恋を始めたいから、好きを知りたい

「わかった、案内するよ」
「ありがと」

 学業優先の毎日を送っているとはいえ、芸能活動と学業を両立している八木沢くんは校舎のことを把握する時間が圧倒的に足りていないのかもしれない。
 俺は机から立ち上がって、母さんお手製の弁当を手に取った。

(八木沢くんとお弁当、お揃いだ……)

 同じ家に住んでいて、同じ人に弁当を作ってもらっているのだから、弁当の中身に違いが出るわけがない。
 そこまで母さんは工夫するような人ではないと知っているけど、知っているからこそ『お揃い』を心で堪能することができるというもの。

「昼休みに入ったばっかだと、購買めちゃくちゃ混んでるらしいよ」
「先輩たち優先とか?」
「あ、ううん。購買の人、三階と二階と一階で販売してくれるから、先輩に気を遣うこともないみたい」

 昼休みという時間帯なこともあって、廊下は生徒たちが行き交って活気づいていた。
 教室で昼食を食べるだけがすべてじゃないってことを知るのと同時に、人とすれ違う度にみんながみんな八木沢くんを一瞬でも視界に入れていることに驚かされる。

(しゅう)?」
「男子校なのに、凄いなって」

 八木沢くんを視界に入れはするものの、特に何かを話しかけてくる生徒はいない。
 八木沢くんの隣を独占できているのは自分だけだって気づくと、自然と背筋が伸びる。
 俺は恐縮することなく、誇らしげに廊下を歩いていく。

「八木沢くんの人気を肌で感じるなって」

 八木沢嶺矢に人気があることが、自分が褒められているかのように嬉しい。

「追っかけって怖い印象があったけど、この学校のみんなは優しいね」
「芸能科はなくても、芸能活動が許可されているだから……芸能人は遠くに追いやられるのかも」
「俺は、八木沢くんを放っておかないけどね」

 隣を歩く八木沢くんの表情を確認もせず、これから向かう放送室へと真っすぐ視線を向けたときのことだった。

(しゅう)、そういうこと口にするな……」
「あ、確かに、あの人も一人かも」

 遠くからでも整った顔立ちだと判断できてしまう一人の美男子が、こちらへと向かってくるのが分かる。
 すれ違いざまに感じた香水の香りから、すぐに芸能人だと判断できた。
 確かに芸能科が存在しない学校でも、芸能活動が許可されているだけの価値が我が高校にはあるのかもしれない。

「今の人、アイドルグループのセンターやってる」
「へえ……」

 今度は、一人の冴えない印象の男子生徒とすれ違う。

「今のは、大手事務所に所属する新人俳優」
「芸能人だらけ……」
「変に騒ぎ立てる人がいないのは、芸能人がたいして珍しくないからかも」
「なるほど」

 そのあとも、賑やかな昼休みという時間帯では何人かの生徒とすれ違う。
 すれ違う男子生徒に手を振られると、八木沢くんは俳優として恥じない素敵な笑顔で応じる。
 その、素敵だと思う笑顔に俺は魅入ってしまうわけだけど。

(普段の八木沢くん、ほとんど笑わないからなー……)

 せめて学校にいるときだけでも、俳優八木沢嶺矢の仮面を外してほしい。
 そんなことを思っても、八木沢くんは『俳優八木沢嶺矢』というキャラクターを守っていく。
 学校での悪い評判や噂が未来の自分を邪魔しないように、八木沢くんは今日も完璧を装っていく。

(しゅう)?」

 すれ違う男子生徒一人一人に笑顔を向ける八木沢くんに見入っていたせいで、少し反応が遅れた。

「あ……」
「何? どうかした?」

 これ以上、八木沢くんの負担を増やしたくない。
 クラスメイトを心配する時間があったら、八木沢くんには少しでも芸能人の仮面を外して休んでほしい。彼に心配をかけないように、自分なりの笑顔を整えていく。

「……俺は誰が芸能人なのかはわからないけど」

 芸能人様の笑顔に比べたら、一般人の笑顔なんて歪すぎて仕方がないかもしれない。
 それでも、彼に心配をかけないための顔を探していく。

「弊社の俳優が一番かっこよく見えるね」

 恥ずかしがることなく、八木沢くんに自分の感じたことを素直に伝える。
 いつもなら勇気がいるような発言も、隣に八木沢くんがいるっていう心強さが自分を変えてくれる。

「八木沢くん?」

 隣を歩く八木沢くんの表情が、ほんの少し赤面しているように見える。

「ほんと……柊は高校生らしくない」

 俺が顔を覗き込もうとすると、八木沢くんは必死で自分の表情を隠そうとする。

「ね、ね、八木沢くんも、もっと顔、見せて」
「毎日は飽きる……」
「八木沢嶺矢ファン、舐めないでもらいたいんだけど」

 背伸びをしたところで、自分よりも高身長の八木沢くんに追いつくことはできない。
 俺にだけ見せてくれる顔を拝めないのは残念だったけど、ほんの少し赤面していたような気がするっていう貴重さににやりと口角が上がった。
「失礼します」

 放送部員が利用できる放送室は、二つの部屋が隣り合っている造り。
 ひとつは校内放送ができるようにマイクやミキサーといった機材が置かれている部屋は防音仕様で秘密の相談をするにはもってこいだけど、食べ物飲み物の持ち込みは禁止されている。

