へぇ、と思った。
 なぁんだ。凛太朗が気に入るだけはあるじゃない。


[10.5:月と海]


「ご機嫌だね、月子」
「まぁね。噂の時東くんにも逢えたしね」
 手渡された水を飲んでいた月子は、にんまりとした笑みを海斗に返した。ステージからは、時東はるかの懐かしのデビュー曲のイントロが響き始めている。
「あんまり年下を揶揄わないの。困ってたよ、時東くん」
「いいじゃない、べつに。それに、先にあたしの数少ない親友を困らせたのはあの子でしょ」
「時東くんのせいじゃないと思うけどね」
 窘める調子に、月子は眦を吊り上げた。
「まったくないわけないじゃない。あたしも、あんたも、凛太朗の店に行かないようにしてるでしょ? その配慮をできないところが問題だって言ってるの」
「その代わり、月子はこっちに呼びつけてるでしょ」
 きつい印象が強い自分と違い、海斗には名前のとおりの海のような穏やかさがある。
 ぴったりだね、とほほえんだのはいつかの智治だ。
 月みたいに高い場所で輝く月ちゃんと、月ちゃんを支える大きな海みたいな海斗くん。大丈夫。月ちゃんは海斗くんとふたりで上手にやれるよ。俺たちがいなくても。
「だって、ハルちゃんも言ってたでしょ? あそこは大事な場所だから、騒がせたくないんだって」
「ド田舎なんだから目立つ格好で来るな、馬鹿。だった気がするけど。智治が言ってたのは」
「一緒じゃない。ハルちゃんは素直じゃないんだから、ちゃぁんと裏を読んであげないと」
 それができると、月子は自負している。凛太朗ほどではないかも知れないけれど、それでも一番楽しかった学生時代を密に過ごした仲間なのだ。
「あ、曲、終わったね」
 ステージのほうへ視線を向けると、拍手と歓声の中で時東が深々と頭を下げているところだった。
 ビジネスライクな歌い方をする後輩ミュージシャンにしては珍しい、情感の籠った演奏は、なかなか良い出来だった。 
 悪くない。月子はそう評してみせた。少なくとも、今年耳にした時東の生歌の中では一番だ。
 月子の知る「時東はるか」は、表面上の愛想だけは良いかわいげのない後輩だった。
 まず第一に、他人をひとくくりにして「僕は誰とも仲良くしません」と暗に宣言しているところが気に食わない。おまけに、曲作りのほうも随分と煮詰まっていたみたいだし。
 そんなふうだったから、凛太朗から時東の話を聞いたときは驚いた。随分とイメージが違っていたからだ。
 でも、まぁ、凛太朗が気に入るくらいだから、悪い子ではないのだろう。好意的に上書きしようとしたタイミングで起きた、あの一件。
 やっぱり嫌なやつだったと憤慨していたのだが、今の五分で翻った。うん。凛太朗が気に入るだけはある。なかなかの馬鹿だ。
 ――まぁ、そこがかわいかったんだろうなぁ、きっと。
 凛太朗はそういうタイプなのだ。面倒見がすこぶる良いというか、なんというか。
 舞台袖に戻った長身に、マネージャーらしき男性が縋りついている。目の前で繰り広げられている光景に、月子は笑った。
 事務所どころか、マネージャーにすら話を通していなかったのだろう。なにせ、あの「時東はるか」だ。マネージャーも寝耳に水だったに違いない。そう思うと、気の毒な話ではあるけれど。
「ふふ、時東くん、怒られてる」
「こら、月子」
 けたけたと笑う月子に注意をする海人の振る舞いは、同い年であるのに兄のようだ。
 持って生まれた性質か、あるいは、末っ子気質の月子に合わせてくれているのか。きっと後者だろう。だって、智治や凛太朗に対する接し方とは違っている。
「そういや、月子、嫌だってごねてたよね。智治があの子に曲提供するの」
「ちょっとごねてみただけだってば。たしかに嫌だったけど、ハルちゃんがあたしのわがままで、自分の仕事を都合してくれるとは思ってないし、わかってるから」
 智治が自分たちの専属の作曲家であるあいだは、バンドメンバーだと思えたから。だから、寂しかったというだけ。
 勝手な感情と理解しているし、智治の曲が求められることはあたりまえと知っている。だから、拗ねてみせただけだ。寂しいんだよ。構ってよ。そんなポーズ。
「あたしじゃなくて、凛太朗が言ったら、もしかして、とは、ちょっと思ったけど」
「あのときと、これとじゃ、状況もなにもかも違うでしょ」
「わかってるよ。でも、いいなって思っちゃったの。あたしはいつまで経っても、凛太朗の立ち位置に立てないんだもん」
 凛太朗が抜けると言ったとき、なら、俺も抜けるよ、とあっさりと智治は手を上げた。
 紅一点の月子が泣いて縋っても、「月ちゃんなら大丈夫だよ。海斗くんがいるでしょ」と繰り返すだけで、とうとう叶えてくれなかった。
