* * *
ウチは薄暗い廊下を走っていた。
「はっ、はっ、はあっ……!」
テニサーに入っているくせに、運動なんてほとんどしない。そのつけが回ってきたのか、すぐに息はあがった。それでも、懸命に足を動かす。
「はっ、はっ……!」
長い廊下を二度ほど曲がり、階段を駆け上がった。
もう嫌だ。もう嫌だもう嫌だもう嫌だ……!
酸素不足になった脳内に、嫌な記憶が浮かび上がる。
――なにこの絵~! ダッサっ!
ウチなんかよりも数段上手い絵を見上げながら、侮蔑の言葉を吐き捨てる。
――ねっ、なんか生意気だからさ、もう破いちゃわない?
誰かがウチにささやきかける。記憶の中のウチはにやりと口の端を吊り上げ、大きく頷いた。
それから椅子を台替わりにして壁に飾られた絵をとると、思いっきり破り捨てる。
――アハハッ!
――キャハハハッ!
――フフフフフフッ!
厚紙を破る音と笑い声が教室に響き、ウチの心はそれはそれは背徳感と愉悦に満ちていた。
「はっ……はっ……はあっ……!」
するとすぐ真横に、彼女がいた。
この絵の持ち主で、ウチなんかよりも数段上の才能を誇る、かつてのライバル。
――一緒に審査員をびっくりさせようね!
かつてそんな約束をした無二の友達が、呆然とした目でウチを見ていた。
――なにしてるの?
彼女が問いかけてくる。
――えーゴミが散らばってたからさ~、掃除してただけ~。ねえ~?
――そうだよ~。
――きったないよねえ~。
ウチらが答える。薄ら笑いをたたえて、蔑む視線を彼女に向ける。
心を支配しているのは、圧倒的な優越感と安心感。ウチはあなたよりも上。その位置づけを明確にするこの構図が、麻薬みたいにウチの思考を麻痺させていった。
――や、やめてっ! その絵は……っ!
――あーこれ、舞ちゃんの絵だったんだ~。
――ごめーん。あたしら、知らなくてさ~。
――ほら~、ここにテープあるから、貼り付けてなよ~。
棚からセロハンテープを取り出すと、ウチのかつての友達は彼女に向かって放り投げた。セロハンテープは弧を描いて彼女の頭に当たると、そのまま床へと落ちていく。
――ウチらはこれから用事あるから。
――じゃあね~。
――バイバーイ~。
高笑いを響かせながら、まだ小学生のウチらは彼女の真横を通り過ぎる。
その横顔にどんな表情が写っているかなんて気にもせずに、一仕事を終えた軽やかな足取りで教室を出た。
「はあっ、はあっ、はあっ……はあっ!」
近くの部屋に駆け込むと、ウチは一目散に机の下へと潜り込んだ。そのまま足を抱えて、目を閉じて、耳を塞ぐ。
もうなにも見たくなかった。なにも聞きたくなかった。
こんなことになるなら、ゼミ合宿になんて来るんじゃなかった。
こんなことになるなら、邑木ゼミになんて入るんじゃなかった。
こんなことになるなら、彼女の誘いなんて無視すればよかった。
それでも、過去の記憶は無慈悲に今のウチを追い詰めていく。
――ねー、今度は筆を隠さない?
――いいねー。ほら、じゃあ透子やっといてよー。
――りょーか~い。
幼い透子がスカートをはためかせてウチらの輪から離れていく。その行き先は、彼女の絵描き道具が置かれている棚だ。
やめて、もうやめて。
透子は筆を二本とると、そのまま教室を出る。しばらくして戻ってきた透子の表情には、にんまりと満足気な笑みがあった。
ごめん、ごめんなさい。
それからさらに時間が経つと、彼女がやってきた。彼女はウチらを一瞥するも無視を決め込み、自分の棚へ歩いていく。が、足はすぐに止まった。ぎゅっとスカートのすそを握る手に力がこもっているのがわかる。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
記憶の中にいるウチらは遠巻きに彼女を眺めていた。震えている彼女は見世物で、当時のウチらにとっては格好の笑いの種だった。
あああああああああっ……!
どす黒い感情に飲み込まれる。誰か助けてと、叫びたくなる。
けれど、誰も助けにはきてくれない。
優はもう信用できない。ウチを裏切って、他の女たちとよろしくやっていたやつなんて、もう視界にすら入れたくない。
透子も信用できない。ずっと仲良くやってきたのに、優と浮気していたなんて。
ゼミの他のみんなも、きっとウチのことを軽蔑しただろう。追いかけてくれたのは知っているけど、ただ単に身近な人が悲惨な目に遭うのを見たくないだけだ。
もう誰も、本当の意味でウチのことを助けてくれはしない。
当然だ。当然の報いだ。どうせなら、いっそこのまま消えてしまおうか。
だっておそらく、『舞を殺したやつ』というのは、ウチのことだろうから……――。
「――春香」
ハッとした。真っ暗だった部屋は、いつの間にか電気がついていて。
「春香、大丈夫?」
ウチがうずくまっている机の傍には、透子がへたり込むようにして座っていた。
「……うっさい。裏切り者」
心に浮かんだ嬉しさを突き放すように、ウチは吐き捨てた。
透子はなにも言わなかった。ただ黙って、ウチの肩に手を置いていた。
その優しさが、ウチの砕け散った心をさらに刺激する。
「だからさあっ、やめろって! どっか行ってよ! なんでいんのよっ!」
今のウチに優しくしないでほしかった。助けを求めているわりに、ウチのボロボロに砕け散った心には優しさを受け入れる余裕はなかった。
手を乱暴に払いのけるも、それでも透子はウチの肩に手を置く。
「なんでもなにも、友達だから。あたしは確かに春香を裏切ったけど、友達だから」
「うっせーよ! ウチはもう透子のこと友達なんて思ってない! 話したくもない! だから」
「そうだよね。そもそも春香は、元からあたしのこと友達だなんて思ってなかったでしょ?」
高ぶったウチの声に被せるように、透子は落ち着いた様子で言った。その内容の意味するところを理解して、思わず「え?」と呆けた声が漏れる。
「メールにも書いてあったけど、あたしは所詮、春香の取り巻き。いじめの実行役で、なにかにつけて汚泥を被る役回り。そうだよね?」
真っ直ぐな透子の視線に、ウチは身動きできずにいた。取り巻き? 汚泥を被る? なにを、いってるの?
