師走の街にイルミネーションが灯るころ、テレビ番組における時東の需要は格段に跳ね上がる。音楽番組のクリスマス特番、年末年始生放送、その他バラエティー番組のスペシャル放送、などなど。
いや、おまえ、バラエティーばっかり出てるじゃねぇかよ、と言われると否定しづらい昨今であるものの、この時期は別である。
ヒット曲を出したことがあり、それなりに顔の知れているミュージシャンであるところの時東はるかにはバンバンお声がかかるのだ。たとえ、今年まだ一枚もCDを出していなくとも。
[9:時東はるか 12月17日10時18分]
「お疲れさまでーす、はるかさん」
チャイムに応じてドアを開けると、人畜無害でございと言った笑顔の岩見が立っていた。コートの上からぐるぐると巻かれたマフラーに外気温の低さを悟る。
そういえば、朝のニュースで都心も初雪の可能性と言っていたような。ぼんやりと思い返しつつ、時東は鍵を閉めた。これから夜までフルスケジュールだ。
怒涛の過密日程を南の家から通いでこなすことは土台無理なので、先週から都内の自宅に戻っている。
「朝からテンション高いね、岩見ちゃん」
欠伸を噛み殺しながら言えば、岩見がにこにこと喋りかけてくる。
「はるかさんこそ、なんか眠そうですね。昨夜は遅かったんですか? あ、曲作りですか? もしかして」
「そうやって、ちょいちょいジャブ入れるの、やめてくれるかな」
一軒家の南の家よりずっと暖かいはずのマンションが、なぜか底冷えしててしかたがなかったというだけである。
端的に言ってしまえば、寝不足の理由はそれに尽きるわけだが、さすがに口にすることは憚られた。
なんというか、よろしくないなぁ、と思う。たった一週間程度の滞在で、住み慣れた自宅よりも、他人の家の居心地のほうが良くなっているとか。おまけに、向こうのほうが圧倒的に寝つきも良いとか。
どう考えてもおかしい。
――まぁ、考えてもしかたないしなぁ。
南と一緒のときだけ食べ物の味がわかるという時点で、意味がわからないくらいなのだ。だから、まぁ、なんだ。そういうこともあるのだろう。
眠い頭で言い訳を練り上げつつ、岩見に続いて地下の駐車場に向かう。売れ始めたころにストーカーのようなファンに辟易して移り住んだ、芸能人向けのマンションである。
「そりゃ、ジャブも入れますって。わかってます? はるかさん。本来だったら、今のこのタイミングでアルバムの告知したかったんですよ?」
「そりゃ、そうだろうね」
それは、まぁ、音楽番組が多いこの時期にお披露目をしたかったことだろう。だがしかし、できなかったものはしかたがない。延期を許してもらっていることは、ありがたいと思っているが。
南さんの家に行ってみれば変わるかなぁ、なんて。甘いことを考えていたものの、そうは問屋が卸さなかったということだ。
しれっと応じた時東に、小さく溜息を吐いた岩見が静かにアクセルを踏んだ。
「最近、またご機嫌斜めなんですか? ちょっと前までやたらご機嫌だったのに。嫌だな、はるかさん。情緒不安定な女優さんみたいに生放送で泣かないでくださいよ」
「いや、しないし。というか、俺のこと何才だと思ってるの、岩見ちゃん」
「そうでした、そうでした。僕とひとつしか変わらないんでしたね、忘れてました」
嫌味だ。べつに、まぁ、いいのだけれど。
無言のまま窓の外へ視線を流す。厚手のコートを着込んだ人たちが足早に通り過ぎていくさまは、いかにも師走という感じがした。
もし、自分が一般的な人生を歩いていたのならば。ふつうに大学を卒業して、新規採用者として就職をしていたのならば。
岩見のように年相応の社会人の顔で、きちんと働いていたのだろうか。そんなことを想像してみる。