「あ、こっちの部屋は声出して大丈夫だから」

 もうひとつの部屋はテーブルやパイプ椅子・放送関連の本や、放送部が出場する大会用の原稿が乱雑に置かれている。
 自由に飲食できるようになっていて、マイク前の緊張感に怯えなくてもいい仕様。
 俺と八木沢くんは、こっちの部屋に置かれているテーブルの上にお弁当を乗せる。

「今日も橘高(きだか)先輩の声、綺麗すぎる……!」

 昼休みは好きな音楽を流していいことになっていて、橘高先輩の滑らかで美しい曲紹介には自然と聴覚が奪われてしまう。

「癒されるー……」

 声変わりあとの中途半端さを抜けきった高校三年生の橘高先輩の声には聴覚を幸せにしてしまうような美しさがあって、自然と安らかな気持ちに浸らせてくれる。

(しゅう)が浮気してる」

 八木沢嶺矢(やぎさわみねや)ファンである俺が、まさかの八木沢くんから指摘を受けてしまった。

「ちーがーう」
「俺のファンって言ってくれてたのに」

 意地悪そうな表情を浮かべる八木沢くんだけど、そこには嫌味らしい感情は何ひとつ含まれていないって分かる。感じることができる。

「八木沢くん! そういう意味じゃないって」
「俺も、もっと頑張らなきゃダナ」
「やーぎーさーわーくーん」

 そういう八木沢くんなりのからかいを理解できるようになったのも、一緒に住むようになったからかもしれない。
 ただの同級生、ただのクラスメイトのままだったら、こんなやりとりすらできないくらい八木沢くんは自分とは無縁の世界を生きる人。

「好きな席に座って、好きなだけ食べて」

 マイクや機材が整った部屋で、お昼の放送を担当している放送部の先輩。
 一人の先輩はマイク前で、もう一人の先輩は機材担当。
 お昼の放送は基本的に音楽を流すだけで、部員が喋る唯一の機会は曲紹介のときくらい。
 それでも先輩たちが使用している部屋からは、緊張や期待が入り混じった空気が漂ってくる。

「ゆっくり昼、食べたかったから助かった」

 八木沢くんは、放送室から借りていた本を元の位置に戻す。
 そして二人で一緒になって、テーブルの上に母さん手作りのお弁当を広げた。

「確かに放送室の方が、落ち着いて食べれるかも」
「かなと思って」
「あ、ちなみに先輩たちがいる部屋は飲食禁止ね」

 視線の先にいる先輩たちは放送に集中していて、ご飯を食べている気配がない。
 放送当番の日は早めに昼飯を済ませなければいけないんだろうなってことを、先輩たちの活動風景を見ながら察する。

「いただきます」
「いただきます」

 声が重なったことに対して、俺たちは一緒に笑顔を浮かべた。

「ほんと……いつもありがと」
「弁当作ってんのは俺じゃないけど、ありがた~く受け取らせてもらうね」

 今日の弁当は味がしっかり染みている炊き込みご飯に、鮭のホイル焼きがメイン。
 朝からホイル焼きを作ったんですかって心の中で母親にツッコみたいものの、朝から二人分の弁当を用意してくれる母親に感謝の言葉以外のものを向ける勇気もない。

「今日のご飯、もち米? もちもちしてる」

 お弁当箱の中の炊き込みご飯に興味を引かれる八木沢くん。

「ううん、もち米の常備はないから」
「?」
「白米に餅を入れて炊くんだよ」
「ああ、なるほど……え」

 八木沢くんの反応を見て、白米に餅を入れて、もち米風を味わうのは自分の家ならではということも察する。
 実践しない人がいないわけではないだろうけど、少なくとも八木沢くんの家は白米に餅を入れるということはやらないらしい。

「でも、餅って冷めると硬くなる……」
「理由はわからないんだけど、炊き込みご飯にしちゃうと硬くならないんだよ」
「へえ」

 食のプロでもないから、なんで餅で作った炊き込みご飯が硬くならないのかという謎は解けない。
 今なら検索すればなんでも出てくるような気もするけど、そこまで好奇心旺盛でもないから調べる気力も湧いてこない。

「米に餅がコーティングされて、無敵になっちゃうのかも」
「二つで一つ……みたいな?」
「みたいな感じなんじゃないかな」

 適当に繰り広げている会話なのに、話が弾んだような感覚になるのは八木沢くんの喋りが上手いからなのかもしれない。

(もっと上手く喋れたらいいんだけど……)

 その、望んでいるものを得られるのなら苦労しない。
 自分だって八木沢くんを楽しませるためのトーク技術を見習ってみたいけど、それができるのなら今頃は陰キャな生活を送っていない。
「今日も仲がいいね」

 今日はお昼休みに流す音楽の数が少なかったらしくて、先輩たちがお昼の放送を終えて隣の部屋を覗きに来た。

「お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
「礼儀正しいのは確かに大事なんだけど……」

 優しい声色が特徴的な橘高(きだか)先輩と、真逆の低音が特徴的な大武(おおたけ)先輩。

「うちの部は、もっと気楽にって感じなんだけどね」

 橘高(きだか)先輩に至っては声だけでなく、性格まで温厚で優しいところが部長らしいなっていうことを感じる。

「先輩たちも、お昼ご飯一緒に……」
「俺たちはクラスに戻る」

 穏やかな橘高(きだか)先輩に寡黙な大武先輩っていうバランスの取れた二人を見ていると、二人の先輩の相性の良さってものを感じる。

「もうすぐ卒業だからね。クラスのみんなと思い出を作ってくるよ」
「そうですか……」
栗花落(つゆり)、そんなに悲しそうな顔しないで」

 自分が素直すぎたのか、率直に寂しそうな顔を浮かべてしまったかもしれない。
 橘高(きだか)先輩が俺の凝り固まった寂しさを解そうと、体を揺さぶるために近づいてくる。

