関東の片田舎にある南食堂のテレビは、元号が令和に変わった今も、古き良きブラウン管型である。
 口の悪い幼馴染みに「物持ちが良いとか、古いとか、そういうの完全に通り越してるよね。ここまでくると時代の遺産だよね」と評される代物だが、南は気に入っていた。なにせ、自分が幼いころから店に鎮座し続けているのだ。
 常連の爺様方にも懐かしいと好評なので、今のところ買い替える予定はない。まぁ、もちろん、壊れなければ、の話ではあるのだが。
 それにしても、と。南はカウンターの内側から件のテレビへ視線を動かした。客層に合わせて選ぶことの多い情報番組ではない。毎週金曜夜放送の人気バラエティだ。そうして、背景となっているのは、この店である。
 ――なんで、こうなったかな、本当。
 考えれば考えるほど、謎すぎる。人生とはそういうものなのかもしれないが、人の縁というものは本当によくわからない。
 いや、まぁ、テレビが来たのは、俺が取材を了承したからなんだけど。
 食堂をぐるりとおさめたカメラワークが、カウンター席に座る男をアップで捉えていく。いかにも芸能人でございといった、華のある顔。
 カメラが回っていないあいだも愛想良く振る舞っていたけれど、どうにもつまらなさそうに見えたことを南は覚えている。
 カウンター越しに接客をしながら、「隠しきれてねぇぞ、こんな田舎に来たくなかったんですっていう空気」なんてことを考えた記憶があるからだ。
 ついでに、さっさと終わって帰ってくれねぇかなぁ、とも思っていた。だが、その余裕は、にこにこと喋っていた男が黙り込んだことで霧散することになる。
 正に今、テレビ画面に映っている自分だ。
 一口かじったおにぎりと代わる代わるに凝視され、居たたまれなかったことも記憶に新しい。
 愛想笑いを吹き飛ばした真顔が、ずいと身を乗り出す。改めてテレビで見ると、カウンターを挟んでいるとは思えないほど距離が近かった。対人距離近すぎだろ。
「ねぇ、ちょっと、南さん。俺と結婚してくれない?」
「死ね」
 ブラウン管から響く自分の返答とひとりごとが、それはそれはきれいに重なった。勢いよくテレビを消せば、カウンター席から情けない声が上がる。
「ちょ、ちょ、南さん! なんでそんなに冷たいの! 俺だよ? 世間のアイドル、時東はるかのプロポーズだよ?」
「アイドルなのか、おまえ」
「いや、ごめんなさい。違います。ミュージシャンです」
「そのわりにはバラエティばっかり出てるよな」
 べつに見ているわけではないが。南の言葉に時東の顔がぱっと華やいだ。
「見てくれてるの?」
「いや、見てねぇって。というか、俺の部屋、テレビないし」
 自宅の居間にはあるが、つけることはめったとない。稼働しているのは、この「南食堂」の店内だけだ。
「南さんが冷たい」
「そりゃ、おまえは客じゃねぇからな」
 閉店時間は二十一時で、現在時刻が二十二時半。外のガラス戸には「閉店」の札がかかり、のれんも店内に引っ込めてある。
 よって、営業時間を大幅に過ぎて押しかけている上に、メニュー外の有りものの野菜炒めに目を輝かせているこの男は客ではない。
「というか、なんで総集編でまで流すんだ。嫌がらせか。嫌がらせだろ」
「いや、受けが良かったからじゃない? ちなみにね。俺は南さんと一緒にテレビで見れて大満足」
 店に入るなりテレビをつけてくれとごね倒した男は、幸せそうな顔で白米を頬張っている。
「バラエティ企画とか死ねよって思ってたけど、このロケだけは行ってよかった。この町に来てよかった」
 やっぱり思ってたんだな、と呆れつつも、「そうか」とだけ南は相槌を打った。そういう顔してた、と言えば、謎の理論で調子に乗りそうだったからだ。やっぱり南さんは俺のことわかってくれてるんだね、とかなんとか。
「二ヶ月前の俺の決断を俺は褒めたい。だから南さん、俺と結婚」
「するわけがない」
 カメラも回っていないのになにを言い出すか、この男は。
 真顔で空いた茶碗を差し出した時東の軽そうな頭をカウンター越しに叩くと、想像と違わない軽い音がした。
 このチャラついた頭の中には、果たしてなにが詰まっているのだろうか。南凛太朗は考える。
 目つきが悪い。愛想がない。そこまで高身長なわけでもないのに威圧感が半端ない。とりあえずなんか怖い。そう称されること二十六年。第一印象でモテたことは皆無だった。つい二ヶ月前までは。