たぶん、そうなっていてもおかしくはなかったのだろう。大学在学中にとんとん拍子でデビューが決まった自分はひどく運が良かったのだ。
子どものころの自分は、なにになりたかったのだったか。もうはっきりとは覚えていないが、ひとりでテレビに出る未来は思い描いていなかったはずだ。少なくとも、五年前までは。
「そういえば、僕、大学生だったころに見たことありますよ、はるかさん。そう思うと、やっぱり同年代ですねぇ」
「俺?」
「えぇ、まぁ、インディーズ時代のはるかさんですけど。僕の連れが、学生時代にバンドを組んでたんですよ。たまに僕もハコに遊びに行っていたので、そこで」
時東がはじめてバンドを組んだのは、高校一年生のときだった。中学生のころから親しかった少年と、高校に入学して出逢った少女と。
三人での路上ライブから始まり、ライブハウスにも立った。岩見が見た覚えがあっても不思議はない。昔の話ではあるけれど。
「あの時代は豊作でしたけどねぇ。『月と海』とか。まぁ、あそこもインディーズと今とで、メンバー変わっちゃってますけど。名前も、ですね。そういえば。でも、もともとの名前は忘れちゃったな。はるかさん、覚えてます?」
ぜんぶ、忘れた。そう口にする代わりに、時東は口元に笑みを刻んだ。
「珍しいね、岩見ちゃんがそんなこと話すの」
若いわりに気が利いて、対人距離の取り方が時東にとって適切。だから、岩見は「良い」マネージャーだった。
「はは、ただの発破です」
牽制をものともせず、岩見が呑気に笑う。バックミラー越しに見えたそれに、時東は呆れて力を抜いた。
そもそもとして、どうでもいいことだ。言い聞かせ、世間話のていで話を振る。
「ちなみに、そのお友達はどうなったの」
「え? あぁ、ふつうにやめましたねぇ。大学の途中で。まぁ、大半がそうですって。趣味に始まって趣味に終わるというか。仕事にできる人たちは一握りで、そこから芽が出て五年生き残れる人はさらに一握りです」
はるかさんだって知っているでしょうと言わんばかりの口ぶりに、時東は曖昧な笑みを返した。
一発屋で終わるか、一発すら出せずに終わるか、着実にヒットを重ねていくことができるか。五年目は、もはや新人ではない。ビジュアルだけでいつまでも売っていけるわけもない。そのすべてを、時東は理解しているつもりだ。
なぜかバラエティで受けたものの、そのキャラ枠だっていつまで堅持できるのかはわからない。とんでもなく移り変わりの激しく、結果がすべての世界だ。
そんな場所に、気がつけば、ひとりで立っていた。
「岩見ちゃんさ、インディーズのCDとかって持ってた?」
「はるかさんのですか? いや、すみません。押し付けられた友達のバンドのやつしか持ってなかったですねぇ。それも今はどこにあるやらですけど」
「だよね。ごめん、なんでもない」
それきり、時東は黙り込んで目を閉じた。スタジオまで、あと三十分はかかるだろう。
岩見の対応がふつうなのだと思う。捨てるタイミングなんて、いくらでもある。それを後生大事に持っているあの人がおかしいのだ。
今まで、俺のファンだなんてそぶり、一度も見せなかったくせに。
というか、どこで買ったの、それ。よく知らないけど、ネットオークションとかで高値が付いてるんでしょ。誰だ、売ってるの。それで買ってるの。まぁ、べつにいいんだけど。
悶々と考えたまま、内心で溜息を吐く。
それとも、あの当時に買ってくれた誰かだったのだろうか。意図的に忘れることにしたから、当時のことはもう覚えていない。
けれど、秋口に南を見たことがあると思ったことは覚えていた。そうして、あのドラム。
――もしかしなくても、南さんのなんだろうなぁ。
聞けば、きっと南は答えてくれるのだろうと思う。そういう人だと知ったつもりでいる。