「二年がいない部活で悪いな」
「でも、その分、自分たちの好き勝手に部活ができます」

 先輩たちに向けて、芸能界で魅せるような笑みを浮かべて心配をかけないように振る舞う八木沢くん。

「って、おまえはほとんど学校来ないだろ」

 俺と八木沢くんは入学したばかりなのに、放送部の先輩たちと関わることができるのは残りわずか。
 後輩との絡むことに楽しさを感じてくれているのか、普段ほとんど笑うことがない大武先輩の口角が上がる。

「八木沢は、またお仕事決まってたもんね」
「え!」

 橘高(きだか)先輩は最後に大きな爆弾を投下していく。
 俳優八木沢嶺矢(やぎさわみねや)に関する情報なら真っ先に入手してきた今までの人生が、ここで崩れ去ることになるなんて思ってもいなかった。

「あれ……? 栗花落(つゆり)……?」
「ほら、行くぞ」
(しゅう)のことは、俺が面倒見ます」

 栗花落(つゆり)って誰だっけと振り返っている間に、二人の先輩は放送室を出ていこうとしている。
 栗花落(つゆり)は自分の苗字だと思い出した頃には、放送室に残されたのは俺と八木沢くんの二人だけになっていた。

「え、え、え、え!?」

 信じられない思いが満ちていく。
 自分が知らない情報を、ほかの誰かから聞かされるなんて日常が訪れるなんてファン失格かもしれない。

「え、嘘……じゃない、八木沢くん、本当?」

 八木沢嶺矢(やぎさわみねや)の新しいお仕事情報を提供して、橘高(きだか)先輩と大武先輩は放送室から去っていった。
 二人の先輩がいなくなると、八木沢くんは素の表情に戻って昼食を食べ進めていく。

「知らない……知らない……知らない……」

 スマホを握り締め、急いで検索を始める。
 確かに、ネット上には八木沢嶺矢が出演する新しいドラマに関するニュースがすぐに見つかった。
 喜びが湧き上がってくるのと同時に、自分がその情報を最初に知ることができなかった悔しさが押し寄せてきた。

「昨日の夜くらい……だったかな? 情報解禁」
「知らなかったー……」

 八木沢くんに聞こえてしまうほど、盛大に息を吐き出して心を落ち着けようと心がける。

「テレビドラマ決まって……うん……」
「そっか……。八木沢くん、また学校に来られなくなっちゃうんだ」

 八木沢くんがちゃんと高校を卒業できるように、学業優先のスケジュールを組んでいるはず。
 とはいえ、八木沢くんと学校生活を送ることは、当たり前に訪れる日常ではない。

「先輩たちの卒業も、もちろん寂しいけど……」

 芸能人の知り合いが身近にいるって、こういうこと。
 芸能人と付き合いがあるって、こういうこと。

「八木沢くんと会えないのは、もっと寂しい」

 芸能人()にとっての日常は特別感のあるもので、学校に通うという当たり前が彼には存在しない。

「でも、すごいね。どんどん躍進していくんだね、八木沢くんは」

 八木沢くんに心配をかけないように笑顔を作り込むけど、潜んでいるもの悲しさのような感情に戸惑う。
 机の下で、手を何度か開いては閉じてを繰り返す。何も掴むものなんてないのに、何かを掴むために指を動かしてしまう。

「俺も部のこと、しっかり考えないと……」

 自分も、夢ってものを掴みたい。
 これになりたい、あれになりたいって夢がない人生を送ってきたからこそ、八木沢くんのように綺麗に輝く未来を見つけてみたい。

(しゅう)
「ん?」

 口の中に、炊き込みご飯を運ぼうとしたときのことだった。

「なんで、一人で無理しようとすんの」

 寂しいって感情を抱いていたことを、八木沢くんが見つけてくれた。

「放送部に入ろうと思った理由、覚えてる?」
「それはもちろん! 八木沢くんが関わってる芸能界のこと、少しでも知りたいって思ったから!」

 八木沢くんが放送部を選んだから、自分も一緒に付いていったわけではない。
 自分の世界は八木沢くんでできているかもしれないけど、自分の未来は自分で決めなきゃいけない。
 自分の世界()は八木沢くんが傍にいても、未来の自分の世界に八木沢くんはいない。
「高校の部活で得られるものとプロの現場は違うかもしれない……でも、少しでいい。ほんの少しでいいから、放送の現場を知りたいって思った。だから、放送部を選んだ」

 自分の未来が、八木沢くんのせいで駄目になったって言い訳しないために。
 八木沢くんが自分の未来にいないと知っているからこそ、明日の事、明後日のこと、未来のことは自分の意思で決めなきゃいけない。

「高校を卒業したら何がやりたいとか、そういうのはまだ分かんないけど、でも、今の俺は放送の知識を身につけたい!」

 喋りが得意でもなければ、放送に関する機械の扱いに長けているわけでもない。
 邪な八木沢嶺矢(やぎさわみねや)ファンである自分に何ができるかといったら、何もできない。
 それでも放送部に入りたいと思ってしまった自分は、相当な八木沢嶺矢馬鹿なのかもしれない。