「ち、ちが」
「ううん、違わないよ。だってあたしは、その抵抗のために優と浮気したんだから」
ウチの否定の言葉を再び透子の衝撃的な言葉が上塗りした。驚きのあまり絶句する。
「あたし、正直嫌だった。春香とは小学生の時から一緒にいたけど、今の今までずーっと『春香ちゃんといつも一緒にいる女の子』って言われてきた。友達のお母さんからもクラスメイトの男子からも、挙句にはあたしのお母さんからも言われた。どこまで行っても、あたしは春香の友人Aか、下手したら友人Bなんだなって思い知らされた」
透子はそっと俯く。その瞳には涙が浮かんでいる。
「だから、なんとかして春香を出し抜きたかった。そんな時に優から言い寄られて、これは使えると思った。だからあたしは、優と浮気した」
透子の目から、涙が溢れた。それは頬を伝って、絨毯にひとつ、ふたつと染みを作っていく。
「でも、結局あたしは春香にとって替わることなんてできなくて……優が他にも浮気してることもわかったから、別れちゃった。結局あたしは自分自身を殺して、春香の取り巻きでいるほかなかったの」
「とう、こ……」
なんて言えばいいのかわからなかった。
透子がそんなに苦しんでいるなんて知らなかった。
いつも一緒にいるお馴染みの面子で、どうでもいい話を気兼ねなくできる友達。少なくともウチはそう思っていた。
でも、違った。少なくとも透子は、そんなふうに思っていなかった。これだけ一緒にいたのに、まったく気づくことができなかった。
言葉が見つからない。謝るのは認めているみたいで偉そうだし、否定しようにも苦しんでいる透子の気持ちに気づかなかった時点で説得力は皆無だ。
ふと、彼女の顔が思い浮かんだ。
そして、はたと思い至る。
透子が抱いている感情は、かつてウチが味わった感情に似ているのだ。
ウチは彼女のオマケで、引き立て役で、どう足掻いても超えることはできないという、あの絶望に満ちた感情に。
どうやらウチは、自分がされて嫌だったことを無意識に透子に対してしていたらしい。最悪だ。
さらなる自己嫌悪に再び膝へ顔を埋めようとすると、透子はポンと軽く肩をたたいてきた。
「言っとくけど、謝ったり素敵な言葉とか言ったりしないでね。今日をもってあたしは、春香の取り巻きから卒業できるよう頑張るから」
「え?」
「だーかーらー、自他ともに認める友達としていられるよう遠慮しないって意味! これは、その手始め!」
透子は優しくウチのことを抱きしめてきた。柔らかな感触がふわりと私を包み込む。
「浮気のことは許さなくていい。もしあたしがされたら、許せないだろうし。あたしと友達になりたくないなら、ここを出た時に改めてそう言ってほしい。でも、少なくとも今は、何があってもあたしは春香の友達でいるから」
「と、透子……」
おそるおそる透子の背中に手を回す。
温かかった。自然、涙が溢れてくる。
ウチは、静かに泣いた。
正直、まだ透子と優のことは許せない。
ウチが過去にしたことの報いだと言われれば閉口するしかないけれど、それはそれとしてもやはり、許すことができない。
自分勝手だとは思う。どの口が言ってんだと思う。
でも、それでも……簡単に割り切れるほど、受け入れられるほど、ウチの心はできていない。
それから、どのくらい経ったか。
ようやく涙が落ち着いてきて、ウチはおもむろに顔をあげた。
「春香、ひどい顔」
「うるさい、バカ」
見合わせて、ふふっと笑い合う。
笑ってる場合じゃないのに。
少しだけ、心が軽くなっていた。
「さっ、メイク整えたら、みんなところに戻ろう? 嫌かもしれないけどさ」
「うん……そだね」
弱々しく頷き、立ち上がる。
きっと、軽蔑と猜疑の視線をたくさん向けられるだろう。
でも仕方がない。昔のウチは、それだけのことをしたのだ。取り返しのつかないことをしたのだ。
透子のあとについて、まず自室に寄り崩れたメイクを整えた。涙でぐしゃぐしゃになったメイクを直すと、また少し心に余裕が生まれた。
コスメを片付けつつ、考える。
最初のメールに書いてあった、『赤嶺舞を殺したやつ』という言い回し。
この文言を聞いてすぐは、言葉通り舞が焼死体で見つかったあの事件のことを指しているのだと思った。今もあのメールに当てられて犯人捜しをしているが、警察の捜査でもウチらの中から犯人と思しき人は見つからなかったのだから、おそらく犯人はべつにいるはずだ。
となると、『赤嶺舞を殺したやつ』というのはもっと前のことを指している可能性が出てくる。すなわち、舞を自殺未遂に追い込んだウチらのいじめだ。
そのことを自覚した時、ウチはすぐに話の軸を焼死体の事件に合わせようとした。なんとか過去のいじめに話がいかないようにしたかった。でも、その結果がこれだ。最悪のタイミングで、ウチの『罪』が明るみに出てしまった。
「はあ……」
自業自得と言われれば返す言葉もない。それでも、ため息は自然とこぼれてきた。
「ねぇ。春香はさ、あたしらがメールに書いてあった『舞を殺したやつ』だと思う?」
そこで、それまで静かに傍にいてくれた透子が口を開いた。ちょうどウチも考えていたことだけに、思わず身が硬くなる。
「……うん。ウチは、そう思う。やっぱり、崖下で見つかったあの事件の犯人が、ウチらの中にいるとは思えないから」
「……そっ、か」
透子も思うところがあるのか、力ない声で返事をしてきた。無理もない。もしそうなら、ウチらはあの凶器が並べられた『懺悔の部屋』で『罪』を償わなければいけないのだから。
「透子は……彼女とのこと、覚えてる?」
「うん……忘れるはず、ないよ」
「そう、だよね……」
赤嶺舞。
いや、ウチらがいじめをしていた時は、玉城舞だったか。
「ねえ、春香……。今さらだけど、あの時はごめん。あたしが余計なことを言ったせいで、あんなことに……」
「ううん、違うよ。あれは、透子のせいじゃない」
透子は声を震わせて謝罪の言葉を口にしたが、ウチはゆっくりと頭を振った。
そうだ。
あれは、ウチの身勝手な嫉妬が生み出した悲劇だ。
小学校低学年の時、ウチと舞は親友だった。二人とも絵を描くことが好きで、地元にあった小さな絵画教室に通っていた。
――いつか、審査員の人たちがびっくりするような絵を描こうね!