ただ、時東が聞かなければ、この先もなにも教えてくれないのだろうなと思った。
「それと、はるかさん」
もう喋らないという意思表示を破られ、しかたなく目を開ける。「珍しい」が続いたからだ。普段であれば、岩見はそう何度もレールを外さない。
「ちょっとしたお願いなんですけど、いいですか」
けれど、ミラーに映る岩見の表情はいつもどおりのものだった。その調子で淡々と時東に告げてよこす。
「しばらく行くのやめてください。その、はるかさんがお邪魔してる食堂」
「なんで?」
笑顔が剥がれかけたことを自覚したまま、問いかける。なんでそんなことを言われないといけないのか、まったく意味がわからなかった。
「ご存じないならご存知ないでいいと思うんですけどね。はるかさんの責任ではないですし。ただ、揉めるとちょっとよろしくないので。このご時世、ネット発信の情報は怖いですから。炎上、拡散」
「いや、だから、岩見ちゃん。話が見えないんだけど」
「まぁ、大炎上してるのは、はるかさんの自称ファンのほうなんですけどね。食堂はとばっちりというか、気の毒がられているというか」
「だから!」
読めない話に声を尖らせると、岩見が瞳を瞬かせた。
「あれ、珍しいですね。はるかさんが声を荒げるの」
「……岩見ちゃんが、まどろっこしい言い方するからでしょ」
「はるかさん、エゴサしないですもんね。いや、しないほうがいいと思うんで、それはいいんですけど」
あくまでものんびりとした口調を崩さない岩見に、しびれを切らしてスマートフォンを手に取る。
自分の名前で検索はしない、と。随分前から時東は決めている。
見たくないものを見てメンタルを崩すなんて馬鹿らしいし、なにを撮られようとも、なにを書かれようとも、どうでもいいと思っていたからだ。
「はるかさんの名前とその食堂の名前で検索したら、引っかかるんじゃないですかね。まぁ、はるかさんは本当に悪くないと思いますけど。知らないってことは、お相手もはるかさんに物申すつもりはないんでしょうし」
事務所に守られた、手の届かない芸能人の時東はるかには、影響はない。だから、どうでもいいと傲慢に思っていた。でも。
なにが嘘でなにが本当なのかもわからない、文字と画像の羅列。ただひとつはっきりとしていることは迷惑をかけたということだった。
じっと画面を見つめたまま、時東は小さく息を吐いた。
――怒ってる、かな。それとも、悲しんでるかな。
けれど、悲しんでいるという表現は、自分の知る彼と合わないな。そう思い直した直後、いつかの夜に見た静かな横顔を思い出した。ぐっと胸が詰まる。
そうやって、ひとりですべてをなかったことにするのだろうか。それとも、彼の傍にいる幼馴染みが彼を癒すのだろうか。
逢いたい、と思った。謝罪を告げたい気持ちも、罪悪感ももちろんある。だが、逢いたいという欲求のほうが強かった。こんなふうだから、自分は駄目なのだ。声にならない声で笑う。
いつも、いつも。自分のことばかりで余裕がない。五年をかけて、大人になったふりで、余裕があるように見せかけることはうまくなった。けれど、それだけだ。根本的なところは、きっとなにも変わっていない。
――俺はおまえが嫌いだ。もう無理だ。だから勝手にしろよ。勝手に一人でやってくれ。俺も美波も、おまえと一緒にやっていけない。
あの当時の記憶と一緒に封印した声が、数年ぶりに鼓膜の内側から響いた。スマートフォンを閉じて、顔を上げる。
「南さん、俺の連絡先、知らないもん」
「あ、そうなんですか」
「俺も知らない」
「えぇ? 合鍵持っていて、お家に置いてもらっていて、連絡先なにも知らないんですか? ラインとか……、知らなそうですね、すみません」
勝手に納得して謝ったものの、岩見の声は笑っている。