「まあ、本音を言うなら調理部入ってみたかったけど……」
「ふっ」

 あまりに率直な本音を吐露すると、八木沢くんは堪えきれなかった笑いを溢す。

「いや、だって! そもそも調理部がないから! 男子校だからなのか、少子化が理由なのかは分かんないけど!」

 高校に入学したての自分が部を設立したところで、三年間やり切る自信なんて欠片も存在しない。

「一から部員を集めて、部を設立して、部活動を軌道に乗せて……青春っぽいことにも憧れるけど……」

 結局、自分は臆病。
 自分で未来を選択したとか言っておきながら、自分一人では美しい未来を描くことができない。

「八木沢くんの傍にいたかったんだよねー……」

 推しを推せる時間は、無限じゃない。
 推しを推すことのできる時間には、限りがある。
 だから、俺は八木沢嶺矢に近づくための選択を選んだ。

「八木沢くんが生きる世界(芸能界)に少しでも触れることができたら、八木沢くんが学校に来れない日も……その、なんだろう。疑似体験? 八木沢くんも頑張ってんだから、俺も部活頑張ろうみたいな……」

 自分で何を言っているのか分からなくなって困り果てたところで、八木沢くんは俺のことを見捨てたりしない。
 真っすぐな視線を俺に向け続けてくれて、俺の話を最後まで聞こうとしてくれる優しさが嬉しい。

(こんなに優しくされたら、もっと好きになっちゃうんだって……)

 たかが一同級生の話なんて聞き流してくれてもいいのに、八木沢くんは熱心に耳を傾けてくれる。熱い眼差しを向けてくれる。
 そんな特別を与えてくれるから、自分の中の好きって感情が膨れ上がっていくのを感じてしまう。

「俺と(しゅう)、似てるかも」
「いやいや、似てない! 似てない! なんかもう、全部が真逆だって!」

 呼吸が浅くなって、思わず変な声が飛び出してしまった。

「俺も、芸能界を支えてくれている裏方について……部を通して少しでも知りたいと思って、放送部を希望した」

 体験入部のとき、自分よりも先に放送部の部室を訪れていた八木沢くんのことを思い出す。

「志望理由に辿り着くまでの過程は違っても、志望理由が同じになるって、凄いことだと思った」

 八木沢くんが嬉しそうな顔を浮かべながら、俺と目を合わせてくれた。
 見つめ合うって言葉が相応しい状況に照れて、呼吸が苦しくなるのを感じる。

「自分と似たような気持ちを持ってる柊のこと、やっぱ支えたい」

 八木沢くんから向けられる視線があまりにも真っすぐすぎて、自分の口に運ぼうと思っていたご飯はとうとう箸から零れ落ちて弁当箱の中へと戻っていった。

「喋りが得意じゃないのは、先輩も顧問も知ってる」
「……うん」
「だから、無理する必要ない」

 両手に、力が宿ってくる。

「お昼の放送は曲紹介をやめて、音楽を流すだけでもいい」
「……だね」
「新入生の中から、喋りが得意な人を探してもいい」
「……うん」

 ご飯を食べるのをやめる。
 食べるのをやめたっていうか、胸がいっぱいで食事も摂れなくなってしまったというか。

「やり方ならいくらでもあるから」
「……うん、ありがとう」
「一緒に考えよう。放送部をどうしていきたいか」

 八木沢くんの言葉を受けて、机に伏せる。

(しゅう)!?」
「嬉しすぎる……」
「何が……」

 でも、ここは顔を伏せている場合じゃない。
 しっかりと顔を上げて、喜びの表情を見せたいって思った。

「八木沢くんと同じ高校に通って、同じ部活に入ったことが」

 俺が笑顔を浮かべられるようになると、八木沢くんの表情は安堵の気持ちを抱いてくれたように映る。
 そんな八木沢くんの表情を見て、心に安心という感情が芽生えてきた。
(好きな人のために、何ができるのか)

 慣れない朝食作りに、体が追いつかない。
 また母親に注意されそうなくらい瞼は重いけど、今度こそ無理はしないって約束をした上での朝食作り。

(何もできないって諦めたくないんだよなー……)

 できることから、始めてみようとは思った。
 できるときは自分で作る。
 できないときは、ちゃんと母さんを頼る。
 そういう、家族を頼るってやり方を覚えようと思った。

「お母さん、お弁当完成したから。あとは任せるね」
「はーい」

 朝の光がまだ薄暗い時間帯に母親と一緒に起きたはずなのに、母親の手際の良さに敵うはずもなく。
 眠気が重くのしかかってくる俺に対して、母さんは家族のための昼食の準備を終えてリビングを去っていく。

(くっそー……)

 学校の授業でやる調理実習すら、いい思い出がない。
 それだけ料理と無縁だった自分が料理を始めるなんて、それこそ無謀な話。
 でも、いつまでも料理できないって諦めてたら、上手くなるものも上手くならない。
 眠気に負けないように、愛情を込めて作る朝食を準備しようと気合を入れる。

「はよ……」
「おはよう!」

 毎日の朝食作りをしてくれている母親がリビングにいなくて、八木沢くんは困惑していると思う。

「無理に早起きしたわけじゃないよ。朝早くに学校に行って、勉強始めようと思って」

 本当は、八木沢くんと一緒に朝食を食べるため。
 八木沢くんと一緒に過ごす唯一の時間を、大切にしていきたいと思ったから。

「今日の朝食は、納豆雑炊」

 テーブルの上には、いつも通り何種類かの小鉢を用意。
 朝だから、そんなに品数が多いわけではない。
 それでも、魚の唐揚げ・こんにゃくの炒め物・かぼちゃサラダという三品の小鉢が揃うだけで一気に朝食が華やかになる。

