「凛ー、月ちゃんと海斗くん出てるよ。見ないの?」
 のんびりとした調子で幼馴染みに呼ばれ、鍋をかけていたコンロをとろ火に落とす。
 丁寧に愛情を込めて作れば、それだけで十分にうまくなる。作り手の思いは届くものなんだ。こんな小さな店だと、なおさらな。技術はもちろんだが、なによりも大事なのは心なんだ。
 カウンターに立ったまま息子に仕事を説いた、十年は昔の父の声。
 店を継ぐ気のなかった南は、いつも軽く聞き流していた。駄賃欲しさに手伝っていただけの子どもだったのだ。けれど、もう少ししっかり聞いておけばよかったと思うことがある。
「ふは、すげぇ澄ました顔してる。月ちゃん」
 テレビの中でほほえむ月子を見て、「似合わないねぇ」と春風が笑う。月子が知れば、間違いなく嘆く台詞だ。
 気の毒になぁと内心で苦笑していると、春風がカウンター越しにひょいと鍋を覗き込んだ。
「なに仕込んでんの? またおでん? べつにいいけど、時東くんしばらく来ないんじゃなかったっけ?」
「いや、あいつの好みとか関係ねぇから」
「えー、でも、去年よりおでんが出る回数、増えたと思うけどな」
 手酌で熱燗を決め込みながら、春風はにやにやと笑っている。なんとも懐かしい光景である。なにを言い返しても無駄と悟って、小さく溜息を吐くことで南は返事とした。
 それは、まぁ、あれだけ感動した顔で「おいしい」と連呼されたら、多少回数が増えてもしかたがないだろう。
 テレビへと視線を戻した春風の横顔をなんとはなしに見つめ、作業の手を止める。
 懐かしい光景と評したとおりで、閉店後のカウンターは春風の指定席だったのだ。それが最近では時東が座る日が増えたのだから、おかしな縁だと思う。
 同じ町内で生まれ、幼いころからずっと一緒だった春風ならまだしも、東京からわざわざ二時間かけてやってくるのだから。
「お、時東くんもいる。なんか、面白いなぁ、こうやって三人並んでると」
「微妙な顔してんなぁ、あいつ」
 『月と海』の隣。少し距離を置いて立つ時東の顔には、テレビでよく見る似非臭い笑顔が張り付いている。だが。
 覚えた違和感に、思わず首をひねる。その南を一瞥し、春風は目を細めた。
「なんか、それ、ちょっとあれだね」
「なにが?」
「いや、わかんないならいいけど。いや、よくはないか。でも、とにかくあれだな、なんか」
「おまえ、日本語、下手だよな」
「凛に言われたくない。おまえも相当下手だよ」
 お猪口を持ち上げて、春風が唇を尖らせる。かわいいつもりか。
「口数が少ないとか、不器用とか。昔気質とか。無駄に凛に都合の良い言葉があるからって、それに甘えてると碌なことにならな……」
 不意に、春風の声が途切れた。
 小さなブラウン管の中で、真面目な面持ちの時東がズームアップされていく。いつもの軽薄な物言いとは違う、静かな語り口。
 喋り終えた時東が、ゆっくりと一礼する。数秒であるはずのそれが、なんだかどうしようもなく長い感じがした。
 場違いなほど明るいアナウンサーの進行で、画面がステージに切り替わる。『月と海』の新譜。自身が生み出したイントロを聞くともなしに聞いていた春風が、お猪口を傾けながら、
「時東くんも、下手だね、日本語」
 と、言った。


[11:南凛太朗 12月22日8時3分]


 ちょうどいい頃合いなのかもしれない。そう思い切って、のれんは新調することにした。店の名前もなにも変わっていないが、自分の店として再出発をしろということなのだろう。
 新しい縁ができるということは、変わるということだ。生まれ育ったこの田舎町を出たときもそうであったし、この町に戻る決断を下したときもそうだった。
 そのすべてが良いことであったわけではないが、すべて自分が決めて選んだことだ。選ばなかった先にあったかもしれない「たらればの未来」を想像して嘆くほうが時間の無駄と割り切っている。
 そういう意味では、春風が言うように自分は前向きにできているのだろう。どこぞの繊細なミュージシャンと違って、物事を深く考えていないというだけかもしれないが。
「まぁ、こんなもんだろ」
 青い空の下で、真新しい藍色の暖簾がたなびいている。
 年が明けてからにしようかとも考えていたのだが、ぶら下がっていないとどうにも格好がつかない。早いほうがいいだろうと今日に決めた。
「あら、凛ちゃん。新しいのが届いたの。いいじゃない」
「あぁ、おはようございます」
 よく知る朗らかな声に振り返ると、愛犬の散歩中らしい春風の母親が手を振っていた。柴犬のポンの尻尾が構ってほしそうに揺れている。
 町道に出て、丸っこいフォルムを撫で回していると、春風の母親が声をひそめた。
「大変だったみたいねぇ」
「どうも、お騒がせしてすみません」
「嫌ねぇ。あたしたちはいいのよ、本当に。世の中には困った人がいるものね。今日はお休みなんでしょ。凛ちゃんもたまには遊んでおいでなさいよ」