いくつかのコンテストに出して、二人とも佳作に選ばれれば良い方だったころ、ウチらはそんな約束をした。指切りを交わして、そのまま隣に並んで座って、笑いながら絵を描いていた。
ウチらはほとんど毎日一緒に絵を描いていた。同じものを描いてみたり、お互いの似顔絵を描き合いっこしたりなんかもした。あのころが、一番楽しかった。
舞はとても無邪気で明るくて、時には家から持ってきたお菓子を分けてくれた。ウチの親はお菓子とかあまり買ってくれないたちだったので、代わりにウチは家にあった舞が好きそうな漫画や小説なんかを貸していた。そんなふうに絵を描くこと以外にも感性の合っていたウチらは、これからもずっと友達なのだと信じて疑わなかった。
そんな日々が崩れ去ったのは、あるコンテストを境になにか手ごたえを感じたらしい舞が、どんどんと上達していった時からだ。
それまでウチと大差なかった舞の絵は格段に表現力が増し、次のコンテストでは佳作の自己ベストを跳び越えて一気に優秀賞まで上り詰めた。そのコンテストでは、ウチは佳作にすら入らなかった。
その時の衝撃と悔しさといったら、今でも夢に見るくらいだ。それくらいに、ウチは泣いて、泣き喚いて、そして自分よりも遥かにレベルの高い舞の絵を見て、嫉妬に狂った。
まだまだ精神的に未熟だったウチは、それ以来舞のことを避けるようになった。同じ学校の友達や透子が隣でやっていたそろばん教室に通っていたため、自然透子たちとつるむようになった。舞は時節寂しそうにしていたが、どうしても話す気持ちになれなかった。
そんな日々が続き、絵を描くのに嫌気が差し始めていたあの日。透子が、舞の机から一枚の下書きを見つけてきたのだ。
――これさ、春香の絵じゃない?
画用紙に描かれた絵は、確かにウチが少し前に描いたものだった。けれど筆致はウチの比じゃなく、実に鮮やかで繊細だった。紛れもなく、舞の手によって描かれたものだった。
どうして舞がこの絵を描いたのかはわからない。しっかりその理由を本人に訊いておけばよかったと、今となっては思う。
けれど、その時のウチにとってその絵は相当にショックだった。これが歴然たる実力の差なのだと突き付けられた気分だった。悔しさと情けなさからウチは泣いてしまい、これはウチの絵を見て舞が描いたものだと二人に話した。
――え、てことは、もしかしてパクリ?
――うわ、サイテー。舞のやつ、ちょっと絵が上手くなったからって天狗になってんじゃないのー?
二人は自分のことのように怒り、ウチを慰め、そして舞のことを罵倒した。
耳を塞ぎたくなるような悪口の数々だったのに、その時のウチの心に芽生えたのはどうしようもない嬉しさだった。
舞じゃなくて、ウチのことを見てくれている。
その居心地の良さに、ウチはどうしようもなくハマってしまった。
あの日を境に、ウチらは舞をいじめるようになった。
筆を盗った。靴を隠した。机に落書きをした。わざと転ばした。ジュースを奢らせた。三人で悪口を浴びせた。悪戯を働いて舞のせいにした。泣いている舞を嘲り笑った。笑った。笑った。笑い倒した。
最初、心は確かに痛かった。痛かったはずなのに、いじめを繰り返していくうちにその痛みは麻痺していった。代わりに湧き上がる優越感に浸り、安心感に溺れ、ついにウチらは取り返しのつかないいじめをした。
舞が次のコンテスト用に描いていた絵を、完成直前まで待ってから破り捨てたのだ。
――……ぇ。
消え入るような、舞の声。
涙すら忘れて、表情が消えた舞の顔。
呆然と立ち尽くすその姿を、ウチらは嘲笑を浮かべて眺めていた。
そして彼女は……突然奇声を発して、二階だった絵画教室の窓から飛び降りた。ウチらは怖くなって、あろうことか逃げた。
幸いにも、舞を迎えにきた兄が倒れているところを見かけてすぐに救急車を呼んだため、彼女は一命を取り留めた。けれど、舞は利き腕を折っていた。当然絵なんて描けるはずもなく、それから間もなくして絵画教室を辞めていった。
ウチの醜い嫉妬が、舞を絶望に向かわせた。激しく後悔した。けれど、すべてが遅すぎた。小学校が違ったことや、恐怖が常に心を支配していたこともあり、ウチは結局謝ることができなかった。それで、ウチらの関係は終わった……はずだった。
なんの縁か、舞と大学で再会したのだ。
最初はわからなかった。名字は玉城から赤嶺に変わっていたし、大学生ともなれば見た目がかなり違っていたから。
そしてウチもかなり見た目は変わっていたから、もしかしたら舞もわからなかったのかもしれない。
――赤嶺舞です! どんくさいところがあるけど、仲良くしてくださいっ!