「なんか、いつものはるかさんで安心しました。なにをそんなにその食堂に肩入れしてるのかなって、ちょっと不安だったんですけど。いつもどおりでしたね」
いつもどおり。普段だったらなにも思わないそれに、妙にカチンときてしまった。
「いつもの俺って、なに?」
いつもどおり。笑顔で遠ざけて、壁を作って、特定の誰とも親しくせず、誰とも連絡先を交換せず、だから、行き詰っても、相談できる誰かもいない。
自分のせいで迷惑をかけただろう相手にさえ、ドライな距離を保ち続ける。それがいつもどおりの時東はるか、か。
「はるかさん」
宥める呼びかけに、時東は我に返った。どうかしているのは、今の自分だ。いつもどおりを貫けなくなろうとしている。
「僕の発言が気に障ったのなら謝りますけど。予定キャンセルとか、無理なこと言い出さないでくださいね」
そんなことはできるわけがないと承知している。意識して、時東は深く息を吐いた。そうしてから、にこりとほほえむ。
「言うわけないって。今日は夜まで生放送。明日も朝から収録二本。それに、どう考えても、俺が今押しかけたほうが迷惑でしょ。岩見ちゃんが言ったとおり」
「ですよね。うん、そう思います」
「落ち着いたころに菓子折りでも持っていこうかな。いらないって言われちゃいそうだけど」
岩見のほっとした相槌に軽口を返し、時東はもう一度目を閉じた。いつもどおり。自分は、南の家にいるときも、いつもどおりなのだろうか。
安らぐ。落ち着く。安心できる。実家のことを評しているような感想だ。だが、そうなのだ。あの場所が、自分は好きだ。あの人のいる、あの場所が。どうしようもなく好きになってしまっている。
否定して、否定して、有り得ないと嘲って、けれど、すとんと染み入ってしまうのだ。
もうすでに身体の一部になったみたいだ。あの人は、間違いなく、自分の中の特別な枠組みに入っている。
それがどういった枠組みなのかは、わからないけれど。
いや、おまえ、バラエティーばっかり出てるじゃねぇかよ、と言われると否定しづらい昨今であるものの、この時期は別である。
ヒット曲を出したことがあり、それなりに顔の知れているミュージシャンであるところの時東はるかにはバンバンお声がかかるのだ。たとえ、今年まだ一枚もCDを出していなくとも。
[9:時東はるか 12月17日10時18分]
「お疲れさまでーす、はるかさん」
チャイムに応じてドアを開けると、人畜無害でございと言った笑顔の岩見が立っていた。コートの上からぐるぐると巻かれたマフラーに外気温の低さを悟る。
そういえば、朝のニュースで都心も初雪の可能性と言っていたような。ぼんやりと思い返しつつ、時東は鍵を閉めた。これから夜までフルスケジュールだ。
怒涛の過密日程を南の家から通いでこなすことは土台無理なので、先週から都内の自宅に戻っている。
「朝からテンション高いね、岩見ちゃん」
欠伸を噛み殺しながら言えば、岩見がにこにこと喋りかけてくる。
「はるかさんこそ、なんか眠そうですね。昨夜は遅かったんですか? あ、曲作りですか? もしかして」
「そうやって、ちょいちょいジャブ入れるの、やめてくれるかな」
一軒家の南の家よりずっと暖かいはずのマンションが、なぜか底冷えしててしかたがなかったというだけである。
端的に言ってしまえば、寝不足の理由はそれに尽きるわけだが、さすがに口にすることは憚られた。
なんというか、よろしくないなぁ、と思う。たった一週間程度の滞在で、住み慣れた自宅よりも、他人の家の居心地のほうが良くなっているとか。おまけに、向こうのほうが圧倒的に寝つきも良いとか。
どう考えてもおかしい。
――まぁ、考えてもしかたないしなぁ。