「結構、腹持ちよくて、おすすめ」
「ありがと」

 八木沢くんが、食事の席に着く。

「八木沢くんは好き嫌いがないって聞いてるけど」
「うん」
「味の好みは教えて」
「俺の好みなんて聞いてたら、料理が続かなくなる」

 八木沢くん言葉を受けて、料理に対するやる気が失せると思ったら大間違い。
 彼は声も表情も柔らかくて、俺のことを考えてくれてるんだなってことが凄くよく伝わってくるから耳を傾けたくなってしまう。

「八木沢くんの好みを聞くのは、面倒でも苦労でもないよ」

 今日も、いただきますの声が重なる。
 食事を始めるときの挨拶は一斉にって約束しているわけでもなく、自然と一緒に重なる声が嬉しいって思う。

「朝から揚げ物かよって、重たく感じるかもしれないけど」

 魚の唐揚げを口にしようと、箸を運ぶ。

「雑炊の添え物に合うから好きなんだよね」

 八木沢くんにも朝食を食べ進めてほしくて、俺の話は聞き流していいよって合図を送る。
 すると、八木沢くんも俺と同じ魚の唐揚げを一口目に選んでくれた。

「あ」
「重たい?」
「え、箸が止まらなくなるかも」
「あ、良かった」

 八木沢くんの表情が寝起きの顔から、口にしている唐揚げが美味しいって顔に変わっていく。

「本当は、揚げたてが一番美味しいんだけどね」

 揚げたてのサクサク感が失われてしまった唐揚げは、油が少し重たく感じてしまう。
 申し訳なさそうな表情を浮かべる俺に対して、八木沢くんは一口食べるたびに『美味しい』と言葉を返してくれるから凄いと思う。

他人(ひと)の喜ばせ方、知ってるんだもんなぁ)

 同い年のはずなのに、八木沢くんだけはずっと大人っぽい。
 その大人っぽい雰囲気は幼い頃から芸能界で働いていることとか、お母さんと二人で暮らしてきたってこともあるのかもしれないけど、あまりにもずっと大人っぽいを貫くから、ときどき心配になる。

(しゅう)?」
「八木沢くんは気遣いやさんだなーって思ってたところ」

 母親が初めて納豆入りの雑炊を作ってくれたときは、母親は一体何を完成させてしまったのかってって抵抗があった。
「この納豆雑炊とか、抵抗ない?」
「これ?」
「そう! 好き嫌いはなくても、八木沢くん、無理に口の中に入れちゃいそうだから」

 でも、美味しくなさそうっていうのは先入観でしかなかった。
 独特な風味と食感が楽しめるところが癖になってしまって、八木沢くんの朝食になってしまうくらい俺は好んでいる。

「一応、納豆は好きなんだけど……」

 八木沢くんは恐る恐るではなく、何も抵抗感を見せずに雑炊を口に運んでいく。
 これがプロの役者かって戸惑っているうちに、八木沢くんの口角がほんの少し上を向いたことを俺は見逃さなかった。

「うまっ」
「よしっ! ありがと、八木沢くん」

 俳優八木沢嶺矢(やぎさわみねや)として活動するときは爽やかな笑顔を浮かべる八木沢くんだけど、普段はあんまり笑う人じゃない。
 だから、こういう些細な変化に気づけるってことが何よりも嬉しいと思った。

「この納豆の粘り気と雑炊の柔らかさが堪らないんだよねー」
「雑炊の出汁の風味と相まって、なんて言うんだろ……なんか、全部がまとまってて美味いなって」

 どうしても納豆の香りが強くなってしまうから、納豆嫌いの人には厳しい料理かもしれない。
 初めての人には少しどころか大きな挑戦になるかもしれないけど、八木沢くんはその挑戦すらも楽しんでくれた。

「このネギとか海苔も、いいアクセント」
「あー、八木沢くん褒め上手! やばい、うれしい!
「喜びすぎだって……」

 自然と笑みが広がる食卓なんて最高じゃんと思いながら、俺たちは学校に向かうための英気を養っていく。

「この料理は塩辛すぎるとか、甘すぎるとか、味覚の不快感は必ず教えて」
「大丈夫だよ」

 ゆっくり微笑んで、感謝の気持ちを伝えてくる八木沢くん。
 そんな彼を見ているだけで、緊張しっぱなしの体に安らぎの感情が届き始める。

「必ず覚えるから。八木沢くんの好みは必ず!」
「そんなに意気込まなくても……あー、でも……」

 今日の天気の話とか、このあと何気ない話が広がっていくという予感に心臓が高鳴る。

「ありがとう、(しゅう)
「食べよっ」

 八木沢くんと同居するのは、高校を卒業するまでの三年間という期間限定。
 その三年間の中で、俺は八木沢くんとの距離を縮めたい。

「未成年だけど、食事に連れて行ってもらうことがあって」

 八木沢くんは適切な言葉を探しながら、芸能界のことを知らない俺にも分かりやすく話しかけてくれる。

「もちろん楽しいし、嬉しい」

 人を不快にさせない笑顔が得意な俳優の八木沢嶺矢(やぎさわみねや)ではなく、俺を安心させるために柔らかく笑おうとしてくれる八木沢嶺矢くんと一緒に食事を進めていく。

「その気持ちは本当」
「八木沢くんの顔、すっごく幸せそう。幸せな疲れって感じ」
「でも」

 小学生の頃から変わらない『八木沢』くん呼び。
 縮まらない距離感に寂しさを抱くこともあるけど、それはそれで俺には身分相応なんてことも思ってしまう。

(しゅう)の手料理が食べられることも、俺にとっての幸せ」

 でも、この、八木沢くんが俺に向けてくれる笑顔に応えたい。応えられるようになりたい。
 
「ありがと、早起きしてくれて」

 八木沢くんの気持ちが込められた、ありがとうって言葉に心臓が速まる。

(八木沢くんと一緒にご飯を食べれるって……)