必修科目の授業で同じグループになり、そこからたまに話すようになって、いつの間にか仲良くなっていった。社会心理学にふたりとも興味があり、ウチは舞に誘われて邑木ゼミに入ることにした。ウチから透子にも声をかけて、三人で邑木ゼミに入った。
それから、間もなくのことだった。舞が、焼死体となって崖下で見つかったのは。
驚きはそれに留まらなかった。舞の遺体の近くにあった保険証が「玉城舞」の名前だったと知った時は、衝撃と昔の記憶が同時に襲ってきて、ウチはトイレで吐いた。
あの日のことは、今でも夢に見る。
忘れたくても忘れられない、忘れちゃいけない記憶。
ウチが一生をかけて背負うべき、十字架だ――。
「――か? 春香!?」
「……あ」
唐突に肩をゆすられ、ウチは我に返った。
「大丈夫? 汗すごいけど」
「あ、うん……大丈夫」
うるさく跳ねる心臓を、何度か深呼吸をして落ち着ける。いつの間にか、白昼夢のように昔を思い出していたらしい。
「……ごめん。あたしが、メールのことを訊いちゃったから」
「あはは、それも違うよ。これはやっぱり、ウチが償うべき『罪』なんだよ」
「春香……」
悲しそうに眉を下げる透子に、ウチは空元気を出して笑いかけた。
「心配しないで。ほんと、ちょうどいい機会だからさー。ここだけは、メールの送り主に感謝しないとね」
ウチは机に広げた残りのコスメをポーチに入れていく。
覚悟は決まった。自分のため、そしてみんなのためにも、ウチはウチなりのやり方でしっかりとけじめをつけるのだ。
「……っ、春香、聞いて」
すると、そこで透子はやや迷うような素振りを見せてから唐突に口を開いた。ウチは驚いて透子のほうを見る。
「え、どしたの?」
「春香、これはあくまでもあたしの仮説なんだけど……あたしは、あのメールの送り主に協力している人、あるいは送り主本人が、あたしらの中にいると思ってるの」
「なっ!?」
想像の斜め上をいく衝撃の言葉に、ウチはアイシャドウを取り落とした。どういうことだろうか。
「優とあたしがキスしてる写真……あったでしょ? あれ、駅前じゃなくて高校の空き教室だったんだ」
「空き教室?」
「うん……。それが合成されてた。背景とか服とか。その服なんだけど、あたしズボラだからさ、曜日でローテしてたんだ。あの服はちょうどゼミに入り立ての頃に買って、いつもゼミがあるときに着てる服に似てるの」
「あ……つまり、無意識のうちにゼミで見慣れてる服を、合成した?」
「うん、ただ確証はない。でももしそうなら、『懺悔の部屋で罪を償う』なんて方法じゃなくて、べつの方法で罪を償おうよ。あたしは、やっぱり春香とこれからも一緒にいたいよ」
「透子……」
ぽろぽろと涙を流す透子に、ちくりと心が痛む。
せっかく固めた覚悟が揺れる。
また、迷いが生まれてくる。
どうしたら……。
ウチは、どうしたらいいんだろうか……?
「だから、春香。お願い。なんとかそのメールの送り主に関する人を見つけて、まずは説得」
「――なんだとぉっっ!?」
その時、透子の続きを聞く間もなく部屋の外から物凄い大声が轟いた。反射的にびくりと肩が跳ね上がった。
何事かとすぐに部屋を飛び出す。
大声で言い合う声が下の階から響いてきて、取るものもとりあえずすぐに一階へと向かった。
「それ、どういうことだよ!?」
「言葉通りだ。これは非常にマズいことになった」
階段を下りてすぐの部屋、『懺悔の部屋』の前にみんなが集まっていた。言い合っているのは優と大輔で、二人ともかなり青ざめている。
「どうしたの、二人とも!?」
「な、なにがあったの?」
「あ、春香! 透子も!」
「良かった、無事で」
ウチらが顔を見せると、二人は一瞬ホッとした表情を浮かべてくれた。が、すぐに雲行きのあやしいものに戻ってしまった。
いったい、なにが……?
息を呑むウチらに、大輔はためらいつつも言葉を続けた。
「消えたんだ。この部屋に置いてあった、拳銃が――」
*
大輔に促され、ウチらはひとまず広間に戻った。外は相変わらず荒れており、雷が時折りペンションを震わせている。
もっとも、広間に漂う雰囲気が重いのはそれが原因ではなかった。
「みんな。知っての通り、懺悔の部屋に置いてあった拳銃がなくなった」
広間でみんなが思い思いの場所に腰を落ち着けてから、大輔はよく通る声で言った。
「悪いが芽衣、拳銃がなくなっているのに気づいた時のことをもう一度教えてくれるか?」
大輔の発言を受けて、ここまでずっと物静かだった芽衣がゆっくりと立ち上がる。舞とよく似た小柄な身体を抱えるようにして、芽衣はポツポツと話し始めた。
「えと……私も、真斗と一緒に春香を探してたの。それで、真斗が裏口付近を見てくるって言った時に、私、たまたまあの部屋のドアが開いてるのに気づいて……真斗に言って、二人で中をのぞいたら、消えてるのに気づいた」
「なるほどな。真斗、合ってるか?」
「うん、合ってる。僕は念のため春香が外に出てないか確認してて、その時に芽衣から『懺悔の部屋のドアが開いてる』って言われたんだ」
「その時の部屋の様子は?」
「確かにドアが開いてて、真っ暗だったよ。物音とかはしなかったな。もしかしたら春香が逃げ込んだのかもとも思って、電気をつけて中をのぞいたんだ」
「それで、拳銃がなくなってるのに気づいた、と?」
「うん。凶器は変わらずたくさんあったけど、拳銃は特に印象に残ってたから。だから、なくなってるのに気づいた時は、背筋が凍った」
ぶるりと真斗は身を震わせた。横にいる芽衣も自身の身体を抱くようにして俯いている。
無理もない。ウチだってそんな状況を目の当たりにすれば、きっと恐怖に身がすくんでしまう。今だって、「その可能性」に思い至って手の震えが止まらない。
「……ということだが、念のため訊くぞ。正直に言ってほしい。この中に、拳銃を持ち出した人はいるか?」
大輔の声が広間に響く。名乗り出る人は、いない。
「……いないか? 今なら責めることはしない。こんな状況になって、自分の身を守るために持っていたくなる気持ちもわかるからな。ただ、危険な武器を隠して持っていることは他のみんなに恐怖を呼び込む。それは好ましいとは言えない。だからもし、持っている人がいるなら……今、正直に手を挙げてくれ」
沈黙が降りる。
雷の音ばかりが鳴り、大輔に続いて声を発する者も手をあげる者もいない。
つまり、みんなのことを信じるのならば、ここに拳銃を隠して持っている人は……いない。
「っ! おいっ! マジでいるなら名乗り出てくれ! ほんとにいないのか!? いないで、ここにいる誰も銃なんて持ち出していないってことでいいんだよな!?」
そこで、優が堪えきれなくなったように叫んだ。すぐさま、大輔がなだめにかかる。
「おい、優。落ち着け」
「でもよ!」
「気持ちはわかるが、ダメだ。ここでみんなを疑うのは、ダメだ」
みんなを疑うのは、ダメ。
その通りだと、思う。
この極限状態を乗り越えるには、可能な限りみんなで協力して、助け合わないといけないから。
