「八木沢くん!? ごめん! もっと話題、選ぶべきだった……」
「いや、大丈夫……」

 背中を擦るべきなのかとソファから立ち上がろうとすると、八木沢くんは麦茶を飲んで自ら呼吸を整えた。

「ごめん……」
「いや、別に……」

 俳優の八木沢嶺矢(やぎさわみねや)は決して見せない、素の表情を見ることができた。
 そこに喜びを感じてはいるものの、素の表情を晒すきっかけになったのは自分かと思うと申し訳なくていたたまれなくなる。

「キスシーン……初めてだから緊張してる」

 そんな自分を察してくれたのか、今度は八木沢くんから話題を振ってくれる。

「子役時代の八木沢くんにキスシーンはなかったけど、それって八木沢くんが大きくなったってことでもあるよね」

 感慨深くなってくるくらい俺はずいぶんと長いこと、八木沢嶺矢のファンをやっているんだってことを思い出す。

「八木沢くん……?」

 言葉を返してくれなくなった八木沢くんを心配して、八木沢くんの方を見る。
 すると八木沢くんは、何かに不満を抱いているような面白くなさそうな顔をしていた。

「どうかした……」

 俳優としての表情を整える八木沢くん。
 普段の八木沢くんではなく、俳優としての表情を見せていることに気づく。

「っ」

 特に何か言葉にするわけでもなく、八木沢くんに見つめられる。
 顔が燃えるように熱くなるのに、助けてくれる人は誰もいない。

「八木沢く……」

 助けてほしいって懇願したかったのに、言葉を紡ぐことすら躊躇われた。

「っ」

 さすがに八木沢くん(好きな人)に見つめられるなんて、耐えられるわけがない。
 好きな人の瞳を独占しているっていう羞恥に耐えられなくなった俺は、真っ先に八木沢くんから視線を外した。

「参りました……」

 暑い。
 熱い。
 どっちの意味も、どっちの漢字も、自分に相応しすぎて言葉を失う。

「ははっ、別になんにもしてないのに」

 顔を赤らめて硬直する自分。
 そんな俺の様子を楽しんで、笑顔を浮かべる八木沢くん。

「好きな人に見つめられて、耐えられるわけがないって……」
「こういうとき顔がいいと得だなって思うよ」

 意地悪そうな顔を浮かべながら、思う存分、自分の顔の良さを利用してくる八木沢くん。

「お礼は両親に……あ、今度、八木沢くんのお母さんにドラマの布教に行かないとだね」
「……いや、息子の恋愛ドラマなんて……」

 手にしていた文庫本を、八木沢くんに突きつける。

「これは恋愛ドラマじゃなくて、ミステリー!」

 ボーイズラブを浮かべてしまうような物語の展開だけど、八木沢くんが出演する作品は立派なミステリー小説。

「ミステリーの一環での恋愛シーンなんだから、ドラマを盛り上げるためにキスシーンの一つや二つ……」
「俺にも」

 ダイニングチェアーから立ち上がり、俺が読書しているスペースに近づいてくる八木沢くん。

「八木沢く……」

 八木沢くんの人差し指が、俺の唇をなぞる。

「できないことあるよ」

 八木沢くんの人差し指は、俺の唇に触れたまま。
 自分の唇に、八木沢くんの指先が触れている。

「柊」

 何に満足したのか分からないけど、満足そうに微笑んだ八木沢くんはやっと俺のことを解放してくれた。

(意識してんの、俺ばっか……)

 顔に溜まる熱の逃がし方が分からなくて戸惑うのに、大人な彼は何事もなかったかのように話題をさりげなく変えてくるから狡いって思う。
 こっちはずっと八木沢嶺矢(やぎさわみねや)ファンをやっているのに、推し相手に『好き』って気持ちは今日も届かない。
 推し相手とファンの関係なんて、所詮はそんなもの。

「誕生日、来月だったよなって」

 躊躇うことなく同居人の誕生日を言い当ててくるところが凄すぎて、そこにも感動してしまう。
 でも、緊張で身動きが取れなくなっている自分を救うために、さりげなく話題を変えて気配りしてくれる彼はやっぱり同い年っぽくない。

「え、え、なんで知って……」
「小学生のとき、クラスの子の誕生日、掲示板に張り出してたから」

 八木沢くんが指摘する『小学生のとき』が、いつの出来事なのか。
 俺は、高校生になった今も鮮明に覚えている。

「え、あ、え、俺も! 俺も、あのとき、八木沢くんの誕生日覚えた!」

 あれは小学1年のときの出来事で、クラスのみんなで自己紹介カードみたいなのを書いた。
 それを担任の先生が掲示してくれて、誰と誕生日が近いのかって話で盛り上がっていたことを思い出す。