「はぁ」

 中学の英語の授業は、まだなんとか付いていくことができた。
 でも、高校に入学してからの英語の授業は恐ろしく難しくて溜め息が止まらない。
 早く予習を終わらせて寝なきゃいけないっていうのに、さっきから教科書を捲る手が止まってしまう。

「っ、訳が分からない……」

 自分の部屋で勉強すれば少しは集中できるかもしれないけど、同居人を一番に出迎えたい俺はリビングで勉強中。

(今日は、お夕飯いるのかな……)

 同居人の夕飯事情を心配している自分を余所に、リビングでは母親が大画面のテレビで同居人が出演しているドラマ映像を観ているなんて狡すぎる。

「んんー」

 誘惑に駆られないように、必死にテレビ画面から顔を背けながら体を伸ばす。
 視界に入って来た時計が示す時刻は午後8時40分。
 もうすぐで同居人が帰宅することを示すのがわかると、なぜかそわそわしてしまう自分は相当な重傷者。

「ただいま戻りました」
「あ、仲上(なかがみ)く……」
「お疲れ様です! 仲上さんっ!」

 マネージャーの仲上さんが、所属タレントの八木沢嶺矢(やぎさわみねや)を俺の家まで送り届けてくれた。

「お邪魔します……」

 よそよそしい態度でリビングに入って来る同居人の八木沢(やぎさわ)くん。
 マネージャーの仲上さんは八木沢くんを残して、ほかのタレントを送り届けるためにリビングから出て行った。

「お邪魔しますも何も、自分の実家だと思って甘えなさい」
「それが難しくて……」

 八木沢くんと親しそうに接する母親に、やきもちを焼いたって仕方がないのはわかっている。
 こんなにも同居人と距離を縮めるのが上手い母親に文句を言ったところで、自分のコミュニケーション能力が向上するわけでもない。

「八木沢くん、遠慮しないで」

 英語の教材を放って、俺は八木沢くんの元へと駆けつける。

「いや、でも、こんな夜遅くにクラスメイトの家に帰って来るとか……」

 いつまで経っても遠慮がちな八木沢くん。
 そこが八木沢くんらしいなと感じつつ、同居人が小学生の頃から変わっていないところに感激したりもする。

「夕飯はいる?」
「……軽く」
「手洗いうがいを済ませたら、座って待ってて」

 八木沢くんに夕飯を用意できることが堪らなく嬉しい。
 そんな自分の喜び溢れた笑顔を気持ち悪いと思われてしまったのか、八木沢くんはキッチンで作業する俺を無視して洗面所へと向かってしまう。

「母さん、八木沢くんの夕飯を用意するのは俺の役目!」
「はいはい」

 いつも母さんに家事を任せているけど、八木沢くんと暮らすようになってからはほんの少し料理を手伝えるまでに成長した。

「さっさと部屋、戻って」
「お母さんも八木沢くんを拝みたい」
「明日、目の下に隈ができるよ」

 母親とのバトルの末、勝利したのは俺。
 母親はテレビの電源を切って、おとなしくリビングから去る準備を整え始める。
 
嶺矢(みねや)くんが出て行く前に、料理上達して良かったね」

 去り際に母親がかけてくれた言葉は褒め言葉。
 それなのに、自分の顔はあまり喜んでいないっていうのが自分でも分かってしまう。

(八木沢くんが、出て行く日か……)

 小学生のときから付き合いのある八木沢嶺矢は、現在通っている高校のクラスメイトでもある。
 そんな脆い関係、高校を卒業してしまったら潔く切れてしまうのは分かっている。
 それなのに、自分は八木沢くんのことを崇拝したまま十年という年月を過ごしてしまった。

「おやすみ~」
「おやすみ」

 俳優として活躍する八木沢くんに感謝の気持ちを伝えたくて始めた夕飯作りだけど、高校を卒業したら赤の他人の味なんて忘れてしまう。
 八木沢くんが薄情とかそういうことじゃなくて、赤の他人の手料理なんてたいして記憶に残らない。
 大切な人の味だから、記憶に残ることができるってことを言い聞かせていく。

「八木沢くん、もっともっと売れてくんだろうな……」

 誰もいないリビングに零れる独り言。

「八木沢くんが飛躍できるように、恋愛禁止を徹底……」

 どこのアイドルだよってツッコミが飛んでくるのだって想像できる。
 でも、俺にとっては俳優もアイドルも同じ。
 芸能人は恋愛をしたらダメっていう俺の考えに間違いはないと思っている。