頭ではわかっている。わかってはいるのだ。
でも……恐怖が邪魔をする。
「……っ、じゃあっ! 今から、持ち物検査と身体検査をしよう! そしたら誰も持ってないってことが証明されるだろ!」
「いや、それはそうだが……」
「んだよ、大輔! オレの言ったことは間違ってないだろーが! それともなにか? お前には検査されるとまずいことでもあるっていうのかよっ!」
「違う。落ち着け。確かにお前の言うことは間違ってはない。だが、検査をするということは一度みんなを疑うことになる」
「仕方ないだろ! それにオレは疑ってるからじゃねー。みんなのことを信じてるから、信じたいから検査をしたいんだ!」
優が真っ直ぐに大輔を見据える。こういう時、優は素直だ。あの瞳に、ウチは何度見惚れただろうか。
そして何度……騙されていたんだろうか。
「……ウチも、持ち物検査とかはしたほうがいいと思う」
「春香!?」
やや迷いながらも口にした言葉に、みんなが驚いた顔でウチを見た。
「正直、みんなはもうウチのことを信じられなくなっていると思う。舞を車で轢いたりなんかしてないけど、あんなメールが送られてきたら、疑われて当然だし仕方ないと思う。事実、ウチはそれだけのことをしたから」
怯みそうになる。でも、言葉は止めない。
「だから、少しでも信頼が回復できる手段があるなら、ウチは協力する。それに、あんなことがあった後になくなったんだから、一番怪しいのはウチだろうし。なんなら、検査をするのはウチだけでもいい」
「春香……」
透子が手を握ってくれた。そこで初めて、自分が震えていることに気づく。
「……みんなの検査をするかどうかは別として、ウチのことは検査してほしい。少なくともみんなに危害を加えようとか、そんな意思はないってことがわかると思うから。あと、みんなごめん。そして、探してくれて、心配してくれて、ありがとう」
ウチは頭を下げた。なるべく気持ちが伝わるように、信じてくれるように、精一杯頭を下げた。一番謝らなければいけない人には謝れなかったのに。どこまでも身勝手な自分がまた少し嫌いになったけれど、それでも頭を下げずにはいられなかった。
静寂が広間に満ちていく。怖い。次にかけられる言葉が、とても怖い。
でも、どんな罵倒も非難も甘んじて受け入れる。それがきっと、今のウチにできるすべてだから。
「……ったく。ほんと春香は相変わらずだな」
静寂が破られた。この声は、優だ。
「みんな、ごめん。よくよく考えたら、オレがみんなを疑う筋合いなかったよな。あんなことしておいてさ。だから、さっきのみんなへの検査云々の言葉は撤回する。そして春香同様、オレのことも検査してくれ。オレも、過去を知られたからみんなを傷つけようとか、思ってないから」
思いがけない優の言葉に、床を見つめたまま目を見張る。
「あたしも……検査してほしい。優と浮気したのも事実だし、春香と一緒にいじめをしていたのもあたしなの。見方によっては、二人に関係してるあたしが一番あやしく見えるから。だからあたしも検査して、少なくとも銃については無実だって証明したい」
隣からは、透子の声も聞こえた。そしてウチと同じように頭を下げる。
なぜか、泣きそうになった。
せっかくメイクを直したばかりなのに。
涙を流す資格なんて、ないのに……。
「あーもう、わかった、わかったよ」
暫しの沈黙ののち、根負けしたように呆れた大輔の声が聞こえた。
「とりあえず、三人の持ち物は検査しよう。他のみんなは任意で検査する、ということでいいか?」
「ああ、もちろん!」
大輔の提案に優は再び頭を下げ、真斗や芽衣、正一も次々に頷いてくれた。
あれほどまでに殺伐としていた雰囲気が緩み、和やかな空気が漂い始めた、その時だった。
「っ!?」
そこにいる誰もが、びくりと身体を強張らせた。
正一の後ろ、備え付けのパソコンが、メールの受信を知らせたのだ。
――させないよ。
絶妙なタイミング。
まるで、関係の修復を阻止されているようかのようだ。
見たくはない。
誰もが顔を見合わせる。
けれど、先ほどのメールには、『受信したメールはすぐに開封し中身を確認するように』と書かれていた。『指示に従わない場合、命の保証はしかねる』とも。
メールの送り主は、あれほどの凶器を用意できるやつだ。見ない場合、何かあるのは確実だった。
「開く、ぞ……?」
正一はおもむろに立ち上がると、ゆっくりパソコンを操作し始める。こうなれば、見ないわけにはいかない。今度は誰の、どんな本性が書かれているのか。ウチらはもう一度顔を見合わせ、誰ともなくパソコンの近くへ集まった。
『黒木大輔は、詐欺師。
少年詐欺グループの主犯格のひとり。
被害者の中には家庭崩壊し、命を落とした者もいる。
そのひとりは、赤嶺舞の母親だ。』
「なっ――」
誰かの、驚嘆に満ちた声が聞こえた。
メールには、とある週刊誌の記事の画像が貼られていた。見出しにはでかでかと、「世間を震撼させた少年詐欺グループのメンバーの謎に迫る!』と銘打たれている。
誰も、言葉を発せなかった。
無言で、ほとんど無意識に記事に目を通す時間が流れた。
なんでも、今から約十年前に某有名配信者をリーダーとした三人の少年グループが子どものいる家庭をターゲットに詐欺を働いていたらしい。リーダーとAさんがターゲットの絞り込みと実行をし、頭の切れるKさんが計画の立案や具体的な準備をしていたと書かれている。ターゲットとされた家庭もまさか子どもが詐欺をしているなんて思いもせず、結果として被害額は数千万円にも昇ったとのことだった。しかも、「子ども」という大勢の共感や同情につけ込んだ巧妙かつ陰湿な手口により、家庭崩壊や人間不信になった被害者も多く、精神的に病んで自殺した人もいるらしい。
読めば読むほど、その悪辣な内容に吐き気がしてくる。
しかも、もしこの記事に書かれていることが事実ならば、これまでずっと邑木ゼミをとりまとめ、先生も含めたゼミ生全員からの信頼を得ていた彼が、そのひとりということになる。
そんなの、信じたくない……。
「…………へぇ。まさかここでバラしてくるとはね」
怖くて彼のほうを見れないでいると、雷と雨音ばかりの室内に低い声が響いた。間違いなく、大輔だ。
「バレたなら仕方ない。その前提で話すまでだな」
大輔はパソコン前に集まっているウチらから少し距離をとると、さらに低い声で言った。
「さーて、それじゃあ再開しようか。誰が『赤嶺舞を殺したやつ』なのか、の議論を」
また心臓が縮み上がった。
大輔の目は、これまで見たことがないほどに鋭く、怖さが増していた。
雷雨はまだ、収まりそうになかった。
ウチは薄暗い廊下を走っていた。
「はっ、はっ、はあっ……!」
テニサーに入っているくせに、運動なんてほとんどしない。そのつけが回ってきたのか、すぐに息はあがった。それでも、懸命に足を動かす。
「はっ、はっ……!」
長い廊下を二度ほど曲がり、階段を駆け上がった。
もう嫌だ。もう嫌だもう嫌だもう嫌だ……!