南と一緒のときだけ食べ物の味がわかるという時点で、意味がわからないくらいなのだ。だから、まぁ、なんだ。そういうこともあるのだろう。
眠い頭で言い訳を練り上げつつ、岩見に続いて地下の駐車場に向かう。売れ始めたころにストーカーのようなファンに辟易して移り住んだ、芸能人向けのマンションである。
「そりゃ、ジャブも入れますって。わかってます? はるかさん。本来だったら、今のこのタイミングでアルバムの告知したかったんですよ?」
「そりゃ、そうだろうね」
それは、まぁ、音楽番組が多いこの時期にお披露目をしたかったことだろう。だがしかし、できなかったものはしかたがない。延期を許してもらっていることは、ありがたいと思っているが。
南さんの家に行ってみれば変わるかなぁ、なんて。甘いことを考えていたものの、そうは問屋が卸さなかったということだ。
しれっと応じた時東に、小さく溜息を吐いた岩見が静かにアクセルを踏んだ。
「最近、またご機嫌斜めなんですか? ちょっと前までやたらご機嫌だったのに。嫌だな、はるかさん。情緒不安定な女優さんみたいに生放送で泣かないでくださいよ」
「いや、しないし。というか、俺のこと何才だと思ってるの、岩見ちゃん」
「そうでした、そうでした。僕とひとつしか変わらないんでしたね、忘れてました」
嫌味だ。べつに、まぁ、いいのだけれど。
無言のまま窓の外へ視線を流す。厚手のコートを着込んだ人たちが足早に通り過ぎていくさまは、いかにも師走という感じがした。
もし、自分が一般的な人生を歩いていたのならば。ふつうに大学を卒業して、新規採用者として就職をしていたのならば。
岩見のように年相応の社会人の顔で、きちんと働いていたのだろうか。そんなことを想像してみる。
たぶん、そうなっていてもおかしくはなかったのだろう。大学在学中にとんとん拍子でデビューが決まった自分はひどく運が良かったのだ。
子どものころの自分は、なにになりたかったのだったか。もうはっきりとは覚えていないが、ひとりでテレビに出る未来は思い描いていなかったはずだ。少なくとも、五年前までは。
「そういえば、僕、大学生だったころに見たことありますよ、はるかさん。そう思うと、やっぱり同年代ですねぇ」
「俺?」
「えぇ、まぁ、インディーズ時代のはるかさんですけど。僕の連れが、学生時代にバンドを組んでたんですよ。たまに僕もハコに遊びに行っていたので、そこで」
時東がはじめてバンドを組んだのは、高校一年生のときだった。中学生のころから親しかった少年と、高校に入学して出逢った少女と。
三人での路上ライブから始まり、ライブハウスにも立った。岩見が見た覚えがあっても不思議はない。昔の話ではあるけれど。
「あの時代は豊作でしたけどねぇ。『月と海』とか。まぁ、あそこもインディーズと今とで、メンバー変わっちゃってますけど。名前も、ですね。そういえば。でも、もともとの名前は忘れちゃったな。はるかさん、覚えてます?」
ぜんぶ、忘れた。そう口にする代わりに、時東は口元に笑みを刻んだ。
「珍しいね、岩見ちゃんがそんなこと話すの」
若いわりに気が利いて、対人距離の取り方が時東にとって適切。だから、岩見は「良い」マネージャーだった。
「はは、ただの発破です」
牽制をものともせず、岩見が呑気に笑う。バックミラー越しに見えたそれに、時東は呆れて力を抜いた。
そもそもとして、どうでもいいことだ。言い聞かせ、世間話のていで話を振る。
「ちなみに、そのお友達はどうなったの」
「え? あぁ、ふつうにやめましたねぇ。大学の途中で。まぁ、大半がそうですって。趣味に始まって趣味に終わるというか。仕事にできる人たちは一握りで、そこから芽が出て五年生き残れる人はさらに一握りです」
