インディーズの時代を含めると、ステージに立つようになって十年近い歳月が経っている。
 それでも、毎度こうして緊張するのだ。華やかな場に向いていないのかもしれないと後ろ向きな感想を抱くことがある。
 ギターを弾き始めたころの時東は、コンサート会場を満員にするようなミュージシャンは、舞台に立っても緊張しないのだと思っていた。生まれながらのスターなのだと信じていたからだ。
 そんな自分を笑い飛ばして発破をかけたのは、はじめてバンドを組んだ親友だった。
 そんなもん、誰でも緊張するに決まってる。というか、俺もおまえも生まれながらのスターなわけがないんだから、緊張呑み込んで、押し隠して。それで、どうにか格好良く歌って、騙せばいいんだよ。
 見てくれているお客さんがスターだって思ったら、俺たちはスターだ。
 親友の励ましに安心して、時東は笑ってマイクの前に立った。後ろには、誰よりも信頼できる仲間がいた。
 自分にもキラキラとした青春はあったのだ。覚えていることが苦しくて、なかったことにして生きてきたけれど。
 そうして、この年になって、思う。あの人なら、あのときの俺になんと言っただろう。今の俺に、なにを言うだろう。


[10:時東はるか 12月17日21時55分]


 ネットの記事を読んだとき、まったくもって馬鹿な話だと時東は呆れた。同時に、あの人の厚意に甘えていた事実を痛感した。
 熟慮しなくとも、あたりまえの話だったのだ。
 いくら営業時間外だろうと、隔週での訪問が数ヶ月だ。人目につかないほうがおかしい。
 持ちつ持たれつって案外難しいよねぇ、などと春風は笑っていたけれど、いっそのこともっとはっきりと教えてほしかった。
 どうせ、あの人は知っていたのだろうから。教えてくれていたら、あの家にいるうちに謝ることもできたのに。
 まぁ、それも、八つ当たりでしかないと理解しているけれど。