酸素不足になった脳内に、嫌な記憶が浮かび上がる。
――なにこの絵~! ダッサっ!
ウチなんかよりも数段上手い絵を見上げながら、侮蔑の言葉を吐き捨てる。
――ねっ、なんか生意気だからさ、もう破いちゃわない?
誰かがウチにささやきかける。記憶の中のウチはにやりと口の端を吊り上げ、大きく頷いた。
それから椅子を台替わりにして壁に飾られた絵をとると、思いっきり破り捨てる。
――アハハッ!
――キャハハハッ!
――フフフフフフッ!
厚紙を破る音と笑い声が教室に響き、ウチの心はそれはそれは背徳感と愉悦に満ちていた。
「はっ……はっ……はあっ……!」
するとすぐ真横に、彼女がいた。
この絵の持ち主で、ウチなんかよりも数段上の才能を誇る、かつてのライバル。
――一緒に審査員をびっくりさせようね!
かつてそんな約束をした無二の友達が、呆然とした目でウチを見ていた。
――なにしてるの?
彼女が問いかけてくる。
――えーゴミが散らばってたからさ~、掃除してただけ~。ねえ~?
――そうだよ~。
――きったないよねえ~。
ウチらが答える。薄ら笑いをたたえて、蔑む視線を彼女に向ける。
心を支配しているのは、圧倒的な優越感と安心感。ウチはあなたよりも上。その位置づけを明確にするこの構図が、麻薬みたいにウチの思考を麻痺させていった。
――や、やめてっ! その絵は……っ!
――あーこれ、舞ちゃんの絵だったんだ~。
――ごめーん。あたしら、知らなくてさ~。
――ほら~、ここにテープあるから、貼り付けてなよ~。
棚からセロハンテープを取り出すと、ウチのかつての友達は彼女に向かって放り投げた。セロハンテープは弧を描いて彼女の頭に当たると、そのまま床へと落ちていく。
――ウチらはこれから用事あるから。
――じゃあね~。
――バイバーイ~。
高笑いを響かせながら、まだ小学生のウチらは彼女の真横を通り過ぎる。
その横顔にどんな表情が写っているかなんて気にもせずに、一仕事を終えた軽やかな足取りで教室を出た。
「はあっ、はあっ、はあっ……はあっ!」
近くの部屋に駆け込むと、ウチは一目散に机の下へと潜り込んだ。そのまま足を抱えて、目を閉じて、耳を塞ぐ。
もうなにも見たくなかった。なにも聞きたくなかった。
こんなことになるなら、ゼミ合宿になんて来るんじゃなかった。
こんなことになるなら、邑木ゼミになんて入るんじゃなかった。
こんなことになるなら、彼女の誘いなんて無視すればよかった。
それでも、過去の記憶は無慈悲に今のウチを追い詰めていく。
――ねー、今度は筆を隠さない?
――いいねー。ほら、じゃあ透子やっといてよー。
――りょーか~い。
幼い透子がスカートをはためかせてウチらの輪から離れていく。その行き先は、彼女の絵描き道具が置かれている棚だ。
やめて、もうやめて。
透子は筆を二本とると、そのまま教室を出る。しばらくして戻ってきた透子の表情には、にんまりと満足気な笑みがあった。
ごめん、ごめんなさい。
それからさらに時間が経つと、彼女がやってきた。彼女はウチらを一瞥するも無視を決め込み、自分の棚へ歩いていく。が、足はすぐに止まった。ぎゅっとスカートのすそを握る手に力がこもっているのがわかる。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
記憶の中にいるウチらは遠巻きに彼女を眺めていた。震えている彼女は見世物で、当時のウチらにとっては格好の笑いの種だった。
あああああああああっ……!
どす黒い感情に飲み込まれる。誰か助けてと、叫びたくなる。
けれど、誰も助けにはきてくれない。
優はもう信用できない。ウチを裏切って、他の女たちとよろしくやっていたやつなんて、もう視界にすら入れたくない。
透子も信用できない。ずっと仲良くやってきたのに、優と浮気していたなんて。
ゼミの他のみんなも、きっとウチのことを軽蔑しただろう。追いかけてくれたのは知っているけど、ただ単に身近な人が悲惨な目に遭うのを見たくないだけだ。
もう誰も、本当の意味でウチのことを助けてくれはしない。
当然だ。当然の報いだ。どうせなら、いっそこのまま消えてしまおうか。
だっておそらく、『舞を殺したやつ』というのは、ウチのことだろうから……――。
「――春香」
ハッとした。真っ暗だった部屋は、いつの間にか電気がついていて。
「春香、大丈夫?」
ウチがうずくまっている机の傍には、透子がへたり込むようにして座っていた。
「……うっさい。裏切り者」
心に浮かんだ嬉しさを突き放すように、ウチは吐き捨てた。
透子はなにも言わなかった。ただ黙って、ウチの肩に手を置いていた。
その優しさが、ウチの砕け散った心をさらに刺激する。
「だからさあっ、やめろって! どっか行ってよ! なんでいんのよっ!」
今のウチに優しくしないでほしかった。助けを求めているわりに、ウチのボロボロに砕け散った心には優しさを受け入れる余裕はなかった。
手を乱暴に払いのけるも、それでも透子はウチの肩に手を置く。
「なんでもなにも、友達だから。あたしは確かに春香を裏切ったけど、友達だから」
「うっせーよ! ウチはもう透子のこと友達なんて思ってない! 話したくもない! だから」
「そうだよね。そもそも春香は、元からあたしのこと友達だなんて思ってなかったでしょ?」
高ぶったウチの声に被せるように、透子は落ち着いた様子で言った。その内容の意味するところを理解して、思わず「え?」と呆けた声が漏れる。
「メールにも書いてあったけど、あたしは所詮、春香の取り巻き。いじめの実行役で、なにかにつけて汚泥を被る役回り。そうだよね?」
真っ直ぐな透子の視線に、ウチは身動きできずにいた。取り巻き? 汚泥を被る? なにを、いってるの?