 そういえば、最近はどこにも出かけていなかった。居候がいたせいだが、元来の出不精に拍車がかかった可能性はある。
 わふわふと舌を出すポンから手を離し、南は立ち上がった。
 ――出かけたいところなぁ。
 べつに、さしてないのだが、と思考を巡らせたところで、ふと顔が浮かんだ。
「そう、っすね」
 だが、しかし。どこにいるのかも知らない相手である。
 自分が知っているのは、東京で暮らしているという漠然とした情報だけ。まぁ、そのうち、戻ってくるだろう。そう、南は思い直した。
 なにせ、まだまだ居座りますとばかりの荷物が自宅の一室に放置されている。
「いつもお店のことばかりなんだから。まだまだ若いのに。うちの智治も、もう少しでいいから、凛ちゃんの真面目なところを見習ってくれたらよかったのにねぇ」
 愚息の話題で締めくくった春風の母親が、じゃあね、とポンのリードを引っ張る。ふりふりと揺れるしっぽを見送って、また近いうちに春風の家に行こうと南は決めた。
 自宅で飼ったことはないが、犬は好きなのだ。そのはずが、随分と春風の家も無沙汰をしてしまっている。
 ――そう思うと、本当に最近、あいつとばっかりだったな。
 あいつ。時東はるか。
 こんな辺鄙な田舎を気に入って、通い続けている変な芸能人。
 なにをしているのだろうと考えてしまうのは、先だって見た音楽番組の姿が頭にこびりついているからだ。
 あんなこと、言う必要などなかったのに。本当に、変なところで素直にできてるというか、なんというか。
 見覚えのあるバイクが近づいてきたのは、そんなことを考えていたタイミングだった。

「あの、南さん」
 バイクを止め、ヘルメットを外して近づいてきた時東は、怒られることを待っている子どもそのものの顔をしていた。
 吹き出しそうになるのを堪え、なんでもない顔を向ける。
 「おはよう、早いな」
「あ、うん。おはよう、ございます」
「家のほう直接行ってくれてよかったのに」
 通り道とは言え、わざわざ止まってくれなくても。固い面持ちのままの時東に告げれば、困ったように眉尻が下がる。
「ええと。実は、そんなに長居もできなくて。やっと来るだけの時間はつくれたんだけど、三十分もいられないっていうか」
「おまえ、それ、移動時間分、家で寝てたほうがよかっただろ」
 片道二時間弱かかる、とぼやいていたのは、時東本人だ。往復四時間。馬鹿じゃないのか。まじまじと見つめていると、時東がもごもごと口を開いた。
「いや、その。なんていうか。この時期、とにかく忙しくて。あー……、もう、本当にやだ」
「子どもか」
「子どもじゃないから忙しいんだもん。南さんのごはん食べたかった……」
 前半と後半の台詞がまるで噛み合っていない。
 子どもを通り越し、大型犬が肩を落としているようにしか見えなくなったではないか。絆されていることを自覚しながら、南は応じた。
「いつでも食いに来たらいいだろ。繁忙期が終わったら」
「……いいの?」
「なんで?」
 窺うように目を瞬かせた時東に、質問で返す。
 年下相手に性格の悪い真似をしているかもしれないが、言葉にしなくてもそのくらいわかればいいのに、と思う。
 ずんずんと遠慮のないそぶりで近づくくせに、警戒心が強く、自分周りの壁ばかり分厚いのだからたまらない。
「それとも、なんだ? 向こうで食っても、味がするようになったのか」
「南さんの意地悪」
 駄目押しに、神妙だった表情がとうとう崩れた。
 冬風に乱された前髪を鬱陶しそうに掻きやって、なってないに決まってるじゃん、と時東が呟く。
「戻ったら絶対一番に南さんに言うし。あー……、もう、本当、無理。南さんのところにいたあいだの食が豊かすぎた」
 おかげで前よりきつい、と。しょぼくれた顔で言い募る姿が憐れで、ついつい仏心を出してしまった。
「ちょっと待ってろ」
「え?」
「三十分なら、まだ大丈夫だろ。おにぎりくらい持たせてやるから」
 家帰ってから食えよ、と続けても、時東は遠慮なのかなんなのか、よくわからない顔で固まっている。しかたなく南は言い足した。
「梅? 鮭?」
「……えっと、じゃあ、塩!」
 ようやく返ってきた欲求に、ひとつ笑って店に入る。
 まぁ、べつに、仏心だなんだと大仰なことを言ったけれど、このくらいまったくたいした手間ではない。
 開け放ったままの扉を見やって、南は小さく苦笑をこぼした。どうやら、入ってくるつもりはないらしい。
 ――本当、しかたねぇな、あいつ。
 そういうところがかわいいと言えばかわいいのだが。そんなことを考えつつ、手早く準備にかかる。総菜も入れて弁当にしてもよかったのかもしれないが、それはまた戻ってきたときでいいだろう。
 アルミホイルで包んだだけの、シンブルな塩にぎりをふたつ。同じ場所に立って待っていた時東に手渡すと、素直にうれしそうな顔を見せた。
「ありがとう、南さん」
「いや、本当にただの塩にぎりなんだけどな」
「ううん、俺、南さんのおにぎり大好き。だって思い出の味だもん」