 溜息を呑み込み、おでんの仕込みを再開する。
 あんな依頼受けなきゃよかったと悔やんだところで後の祭りでしかないし、一度できた縁は、そう簡単に切れないようになっているのだ、たぶん。
 二度目の溜息も呑み込んで、南は食堂をそっと見渡した。亡き両親から受け継いだ南食堂は、カウンター席が五席、四人がけの客席がひとつに、ふたりがけの客席が四つの小さな店である。
 店の名を売るつもりもない以上、バラエティ番組の出演など面倒ごとでしかなかったのだが、町役場勤めの同級生に泣きつかれ断ることができなくなったのだ。田舎暮らしの悲しい性としか言いようがない。
「俺、南さんのごはん食べると幸せな気分になれるんだよね、マジで」
 山盛り追加してやった白米を、白菜の浅漬けをおかずに、時東は子どものような顔でもりもりと食べている。言葉どおり幸せそうではある。ただの白米なのに。
 若い女の子を中心にブレイク中の若手アーティストらしいが、そんなに食に逼迫しているのだろうか。ほぼ隔週、片道二時間もかけて、こんな田舎にやってくる人間の気が知れない。ブレイク中と言いつつ、さして仕事がないのかもしれない。
 南が抱き始めた疑惑など露知らない顔で、「おでんもおいしいよねぇ、冬だなぁ」と時東は頬を緩ませている。
「おまえが今食べる分はないからな」
「いいもん、また来るから。できればたっぷり売れ残ってる日にお邪魔したい。ねぇ、南さん。いつなら売れ残りそう?」
「おいこら、時東」
 縁起でもないことを言う男を、目つきが悪いと揶揄される原因の三白眼で軽く睨む。それなのに、なぜか身体をくねらされてしまった。
「わー、南さんに二週間ぶりに名前呼んでもらえた」
 前に呼んだときは、果たしてどういったタイミングだったのか。問いかけてしまえば最後、一から十まで細かく説明されそうだったので、黙殺することにした。
「冗談はさておいて。ごちそうさまでした。南さん。おいしかったです」
 行儀良く手を合わせて、時東が頭を下げる。面倒だと感じていても、来訪をきっぱり断ることのできない要因はこれなのかもしれない。
 下ゆで用の鍋に大根を放り込んで、やかんに手を伸ばす。
「茶、いるか」
「んー、すごく嬉しいけど、ますます帰りづらくなるので自重します」
 顔を隠すようにぐるぐるとマフラーを巻いて、時東が立ち上がる。テレビと同じく南が子どもだったころから設置されている壁時計は、二十三時を指そうとしていた。この男が家に着くのは、早くて一時。前に、時東自身が言っていたことだ。
「南さん、お勘定」
「だから、おまえは客じゃねぇ」
「それって」
「斜め上の意訳はいらねぇからな」
 大仰に目を煌かせた時東を切り捨てて、再び包丁を手に取る。これも父が使っていたものだ。使い始めて二年が経ち、ようやく少し南の手に馴染むようになった。
 のれんの上がっている時間帯には来るな、営業妨害だ、と初っ端に告げたのは南で、時東は言いつけを順守している。それだけのことなので、妙な解釈はしないでいただきたい。
「まぁ、俺としては、のんびりさせてもらえて大満足だけど」
 がら、と鈍い音を立てて時東が戸を引く。南の手元にも霜月の冷たい夜風が吹き込んできた。田舎の夜は暗い。外はきっと真っ暗だ。
「時東」
 声をかけると、華やいだ顔が振り返った。洒落た店のひとつもない田舎の、築数十年になる食堂の軒先。そんな変哲のない場所がテレビのワンシーンのようになるのだから、芸能人とやらのオーラは凄まじい。
「気をつけろよ」
 若手人気歌手、事故死、なんてニュースは見たくない。
 ほほえんだ時東がひらりと手を振った。やはりどうにも華がある。だからだろうな、と思う。だから、いなくなると寂しい感じがするのだ。
 ――ま、どんな人間でも、帰るってなったら寂しいは寂しいだろ。
 それが騒がしい人間であれば、なおのこと。
 店の外で、バイクのエンジンが唸る音がした。ロケのあと、はじめて来訪した折に、あまりにも派手な車で来たものだから、目立つ車に乗ってくるな、と苦い顔をしてしまったのだ。それ以降、時東の移動手段はバイクになった。
 そういった素直なところが、なんともかわいい。さほど年も変わらない、図体ばかりでかい男だが。
 おそらくはまた隔週、十八日の金曜日。
 そのときは、少しだけ多めに仕込んでおいてやるとするか。バイクの音が次第に小さくなっていく。鍋が茹だるぐつぐつという音が、ひっそりと店内に響いていた。