 平然と食事を進めたいって思うけれど、照れたようなにやついた顔を抑えられない。

(一緒に暮らしてる特権なんだ……)

 三年間の最後。
 俺は八木沢くんのことを、名前で呼べるようになりたい。
八木沢(やぎさわ)くんの出演が決まったドラマは……)

 教室の中が賑やかに動き回る中、珍しく自分の思考は本の中に向かっていた。
 いつもは友達と喋って休み時間を終えることが多いけど、今日だけは気合いを入れて文字を追いかける。

(とある高級住宅街を舞台にした殺人事件の話)

 文庫本を読む自分は普段らしくなくて、外見だけならかっこいいとは思う。
 けど、それらはあくまで思い込み。
 実際の自分は知的でもなんでもないことに溜め息が溢れそうになるけど、物語の中の没頭しようと意識を集中させる。

(八木沢くんが演じる役は、高級住宅街に住む越智一家の長男)

 父、母、弟、長男の四人家族。
 親は再婚同士で、弟とは血が繋がっていない。

(その弟さんと恋に落ちるって展開……)

 なんでミステリー作品なのに、弟との禁断の恋愛関係が描かれるのか意味が分からなくて溜め息が溢れる。

築島(つきしま)ー」

 二つ後ろの席に座るのは、昔からの付き合いがある築島(つきしま)
 築島の方を振り向くと、築島は次の授業の予習をしていた。

「ねえ」
「邪魔すんなよ」

 口では邪魔すんなよと言いながらも、俺に呼ばれたことで築島は顔を上げてくれる。

「この本のネタバレできる?」
「自分で読めよ」

 昔から付き合いがあるはずなのに、築島は肩を落として鋭い目つきでクラスメイト()のことを突き放してくる。

「読むよ! もちろん読むけど! なんでミステリーなのに、弟と恋に落ちるのかなって気になるんだよ!」

 自分は世にも珍しいネタバレ大丈夫タイプの人間ということもあって、チャラけているようで実は勉強ができる築島へと助けを求めた。

「結論を言うと、弟が兄に抱いた恋愛感情が事件のきっかけだからだよ」
「ネタバレするなー、梅里(うめさと)ー」

 俺の助けに入ってくれた梅里に向かって、築島から教科書が投げ飛ばされてくる。
 教科書を上手く避けて、落ちた教科書を拾い上げる梅里。

「犯人は言ってないんだから、それくらい許してよ」
「ねー、築島くんは心が狭すぎると思うよっ」

 梅里と二人で協力して築島と応戦しようとすると、別の教科書が俺の席を目がけて投げ飛ばされてくる。

「教科書は投げるものじゃないよ、一輝(かずき)くん」
「投げつけたくなるような言動をする方が悪いだろ」

 不当な扱いを受けた教科書を受けた教科書に同情するような表情を浮かべる梅里は、拾い上げた二冊を築島の元へと持っていく。

(しゅう)も、読書するんだな」

 梅里が築島に教科書を返しに行っている間に、新たな登場人物が教室に入ってきた。
 小学生の頃からの付き合いでもあり、今は隣のクラスに在籍している西ノ宮(にしのみや)が俺に声をかけてくることで久しぶりの再会を果たす。

西ノ宮(にしのみや)! 久しぶりっ」
「っていっても、俺、隣のクラスにいるんだけど」

 オタク感のある眼鏡ではなく、おしゃれを意識した眼鏡をかけている西ノ宮。
 アニメには微塵も興味ありませんって外見をしているのに、中身は立派なアニメオタクで梅里と西ノ宮は仲がいい。

「俺が読書なんて、らしくないよね」
「んなこと気にすんなって」

 たいして身長が伸びなかった自分に対して、周囲は恐ろしいくらい身長を伸ばしていくところが恐ろしい。
 築島に負けず劣らずの高身長を誇るオタク()は、俺の肩をポンと叩く。

「その作品、アニメもやるんだよ」
「へえ、力が入ってんだね」
 
 眉をひそめながら、明らかに落ち込んでますよという態度を見せてくる西ノ宮。

(みね)の弟役をやる声優が、ドラマでも弟役をやるという……」

 自分から話題を振っておきながら、西ノ宮は一人で勝手に肩を落としていく。
 でも、肩を落としたいのは西ノ宮だけじゃない。

「今から、嶺とキスシーンがあるかと思うと……」
「西ノ宮のファン心は否定しない」

 後方の席から、築島の声が飛んでくる。

「でも、俳優にキスシーンにあれこれ言うところは気持ち悪い」

 西ノ宮の繊細な気持ちを否定する築島に対抗するため、俺は西ノ宮の味方をすることを決める。

「西ノ宮、俺も同じ」
「…………ん?」

 人を応援する気持ちの何が悪い。
 西宮は声優オタクで、推している相手は別でも推しへの愛を理解し合える同士だと思ってる。

「俺だって、八木沢くんにキスシーンがあるとか考えたくないから!」

 身を乗り出して、自分の気持ちが西ノ宮に届くようになるべく大きな声を出して援軍に入る。

「……(しゅう)、まだ嶺のこと好きなのか」

 なぜか、風向きが変わろうとしている。
 西ノ宮の応援に入るはずが、なぜか彼は腕組みをしながら瞬きを繰り返す。

「っ、そうだよ! 大好きだよ! 大ファンだよ!」
「小学生のときで終わったものだと……」
「今も絶賛! 片想い中!」

 小学生から付き合いがあるって、ある意味ではありがたくもあり、ある意味では辛くもある。
 自分で言っておきながら、小学生時代から進歩のない推し心があまりにも虚しくなって下を向く。

