自身の意志で来るあいだは、受け入れてやろうと決めていた。なにせ、自分の作る料理を心の底から喜んでくれる人間だ。どうして切り捨てられようか。
「あいつが来たらな」
 その返事に、積年の友人はなんとも言えない顔で苦笑をこぼした。
「じゃあ、まぁ、それはそれとして、おまえさ。人様に部屋を貸すときくらい、そこになにがあるか把握しといたほうがいいと思うよ。もう遅いけど」
「は? なにが」
「だから。時東くん。初日にばっちり見てたよ。凛のコレクション」
「……あぁ」
 あれか、と一拍置いて、南は呟いた。今の今まできれいさっぱり忘れていたのだが、そういえば。数年前、あの部屋の押し入れに、適当にまとめて荷物を突っ込んだような。
「なんで、あいつは初っ端から押し入れ漁ってんだ」
「ねぇ。なんでだろうねぇ」
「あと、コレクションじゃねぇよ。なんだ、コレクションって」
 いまさらながらに訂正を入れた南に、春風が笑う。
「えー、でも、コレクションじゃなかったら、なんだろう。宝物? 在りし日の思い出? タイムカプセル?」
「違う」
「違うって、じゃあなによ」
「私物だ」
「え? それだけ?」
「ただの、私物」
 苦虫を噛んだような声になったものの、南は強調した。ただの私物。六年ほど前に貰い受け、そのままになっているだけの私物。断じて深い意味はない。
 見つけた瞬間の時東の心情を思えば、悪いことをしたとは思うが。でも――。
「見つけて気になったんなら、聞けばいいのにな」
 時東に聞かれたら、自分はそのままを答えたし、時東が騙されたと感じたと言えば、謝ったはずだ。そう思わせていた、ということについて。
「凛のそういうとこ、俺は嫌いじゃないけど。時東くんとは相容れないと思うなぁ」
 諦め半分という調子で、春風が呟く。意味がわからない。視線を向けると、春風はひょいと肩をすくめてみせた。
「だって、あの子。いまだに『Ami intime』を引きずってんじゃん」