「『月と海』さん、時東さん、まもなく出番です」
 出演している歌番組のスタッフの声に、時東はゆっくりと顔を上げた。
 ステージ歌唱の前に司会者からの紹介を兼ねた軽いトークがあり、二組ずつ登壇することになっている。その順番が近づいたということだ。
 カメラに抜かれても問題のない顔をつくって、立ち上がる。なにせ、生放送なのだ。下手な真似はできない。
 よろしくね、ときれいな声がかかったのは、内心で溜息を呑んだタイミングだった。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
 笑顔で挨拶を返した時東に、『月と海』の女性ボーカリストは猫のような目を細めた。誰もが認める美少女顔ではないけれど、十二分に蠱惑的なファニーフェイス。
 デビューも時東より早く、実績もあるデュオだ。
「やっぱり。時東くんって噂どおりの人みたい」
「噂? どうせろくでもない噂でしょう。勘弁してくださいよ」
「そうね。でも、教えてあげない」
 カチンとくる一言を残し、ふわりと濃紺のスカートを翻す。
 立ち位置に向かう背中を愛想笑いで見送った時東に、デュオの片割れが追い抜きざまにフォローを一言。
「ごめんね。今日、うちの月子、機嫌悪くて」
「はぁ、いえ」
 同業から好かれていない自覚はあるので構わないのだが、本番直前に嫌がらせじみた発言を投げつけられたのは、ひさしぶりではあった。ましてや、女の子に。
 ――まぁ、べつに好かれたいわけでもないし。
 そもそもとして、他人を拒絶する態度を取り続けているのは時東のほうだ。そういう意味では、文句を言う筋合いもない。
 揉めないでくれと言わんばかりのハラハラとした岩見の視線には気づかないふりで、立ち位置に向かう。
 CMが開ければ、トーク開始だ。スタッフの手振りが入り、女性アナウンサーがにこやかな笑みを浮かべる。
 テレビ用の笑顔を見つめているうちに、南食堂の古いテレビが思い浮かんだ。
 今この時間、あのテレビはついているのだろうか。この番組が流れていたりするのだろうか。
 可能性を一蹴できないのは、時東に興味がないという顔で、ごくまれに情報を把握しているようなことを言うからだ。
 なかったものとして封印した大昔のCDジャケットが、あの日以来、頭の片隅にこびりついている。
「それでは次のゲストの紹介となります。大人気デュオ『月と海』のおふたりと、時東はるかさんに来ていただいています」
 カメラに抜かれると同時に、観客席からわざとらしいほどの黄色い声援が上がる。その声に応えるように、時東は芸能人の顔でほほえんだ。
 見ていなければいいのに、と思いながら。
「『月と海』のおふたりは、今日ははじめてテレビで新曲を披露してくださいます。おふたりにしては珍しい甘いラブソングとのことで」
「ラブソングは苦手だったのですが、とうとう初挑戦となりました」
「なにか心境の変化でも? たとえば、月子さんに素敵な恋人ができただとか」
 問いかけに、観覧席から悲鳴のような歓声が上がる。リハーサルどおりの予定調和だ。
「残念ながら、私の体験談ではないのですが。友人のじれったい話を聞いているうちに、ピュアな歌詞ができてしまったんです。好きだけど、好きだと言えない。そんな恋を経験したことがある方も多いんじゃないでしょうか。淡くてピュアで、幸せだった気持ちを思い出してもらえたらうれしいです」
 舞台袖での不遜さを完璧に打ち消した可憐な笑顔でトークをしめて、ふたりがステージへはけていく。
 軽い会釈で見送り、自身の番に備え笑みを浮かべ直した。何年も何年も維持してきた、時東はるかの顔。
「続いて、時東さん。時東さんは今年でデビュー五周年ということで、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「今回は、大ヒットを記録した五年前のデビュー曲を含むスペシャルメドレーをご披露くださいます。五周年のアルバムも発売のご予定だとか。どうですか。デビューから五年経って、今のご心境は」
 そうですね。なんだかんだとやっているあいだに、あっというまに五年も経っちゃいました。年が明けたら、バラエティだけじゃなく新曲も披露できると思うので、楽しみにしていてくださいね。ずっと応援してくれているファンの皆様のおかげで、五年もやってこれました。これからもどうぞ応援よろしくお願いします。
 頭の中では、リハーサルの折に喋った文面がすらすらと浮かび上がっている。
「そうですね。えー、と」
 それなのに、なぜか続きが出てこない。
 感極まっていると思ったのかもしれない。「時東さん?」と呼びかけようとしたアナウンサーを視線で制し、時東はカメラに向かって静かに口火を切った。
「五年前、僕は、縁あって芸能界に入り、ミュージシャンになりたいと願っていた夢を叶えました。そして同時に、『芸能人の時東はるか』になりました」
 時東らしくない語り口と、予定と違う内容に、スタッフの怪訝な視線が集中し始める。その戸惑いを意図的に無視して、時東は続けた。まだ時間はある。
「テレビの中にいる僕や、ライブ会場でステージに立っている僕は、皆さんに創り上げてもらった『時東はるか』です。その僕に対して、なにを求めるかも、なにを想像するかも、非難するかも、応援してくださるかも、やめるかも。すべて皆さんの自由だと思っていますし、僕がコントロールするものではないと思っています」
 嘘でも建前でもなく、それは本音だった。本当に、そう思っている。
 商品である「時東はるか」に付加価値をつけるのは自分ではない。だから、なにを言われても構わないと割り切っているのだ。「時東はるか」は芸能人であり、生身の商品だから。しかたがない、と、そう。
「僕は、僕の歌いたいものを、伝えたいものをここから送ります。けれど、それはここにいる『時東はるか』です。皆さんが見ているのはオンの僕であって、オフの僕ではありません」
 スタッフだけではなく、観覧席がざわめいている。岩見が必死でカンペを上げている。あぁ、これは間違いなく怒られる。わかっているのに、時東は「時東はるか」の顔で、小さく手を上げた。
「長くなってすみません。あと一言です。あと、一言だけ」
 ほんのわずかに空気が緩む。けれど、時東は再び話し始めた。
 視界の端でアナウンサーが話を遮るタイミングを探っている。承知していたが、止めることはできなかった。
「職場や学校の自分と、家の自分は違いますよね。それと同じなんです。職場の人とプライベートの場面で遭遇すると、身構えたり、視線を逸らしたくなったりしませんか。オフの自分をオンの知人に見られたくないからですよね。侵食されたくないからですよね。僕も、それと同じです」
 だから、南食堂は大切な場所だった。
 食べ物の味がわかる唯一の場所だから、というだけでなく、あの店が、時東を時東個人として受け入れてくれたからだ。
 南は、時東をどうしようもない人間としか見ていない。真実は違うのかもしれないが、少なくとも時東はそう信じている。
「皆さんはオンの僕と繋がっていますが、オフの僕とはあたりまえですが、繋がっていません。僕にとって、オンが大切な時間であるのと同じように、オフも大切な時間です。だから」
 テレビ番組の企画で訪れた食堂に、時東はるかがよく遊びに行っている。
 そんな情報がファンのあいだで流れていることを、時東は知ろうとしなかった。少し考えればあたりまえにわかったはずのことを、見落とした。あの店では一個人でいたいという自分本位な感情を優先したからだ。
 その結果、自分を受け入れてくれた人と、その人の大切な場所を傷つけた。
「僕のオフの時間を奪わないでください。僕の落ち着ける場所を傷つけないでください」
 しんと静まった観覧席と、テレビの奥に向かって、時東は頭を下げた。
 この行為にどんな意味があるのか、どんな結果を巻き起こすのか。正直、なにもわからない。だから、これもまたひどく自己本位な行為だった。
 わかっている、知っている。けれど、許せなかったのだ。なにもできなかった自分が。これからもなにもできないだろう自分が。
 時東はるかの自称古参ファン、迷惑行為自慢で大炎上。
 岩見の言うとおりに検索をすると、記事は簡単にヒットした。当人がSNSに上げた写真や文面をまとめた記事は、流し読みをしただけでも気分の悪いものだった。
 時東はるかに逢いたくて田舎まで出向いたのに、なにも教えてくれなかった。
 サインも写真も断られたし、追い出された。何様のつもりだ。
 あたしたちを受け入れないなら、こんな看板も店もいらないでしょ。
 意趣返しというよりも、八つ当たりとしか思えない暴挙だった。
 スプレーで大きなバツ印を吹きつけた暖簾と玄関。その前で笑顔でポーズを取るふたりの少女。
 その写真を見たとき、どちらが何様だと思った。ふざけるなと本気で腹が立った。あそこはあの人の城で、あの人のものなのに。
 この子どものものでもなければ、時東のものでもない。あの人が譲り受けて、あの人が守っている、あの人の家だ。

 そのあと、自分がどうやって歌ったのか、時東はまったく覚えていない。