「はいはい、落ち着こうかな」
「うーめーさーとー」

 そんな俺の態度を見ていられなくなった梅里は築島のところから戻ってきて、入りすぎた肩の力を解してくれる。
「意外と告白してみたら、上手くいくんじゃないか?」
「僕も、そんな風に思うけどね」

 西ノ宮(にしのみや)梅里(うめさと)の援護を受けるものの、俺が抱いている感情をまるで恋愛感情のような綺麗なものとして表現してくれる二人に違和感。

「……人気急上昇中俳優に恋愛は禁止です」
「事務所の方針?」

 元気を消失していく俺を見かねた西ノ宮は、落ち着いた声で冷静に現状を理解しようと努めてくれる。

「……俺が決めたこと」

 顔を見合わせる西ノ宮と梅里。
 後ろの席に座っている築島の表情だけは分からないけど、みんながみんな俺のことを心配してくれているのはよく分かっている。

「だから、弊社の俳優に手、出さないでね!」

 この場に、俳優の八木沢嶺矢(やぎさわみねや)ファンは自分しかいない。
 八木沢くんに手を出すような人間がこの場にいないことを理解していながらも、この話題を打ち切りたかった俺は適当に話を流す。

「じゃあ、読書に戻るから」

 興味深そうに本を覗き込むフリをしながら、自分と同じグループに属さない八木沢くんにこっそりと視線を向けた。
 でも、黒板近くにいる八木沢くんが、教室の後方にいる俺の視線に気づくことはない。

(これが、当たり前……これが、普通の距離……)

 推しと同じ高校に通っていたって、推しと同じクラスだからって、推しと一緒に暮らしているからって、俺と八木沢くんの距離は少しも縮まることがない。

「はぁ」

 空が茜色から深い黒へと移り変わる直前の時間帯。
 橘高(きだか)先輩と大武(おおたけ)先輩と三人だけの部活動を終え、先輩たちと過ごした緊張感を解放するために大きく深呼吸した。

(八木沢くんと一緒に帰りたかったなぁ)

 高校生にもなると、一緒に帰る相手が見つからなくなることに気づかされる。
 それだけ年齢を重ねるごとに交流関係が広くなっているってことでもあり、これからどんどん年を重ねていくと、同じ方向に帰ってくれる人は完全に消滅してしまうのかって寂しくなる。

(八木沢くん……仕事で頑張ってるんだから、無理に部活誘えないけど)

 少しずつ通い慣れていく予定の道を歩きながら、教室で読んだ本の内容を振り返る。

(これがマンガの世界とかなら、八木沢くんの台本を読む手伝いをするって流れに持ち込むのもいいけど……)

 独りで帰宅していることもあって、さっきから溜め息が止まらない。
 教室では自分の気持ちを受け止めてくれる友人たちがいても、今の自分はたった独り。

(現実は守秘義務の関係で、台本の読み合わせなんてできない……!)

 どこへぶつけたらいいか分からない苛立ちを抱えながら、家へと到着。
 すると、母親が駐車場に停めてある車に乗り込もうとしている姿を目撃する。

「母さん?」

 もうすぐ夕飯の時間だっていうのに、母さんはどこかへと出かける準備をしていた。

「これから、嶺矢くんの実家に行ってくる」
「八木沢くんのお母さんに何かあった……」
「ううん、たまには嶺矢くんの近況報告兼ねて、ご飯食べてこようかなって」
「そっか……」

 八木沢くんが俺の家で同居する前は、お母さんと二人で暮らしていた八木沢くん。

「付いてきたいかもしれないけど、よく我慢したね」

 車に荷物を詰め込みながらも、息子のことを褒めてくれる母。

「本当は……体が弱い八木沢くんのお母さんの力になりたい」

 八木沢くんのお母さんは、体が弱い。
 息子の八木沢くんのために何かしたいと思っても体調が悪くなってしまって、八木沢くんの力になれないことをいつも悔やんでいる優しい人。

「でも、俺がやりたいのは、八木沢くんにご飯を食べてもらうこと。進学するために、ちゃんと勉強すること。部活を頑張ること。この三つ」

 悲観的な思考を捨て去るような強い声で、はっきりと母親に宣言した。

(しゅう)が決めたことだもんね」
「俺は……八木沢くんのお母さんの力にはなれないから」

 だんだんと丸まっていく背中が情けなくもあるけど、俯いていたって事態に変化は起きない。
 だったら顔を上げて、母親をちゃんと送り出したい。

(しゅう)にもパパにもできないことをやるために、お母さんがいるの」

 髪が乱れるほどの強い力で頭を撫でられる。

「嶺矢くんは未成年だから、そう遅くはならないと思うけど……」
「八木沢くんのことなら、俺に任せて」

 自信に溢れた自分なんてらしくないけど、母に心配をかけたくない。
 だから、ちゃんと演じる。
 俺に任せておけば大丈夫ってことを伝えるために、ほんの少しでも上へ口角を上げてみる。