「ち、ちが」
「ううん、違わないよ。だってあたしは、その抵抗のために優と浮気したんだから」
ウチの否定の言葉を再び透子の衝撃的な言葉が上塗りした。驚きのあまり絶句する。
「あたし、正直嫌だった。春香とは小学生の時から一緒にいたけど、今の今までずーっと『春香ちゃんといつも一緒にいる女の子』って言われてきた。友達のお母さんからもクラスメイトの男子からも、挙句にはあたしのお母さんからも言われた。どこまで行っても、あたしは春香の友人Aか、下手したら友人Bなんだなって思い知らされた」
透子はそっと俯く。その瞳には涙が浮かんでいる。
「だから、なんとかして春香を出し抜きたかった。そんな時に優から言い寄られて、これは使えると思った。だからあたしは、優と浮気した」
透子の目から、涙が溢れた。それは頬を伝って、絨毯にひとつ、ふたつと染みを作っていく。
「でも、結局あたしは春香にとって替わることなんてできなくて……優が他にも浮気してることもわかったから、別れちゃった。結局あたしは自分自身を殺して、春香の取り巻きでいるほかなかったの」
「とう、こ……」
なんて言えばいいのかわからなかった。
透子がそんなに苦しんでいるなんて知らなかった。
いつも一緒にいるお馴染みの面子で、どうでもいい話を気兼ねなくできる友達。少なくともウチはそう思っていた。
でも、違った。少なくとも透子は、そんなふうに思っていなかった。これだけ一緒にいたのに、まったく気づくことができなかった。
言葉が見つからない。謝るのは認めているみたいで偉そうだし、否定しようにも苦しんでいる透子の気持ちに気づかなかった時点で説得力は皆無だ。
ふと、彼女の顔が思い浮かんだ。
そして、はたと思い至る。
透子が抱いている感情は、かつてウチが味わった感情に似ているのだ。
ウチは彼女のオマケで、引き立て役で、どう足掻いても超えることはできないという、あの絶望に満ちた感情に。
どうやらウチは、自分がされて嫌だったことを無意識に透子に対してしていたらしい。最悪だ。
さらなる自己嫌悪に再び膝へ顔を埋めようとすると、透子はポンと軽く肩をたたいてきた。
「言っとくけど、謝ったり素敵な言葉とか言ったりしないでね。今日をもってあたしは、春香の取り巻きから卒業できるよう頑張るから」
「え?」
「だーかーらー、自他ともに認める友達としていられるよう遠慮しないって意味! これは、その手始め!」
透子は優しくウチのことを抱きしめてきた。柔らかな感触がふわりと私を包み込む。
「浮気のことは許さなくていい。もしあたしがされたら、許せないだろうし。あたしと友達になりたくないなら、ここを出た時に改めてそう言ってほしい。でも、少なくとも今は、何があってもあたしは春香の友達でいるから」
「と、透子……」
おそるおそる透子の背中に手を回す。
温かかった。自然、涙が溢れてくる。
ウチは、静かに泣いた。
正直、まだ透子と優のことは許せない。
ウチが過去にしたことの報いだと言われれば閉口するしかないけれど、それはそれとしてもやはり、許すことができない。
自分勝手だとは思う。どの口が言ってんだと思う。
でも、それでも……簡単に割り切れるほど、受け入れられるほど、ウチの心はできていない。
それから、どのくらい経ったか。
ようやく涙が落ち着いてきて、ウチはおもむろに顔をあげた。
「春香、ひどい顔」
「うるさい、バカ」
見合わせて、ふふっと笑い合う。
笑ってる場合じゃないのに。
少しだけ、心が軽くなっていた。
「さっ、メイク整えたら、みんなところに戻ろう? 嫌かもしれないけどさ」
「うん……そだね」
弱々しく頷き、立ち上がる。
きっと、軽蔑と猜疑の視線をたくさん向けられるだろう。
でも仕方がない。昔のウチは、それだけのことをしたのだ。取り返しのつかないことをしたのだ。
透子のあとについて、まず自室に寄り崩れたメイクを整えた。涙でぐしゃぐしゃになったメイクを直すと、また少し心に余裕が生まれた。
コスメを片付けつつ、考える。
最初のメールに書いてあった、『赤嶺舞を殺したやつ』という言い回し。
この文言を聞いてすぐは、言葉通り舞が焼死体で見つかったあの事件のことを指しているのだと思った。今もあのメールに当てられて犯人捜しをしているが、警察の捜査でもウチらの中から犯人と思しき人は見つからなかったのだから、おそらく犯人はべつにいるはずだ。
となると、『赤嶺舞を殺したやつ』というのはもっと前のことを指している可能性が出てくる。すなわち、舞を自殺未遂に追い込んだウチらのいじめだ。
そのことを自覚した時、ウチはすぐに話の軸を焼死体の事件に合わせようとした。なんとか過去のいじめに話がいかないようにしたかった。でも、その結果がこれだ。最悪のタイミングで、ウチの『罪』が明るみに出てしまった。
「はあ……」
自業自得と言われれば返す言葉もない。それでも、ため息は自然とこぼれてきた。
「ねぇ。春香はさ、あたしらがメールに書いてあった『舞を殺したやつ』だと思う?」
そこで、それまで静かに傍にいてくれた透子が口を開いた。ちょうどウチも考えていたことだけに、思わず身が硬くなる。
「……うん。ウチは、そう思う。やっぱり、崖下で見つかったあの事件の犯人が、ウチらの中にいるとは思えないから」
「……そっ、か」
透子も思うところがあるのか、力ない声で返事をしてきた。無理もない。もしそうなら、ウチらはあの凶器が並べられた『懺悔の部屋』で『罪』を償わなければいけないのだから。
「透子は……彼女とのこと、覚えてる?」
「うん……忘れるはず、ないよ」
「そう、だよね……」
赤嶺舞。
いや、ウチらがいじめをしていた時は、玉城舞だったか。
「ねえ、春香……。今さらだけど、あの時はごめん。あたしが余計なことを言ったせいで、あんなことに……」
「ううん、違うよ。あれは、透子のせいじゃない」
透子は声を震わせて謝罪の言葉を口にしたが、ウチはゆっくりと頭を振った。
そうだ。
あれは、ウチの身勝手な嫉妬が生み出した悲劇だ。
小学校低学年の時、ウチと舞は親友だった。二人とも絵を描くことが好きで、地元にあった小さな絵画教室に通っていた。
――いつか、審査員の人たちがびっくりするような絵を描こうね!