はるかさんだって知っているでしょうと言わんばかりの口ぶりに、時東は曖昧な笑みを返した。
一発屋で終わるか、一発すら出せずに終わるか、着実にヒットを重ねていくことができるか。五年目は、もはや新人ではない。ビジュアルだけでいつまでも売っていけるわけもない。そのすべてを、時東は理解しているつもりだ。
なぜかバラエティで受けたものの、そのキャラ枠だっていつまで堅持できるのかはわからない。とんでもなく移り変わりの激しく、結果がすべての世界だ。
そんな場所に、気がつけば、ひとりで立っていた。
「岩見ちゃんさ、インディーズのCDとかって持ってた?」
「はるかさんのですか? いや、すみません。押し付けられた友達のバンドのやつしか持ってなかったですねぇ。それも今はどこにあるやらですけど」
「だよね。ごめん、なんでもない」
それきり、時東は黙り込んで目を閉じた。スタジオまで、あと三十分はかかるだろう。
岩見の対応がふつうなのだと思う。捨てるタイミングなんて、いくらでもある。それを後生大事に持っているあの人がおかしいのだ。
今まで、俺のファンだなんてそぶり、一度も見せなかったくせに。
というか、どこで買ったの、それ。よく知らないけど、ネットオークションとかで高値が付いてるんでしょ。誰だ、売ってるの。それで買ってるの。まぁ、べつにいいんだけど。
悶々と考えたまま、内心で溜息を吐く。
それとも、あの当時に買ってくれた誰かだったのだろうか。意図的に忘れることにしたから、当時のことはもう覚えていない。
けれど、秋口に南を見たことがあると思ったことは覚えていた。そうして、あのドラム。
――もしかしなくても、南さんのなんだろうなぁ。
聞けば、きっと南は答えてくれるのだろうと思う。そういう人だと知ったつもりでいる。
ただ、時東が聞かなければ、この先もなにも教えてくれないのだろうなと思った。
「それと、はるかさん」
もう喋らないという意思表示を破られ、しかたなく目を開ける。「珍しい」が続いたからだ。普段であれば、岩見はそう何度もレールを外さない。
「ちょっとしたお願いなんですけど、いいですか」
けれど、ミラーに映る岩見の表情はいつもどおりのものだった。その調子で淡々と時東に告げてよこす。
「しばらく行くのやめてください。その、はるかさんがお邪魔してる食堂」
「なんで?」
笑顔が剥がれかけたことを自覚したまま、問いかける。なんでそんなことを言われないといけないのか、まったく意味がわからなかった。
「ご存じないならご存知ないでいいと思うんですけどね。はるかさんの責任ではないですし。ただ、揉めるとちょっとよろしくないので。このご時世、ネット発信の情報は怖いですから。炎上、拡散」
「いや、だから、岩見ちゃん。話が見えないんだけど」
「まぁ、大炎上してるのは、はるかさんの自称ファンのほうなんですけどね。食堂はとばっちりというか、気の毒がられているというか」
「だから!」
読めない話に声を尖らせると、岩見が瞳を瞬かせた。
「あれ、珍しいですね。はるかさんが声を荒げるの」
「……岩見ちゃんが、まどろっこしい言い方するからでしょ」
「はるかさん、エゴサしないですもんね。いや、しないほうがいいと思うんで、それはいいんですけど」
あくまでものんびりとした口調を崩さない岩見に、しびれを切らしてスマートフォンを手に取る。
自分の名前で検索はしない、と。随分前から時東は決めている。
見たくないものを見てメンタルを崩すなんて馬鹿らしいし、なにを撮られようとも、なにを書かれようとも、どうでもいいと思っていたからだ。
「はるかさんの名前とその食堂の名前で検索したら、引っかかるんじゃないですかね。まぁ、はるかさんは本当に悪くないと思いますけど。知らないってことは、お相手もはるかさんに物申すつもりはないんでしょうし」