 また、そういう大げさな言い方をする。たしかに、この店ではじめて出してやった食べ物――時東いわくの「ひさしぶりに味がして大変感動した」代物だったかもしれないが、本当にただの塩にぎりである。
 にこにことおにぎりを見つめていた時東が、そこでふと真顔に戻った。そうして、神妙に頭を下げる。
「ごめんなさい」
 つむじから足元の砂利へ視線を落とし、そっと溜息を呑み込む。言わせたくなかったから適当に流していたというのに、結局、謝られてしまった。
 だが、しかし。謝られてしまったものはしかたがない。言い諭す調子で南は声をかけた。
「一応言っておくけど。おまえが謝る必要はいっさいないからな」
 謝罪をしたいがために、とんぼ返りを決めたというのであれば、馬鹿すぎる。それで事故にでも遭われてみろ。こちらの後味が悪すぎるだろう。
「南さんならそう言うと思ったんだけど、でも、ごめんなさい。俺の整理の問題です」
「なら、いい。許す」
「ありがとう」
 ぞんざいに請け負うと、ようやく顔が上がった。安心したように笑う表情は、テレビで見るものとは随分と印象が違う。
 警戒心バリバリだった大型犬を手懐けた感慨に耽っていると、「そうだ」とわたわたと時東がポケットに手を突っ込んだ。
「あれ、どこやったかな。ちょっと待ってね」
 おにぎりを持っているから探しにくいのでは、と。思ったものの、手離す気はないらしい。こちらは急いでいるわけでもないので、べつに構わないのだが。「いいけど」と応じて待っていると、時東が探し当てたらしい紙片を差し出してきた。
「えっと、俺の連絡先。いまさらになってごめんなさいなんだけど、なにかあったら教えてください。お願いします」
「あのな、時東」
 わざわざ紙で渡してくるところが、どうにも時東らしい。なくさないよう紙片を仕舞い込み、南はわずかに時東を見上げた。
「俺はおまえを迷惑だと思ったことは、そんなにないからな」
「そんなにって、やっぱりあるんだ!」
「そら、あるよ。おまえのことなんて、ほとんど知らなかったし」
 なにを考えて二時間もかけてやってくるのかと呆れていたくらいである。
 ついでに言えば、食べ物の味がわからないとの告白を聞いたときは、馬鹿だろうと思った。そんなふうになるまでストレスを溜め込むな、ということでもあったし、もっと早く言えよ、ということでもあった。
 そうすれば、もう少し気にかけてやれたのに。
 気づいてやることのできなかった自分への情けなさもあったのかもしれない。年上の矜持のようなもので、食堂の店主としての意地のようなもの。
「でも、今はそうじゃないだろ。それに、迷惑だったら、自分の家に入れたりしないから」
 面倒くさい、と南は言い捨てた。時東がどう思っているかは知らないが、自分はそこまでお人好しにできていない。
 時東という人間を気に入ったから、「お願い」を叶えてやった。それだけのことだった。
「南さん」
 黙って耳を傾けていた時東が、そこでようやく口を開いた。なぜかまた妙に真面目な顔つきに戻っている。そういう顔をしていると、美形ではある。「なに?」と問い返す。
「好きだなぁと思って」
「あ、そう」
 また、それか。なにを言われることやらと構えていた力を抜くと、時東が軽く唇を尖らせた。
「ちょっと、南さん」
「だからなんだよ。好きなんだろ」
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
 意味がわからない上にまどろっこしい。だからなんだよ、と繰り返した南に、訴えるように時東も繰り返した。
「だから、好きなの」
 結婚して、と馬鹿みたいなことを言ったときと同じように、おにぎりを握りしめたまま。
 馬鹿にされていると思うことができないのは、やたらと真面目な顔をしているからなのか。それともこの数ヶ月で、そういったからかいをする性格ではないと知ったからなのか。
 ――まぁ、どっちにしろ、味覚が戻ったら、来なくなるだろうけどな。
 あたりまえのことで、喜ばしいことだ。一抹の寂しさは、それは、まぁ、あるけれど。覚えた感慨を打ち消すように、南は頭を振った。
「はいはい、好きな。わかった……」
 適当に流そうとしたところで、あれ、と思考が停止した。とんでもない疑惑が芽生えたからである。そんな馬鹿な。真面目腐った表情を崩さない時東の前で、南は軽く固まった。いつかの幼馴染みの台詞が、脳裏を過っていく。
 凛はさぁ、そうやって、捨て犬拾ったみたいな感じで時東くんの世話焼いてるけどさ。いつか、絶対噛まれるよ。それで、まぁ、凜は泣きはしないだろうけど、びっくりすることになると思うよ。
 時東くんはポンと違って人間なんだし。凛の言葉だけを鵜呑みにして、生きていけるわけでもないんだから、と。
 いやいや、そんな馬鹿な。
 固まったままの南の背後では、新調したばかりの食堂ののれんがひらひらとはためいていた。