「嶺矢くんのこと、お願いね」
「うん、いってらっしゃい」

 母親が出発するのを見送り、自分の家へと帰宅。
 夕飯で食べる小鉢の中身は用意できているから、あとはメインを考えるだけ。

(今日も父さんは遅いって言ってたな)

 靴を脱いで、家の中に入る。
 その過程で、俺はあることに気づいてしまった。

(今日の夜、八木沢くんと二人きり!?)
「悪い、行儀が悪くて……」
「ここは八木沢くんが三年間過ごす家だよ。自分の家のように、くつろいじゃって」
「ありがと……」

 八木沢くんは帰宅と同時に、リビングにあるソファへと倒れ込んだ。
 自分は授業が終わったら部活動をやって、自分の家に帰宅するっていう日常を送った。
 一方の八木沢くんは授業が終わったあとに仕事に向かって、顔には心地よさそうな疲労感が広がっている。

「今日の八木沢くんも、すっごく幸せそう」
「うん、今日の撮影すごく楽しくて……」

 ソファに倒れ込んだと思ったら、そのまま眠りの世界に向かっていってしまった八木沢くん。
 風邪を引いてしまわないように、ブランケットを体にかける。

「お疲れ様、八木沢くん」

 八木沢くんを起こさないような小さな声で、お疲れ様ですと呟くことができる幸福感。
 八木沢くんの寝顔を見入っていたい気持ちを抑えて、俺はキッチンへと向かう。

(八木沢くんが頑張ってるんだから)

 冷蔵庫を開けて、母さんが下ごしらえをしてくれた食材に手を伸ばす。

(俺も頑張らなきゃ)

 時計の針が進んで、時計の針が午後9時30分を示す頃。
 八木沢くんは、ゆっくりと覚醒した。

(しゅう)……」

 どんなに疲れていても、お腹が空いてしまうのが男子高校生というもの。
 夕飯も食べずに眠りに落ちてしまった八木沢くんは、まだ眠りたいという気持ちと格好しているらしくて、彼の瞼はかなり重そうに見えた。

「仕事から帰ってきたあと、そのまま寝ちゃったんだよ。寒くない?」
「うん……」

 時計の針を確認する八木沢くんは、流れる時間の速さに溜め息を吐いた。
 きっと復習やって、予習をやってっていう彼なりの計画もあったんだろうけど、俺は八木沢くんの体を休ませることを優先した。

「まだ寝る? 起きる? それとも夕飯……」
「食べる一択」
「了解っ」

 両親のいない我が家は静まり返っているけど、八木沢くんと一緒ってだけで家の中が暖かくなっていくのを感じる。
 俺は空腹感が勝った八木沢くんのために、気合いを入れてキッチンへと向かう。

「軽く夜食にする? それともがっつり夕飯……」
「きょうは、がっつり食べたい」
「了解」

 八木沢くんがソファから体を起こし、そのまま台本を読むなり好きな事を始めるのかと思っていたけど……予想外の展開がやって来る。

「原作、買ってくれたんだ」
「あ……」

 八木沢くんが出演する作品の文庫本を片付けることなく、リビングに投げっぱなしだったことを思い出す。

「推しの出演作品をチェックするのは、ファンにとって大事な使命だから」

 途中で、読むのに疲れてしまったとは言い出せず。
 なるべく笑顔を作り込みながら、夕飯を温める作業へと集中する。

「いつもと香りが違う」
「塩味の中華丼だからかな?」

 テーブルの上には、中華丼とたまごスープとタラのあんかけ。
 そして、好きな物を好きなだけ食べられるように小鉢も準備万端。

「いただきます」
「召し上がれ」

 八木沢くんは箸を手に取ると、まずは中華丼を一口運んでいく。

「いつもは醤油とか、オイスターソースメインで作るんだけど、今日は塩味だから……」

 目を見開いた八木沢くんを心配して、なるべく柔らかい声で話しかける。
 食べ慣れていない味に驚いたところを見て、意外と我が家は変わった品を作っているのかと八木沢くんへの配慮が欠けていることに気づかされる。

「あー……もっと早く出会いたかった……」

 でも、次に出てきたのは、否定の言葉じゃなかった。
 この味に、もっと早く出会っていたかったっていう八木沢くんの気持ちが伝わってきて、自然と口角が上がった。

「ははっ、八木沢くんに気に入ってもらえて良かった」

 自分が作る料理に感想を求めているわけではないけど、相手が自分の作ったご飯で喜んでくれる姿に心が弾み始める。

(やばっ……うれしすぎる……)

 喜びを感じすぎている顔を隠すために、両手で顔を覆う。

「あんかけって、体があったまるよね」

 八木沢くんがいつ目覚めるか分からなかったこともあり、八木沢くんを待たずに夕飯を済ませてしまった自分に後悔。
 でも、後悔したところで時間を取り戻すことはできない。

「まあ、夏に向かえば向かうほど、あんかけも煩わしくなっちゃうかもだけど」

 食事中の八木沢くんが言葉を返してくれることはなくなったけど、優しい笑顔を向けて気持ちを伝えてくれる。
 お世辞なんかで着飾ることなく、表情だけで気持ちを伝えてくるところは役者さんだなって思う。

「まだ、そこまで辿り着いてはいないんだけど……」

 八木沢くんが食事を進めている間に、俺は文庫本に手を伸ばして読書を再開しようと意気込む。

「この作品、弟とキスシーンがあるんだってね」

 食事のときにするような話でないとは思っていたら、案の定、八木沢くんは(むせ)てしまった。