事務所に守られた、手の届かない芸能人の時東はるかには、影響はない。だから、どうでもいいと傲慢に思っていた。でも。
なにが嘘でなにが本当なのかもわからない、文字と画像の羅列。ただひとつはっきりとしていることは迷惑をかけたということだった。
じっと画面を見つめたまま、時東は小さく息を吐いた。
――怒ってる、かな。それとも、悲しんでるかな。
けれど、悲しんでいるという表現は、自分の知る彼と合わないな。そう思い直した直後、いつかの夜に見た静かな横顔を思い出した。ぐっと胸が詰まる。
そうやって、ひとりですべてをなかったことにするのだろうか。それとも、彼の傍にいる幼馴染みが彼を癒すのだろうか。
逢いたい、と思った。謝罪を告げたい気持ちも、罪悪感ももちろんある。だが、逢いたいという欲求のほうが強かった。こんなふうだから、自分は駄目なのだ。声にならない声で笑う。
いつも、いつも。自分のことばかりで余裕がない。五年をかけて、大人になったふりで、余裕があるように見せかけることはうまくなった。けれど、それだけだ。根本的なところは、きっとなにも変わっていない。
――俺はおまえが嫌いだ。もう無理だ。だから勝手にしろよ。勝手に一人でやってくれ。俺も美波も、おまえと一緒にやっていけない。
あの当時の記憶と一緒に封印した声が、数年ぶりに鼓膜の内側から響いた。スマートフォンを閉じて、顔を上げる。
「南さん、俺の連絡先、知らないもん」
「あ、そうなんですか」
「俺も知らない」
「えぇ? 合鍵持っていて、お家に置いてもらっていて、連絡先なにも知らないんですか? ラインとか……、知らなそうですね、すみません」
勝手に納得して謝ったものの、岩見の声は笑っている。
「なんか、いつものはるかさんで安心しました。なにをそんなにその食堂に肩入れしてるのかなって、ちょっと不安だったんですけど。いつもどおりでしたね」
いつもどおり。普段だったらなにも思わないそれに、妙にカチンときてしまった。
「いつもの俺って、なに?」
いつもどおり。笑顔で遠ざけて、壁を作って、特定の誰とも親しくせず、誰とも連絡先を交換せず、だから、行き詰っても、相談できる誰かもいない。
自分のせいで迷惑をかけただろう相手にさえ、ドライな距離を保ち続ける。それがいつもどおりの時東はるか、か。
「はるかさん」
宥める呼びかけに、時東は我に返った。どうかしているのは、今の自分だ。いつもどおりを貫けなくなろうとしている。
「僕の発言が気に障ったのなら謝りますけど。予定キャンセルとか、無理なこと言い出さないでくださいね」
そんなことはできるわけがないと承知している。意識して、時東は深く息を吐いた。そうしてから、にこりとほほえむ。
「言うわけないって。今日は夜まで生放送。明日も朝から収録二本。それに、どう考えても、俺が今押しかけたほうが迷惑でしょ。岩見ちゃんが言ったとおり」
「ですよね。うん、そう思います」
「落ち着いたころに菓子折りでも持っていこうかな。いらないって言われちゃいそうだけど」
岩見のほっとした相槌に軽口を返し、時東はもう一度目を閉じた。いつもどおり。自分は、南の家にいるときも、いつもどおりなのだろうか。
安らぐ。落ち着く。安心できる。実家のことを評しているような感想だ。だが、そうなのだ。あの場所が、自分は好きだ。あの人のいる、あの場所が。どうしようもなく好きになってしまっている。
否定して、否定して、有り得ないと嘲って、けれど、すとんと染み入ってしまうのだ。
もうすでに身体の一部になったみたいだ。あの人は、間違いなく、自分の中の特別な枠組みに入っている。
それがどういった枠組みなのかは、わからないけれど。