「あー、もう、やめた、やめた! いまさらだもん。それに、どうせ、うちで一番美人だったのはハルちゃんで、なんだかんだで一番モテてたのは凛太朗だったしね」
 だから、まぁ、人嫌いと噂の後輩が懐いてもしかたがないのだ。たぶん、きっと。開き直って言い捨てた月子の顔を、海斗がじっと覗き込む。
「ねぇ、月子。それ、俺の立場はどうなるの?」
「おばさん受けしてるんだからいいじゃない。このあいだも、愛人になりそうなランキングかなんかに入ってなかった?」
 マダムとつばめ。あるいは若奥様に貢がせるホスト。とどのつまり、世間の見る海斗の印象はそうなのだ。優しそう。でも軽そう。誰にでもうまいこと言って、世渡りしてそう。あの気の強そうな月子の相手してるくらいだもん、誰とでもうまくやれるでしょ。女王様と下僕みたい、と嗤った同業者は、思うままに罵倒してやったけれど。
「月子は付き合ったら大変そうな芸能人ランキングで堂々一位だったよね。三年連続殿堂入りおめでとう」
「うるさい、海斗! これがハルちゃんだったら、絶対絶対、そんなことないよって慰めてくれるもん」
 ぶんぶんと長い髪を振って主張をすれば、海斗がわずかに困った顔をした。困ったというか、生ぬるい笑顔というか。じとりと睨み上げる。
「なによ?」
「月子は、あいかわらず智治に夢を見てるなぁと思って」
「どういうこと?」
 首を傾げた月子に、海斗が曖昧に笑う。これは間違いなく、逃げるときの顔だ。
「それだけ元気ならもういいよね。ほら、ひな壇戻るよ」
 観覧席とは別に設置されている、出演者が座る席のことだ。
 ワイプで抜かれた映像はお茶の間に流れてしまうので、そこに座ってしまえば、あまり変な真似はできない。
 誤魔化された不満を込めて、月子は視線を逸らした。
 ――あれ、ひとりになってる。
 事務所と連絡でも取っているのか、マネージャーの姿はない。逸らした先で見つけた姿に、ふふ、と月子は含み笑いを落とした。
「ちょっと憂さ晴らしに時東くん褒めてくる」
「はぁ?」
「あと、ハルちゃんたちに、新年会と忘年会の日程調整してって言っておいて。絶対だからね!」
「おい、こら。月子! ひな壇!」
 珍しく苛立った調子の声を無視して近づくと、後輩の顔に愛想笑いが浮かんだ。にこりと笑みを返しながら、これなら智治のほうが巧いと思った。愛想笑いの話だ。
 もともとの顔のつくりのせいもあるのだろうけれど、智治は飄々としていて感情が読み取りづらい。
「どうも。時東くん」
「あぁ……、ええと。『月と海』の」
「月子でいいよ。その名前、ダサくてあんまり好きじゃないんだよね」
 そう告げて、改めてほほえむ。美形ではない自分を魅力的に魅せる方法を、月子は熟知していた。職業病、というやつかもしれない。
「だって、あたしが月子で相方が海斗だから、『月と海』なの。そのまんますぎるでしょ?」
 名付け親が智治でなければ、月子は断固として拒否をしていたと思う。今はもう「さよならのプレゼントみたいになっちゃったなぁ」という諦めの境地で受け入れているけれど。
「それはそうと、時東くん」
「はい」
「さっきの一発よかったよ。あたし時東くんのこと嫌いだったんだけど、好きになっちゃった」
「はは、それはどうも」
 好かれようが嫌われようがどうでもいいと言わんばかりの答えだったが、月子は気にしない。もっと面白いことが続くからだ。
 にんまりと。月子をよく知るものが見れば、ろくなことを考えていないと評するだろう蠱惑的な笑みを浮かべ、時東を見つめる。
 智治ほどではないが、なかなかに男前だ。鼻筋も通っていて、全体的に整った小綺麗な顔をしている。それでいて、愛嬌があるのは、案外と瞳が表情豊かだからだ。
「お詫びにさっきの噂、誰からか教えてあげるね」
「いや、べつに……」
 誰がなにを言っても気にしない「時東はるか」だが、本当に誰でも気にしないのだろうか。楽しみだなぁ、とわくわくした心地で、月子は囁いた。
「凛太朗」
「は?」
「凛太朗が言ってたの。時東くんのこと」
 まったく月子を見ていなかった時東の瞳が、驚いたように二度瞬く。
 澄ましてるくせに、結構わかりやすいし。大型犬というよりかは、子どもみたいなんだけどな。放っとけなくて、ちょっと構いすぎてる。
 そう言っていたのは、今は田舎町で食堂を経営している月子の大事な親友だ。
 へぇ、と思った。あの凛太朗が、時東くんのことをまさかそんなふうに評するようになるとはねぇ、と。
「じゃあね、時東くん」
 どうせ、またどこかで逢うことになるだろう。固まっている時東に手を振って、仏頂面の相方のもとへゆっくりと歩み寄る。よほど混乱していたのか、背後でなにかがガチャリと落ちる音がした。
 まだ当人さえ気がついていないような、じれったい恋の歌。次は、そんな歌でもいいかもしれない。そう、月子は思った。