いくつかのコンテストに出して、二人とも佳作に選ばれれば良い方だったころ、ウチらはそんな約束をした。指切りを交わして、そのまま隣に並んで座って、笑いながら絵を描いていた。
ウチらはほとんど毎日一緒に絵を描いていた。同じものを描いてみたり、お互いの似顔絵を描き合いっこしたりなんかもした。あのころが、一番楽しかった。
舞はとても無邪気で明るくて、時には家から持ってきたお菓子を分けてくれた。ウチの親はお菓子とかあまり買ってくれないたちだったので、代わりにウチは家にあった舞が好きそうな漫画や小説なんかを貸していた。そんなふうに絵を描くこと以外にも感性の合っていたウチらは、これからもずっと友達なのだと信じて疑わなかった。
そんな日々が崩れ去ったのは、あるコンテストを境になにか手ごたえを感じたらしい舞が、どんどんと上達していった時からだ。
それまでウチと大差なかった舞の絵は格段に表現力が増し、次のコンテストでは佳作の自己ベストを跳び越えて一気に優秀賞まで上り詰めた。そのコンテストでは、ウチは佳作にすら入らなかった。
その時の衝撃と悔しさといったら、今でも夢に見るくらいだ。それくらいに、ウチは泣いて、泣き喚いて、そして自分よりも遥かにレベルの高い舞の絵を見て、嫉妬に狂った。
まだまだ精神的に未熟だったウチは、それ以来舞のことを避けるようになった。同じ学校の友達や透子が隣でやっていたそろばん教室に通っていたため、自然透子たちとつるむようになった。舞は時節寂しそうにしていたが、どうしても話す気持ちになれなかった。
そんな日々が続き、絵を描くのに嫌気が差し始めていたあの日。透子が、舞の机から一枚の下書きを見つけてきたのだ。
――これさ、春香の絵じゃない?
画用紙に描かれた絵は、確かにウチが少し前に描いたものだった。けれど筆致はウチの比じゃなく、実に鮮やかで繊細だった。紛れもなく、舞の手によって描かれたものだった。
どうして舞がこの絵を描いたのかはわからない。しっかりその理由を本人に訊いておけばよかったと、今となっては思う。
けれど、その時のウチにとってその絵は相当にショックだった。これが歴然たる実力の差なのだと突き付けられた気分だった。悔しさと情けなさからウチは泣いてしまい、これはウチの絵を見て舞が描いたものだと二人に話した。
――え、てことは、もしかしてパクリ?
――うわ、サイテー。舞のやつ、ちょっと絵が上手くなったからって天狗になってんじゃないのー?
二人は自分のことのように怒り、ウチを慰め、そして舞のことを罵倒した。
耳を塞ぎたくなるような悪口の数々だったのに、その時のウチの心に芽生えたのはどうしようもない嬉しさだった。
舞じゃなくて、ウチのことを見てくれている。
その居心地の良さに、ウチはどうしようもなくハマってしまった。
あの日を境に、ウチらは舞をいじめるようになった。
筆を盗った。靴を隠した。机に落書きをした。わざと転ばした。ジュースを奢らせた。三人で悪口を浴びせた。悪戯を働いて舞のせいにした。泣いている舞を嘲り笑った。笑った。笑った。笑い倒した。
最初、心は確かに痛かった。痛かったはずなのに、いじめを繰り返していくうちにその痛みは麻痺していった。代わりに湧き上がる優越感に浸り、安心感に溺れ、ついにウチらは取り返しのつかないいじめをした。
舞が次のコンテスト用に描いていた絵を、完成直前まで待ってから破り捨てたのだ。
――……ぇ。
消え入るような、舞の声。
涙すら忘れて、表情が消えた舞の顔。
呆然と立ち尽くすその姿を、ウチらは嘲笑を浮かべて眺めていた。
そして彼女は……突然奇声を発して、二階だった絵画教室の窓から飛び降りた。ウチらは怖くなって、あろうことか逃げた。
幸いにも、舞を迎えにきた兄が倒れているところを見かけてすぐに救急車を呼んだため、彼女は一命を取り留めた。けれど、舞は利き腕を折っていた。当然絵なんて描けるはずもなく、それから間もなくして絵画教室を辞めていった。
ウチの醜い嫉妬が、舞を絶望に向かわせた。激しく後悔した。けれど、すべてが遅すぎた。小学校が違ったことや、恐怖が常に心を支配していたこともあり、ウチは結局謝ることができなかった。それで、ウチらの関係は終わった……はずだった。
なんの縁か、舞と大学で再会したのだ。
最初はわからなかった。名字は玉城から赤嶺に変わっていたし、大学生ともなれば見た目がかなり違っていたから。
そしてウチもかなり見た目は変わっていたから、もしかしたら舞もわからなかったのかもしれない。
――赤嶺舞です! どんくさいところがあるけど、仲良くしてくださいっ!
必修科目の授業で同じグループになり、そこからたまに話すようになって、いつの間にか仲良くなっていった。社会心理学にふたりとも興味があり、ウチは舞に誘われて邑木ゼミに入ることにした。ウチから透子にも声をかけて、三人で邑木ゼミに入った。
それから、間もなくのことだった。舞が、焼死体となって崖下で見つかったのは。
驚きはそれに留まらなかった。舞の遺体の近くにあった保険証が「玉城舞」の名前だったと知った時は、衝撃と昔の記憶が同時に襲ってきて、ウチはトイレで吐いた。
あの日のことは、今でも夢に見る。
忘れたくても忘れられない、忘れちゃいけない記憶。
ウチが一生をかけて背負うべき、十字架だ――。
「――か? 春香!?」
「……あ」
唐突に肩をゆすられ、ウチは我に返った。
「大丈夫? 汗すごいけど」
「あ、うん……大丈夫」
うるさく跳ねる心臓を、何度か深呼吸をして落ち着ける。いつの間にか、白昼夢のように昔を思い出していたらしい。
「……ごめん。あたしが、メールのことを訊いちゃったから」
「あはは、それも違うよ。これはやっぱり、ウチが償うべき『罪』なんだよ」
「春香……」
悲しそうに眉を下げる透子に、ウチは空元気を出して笑いかけた。
「心配しないで。ほんと、ちょうどいい機会だからさー。ここだけは、メールの送り主に感謝しないとね」
ウチは机に広げた残りのコスメをポーチに入れていく。
覚悟は決まった。自分のため、そしてみんなのためにも、ウチはウチなりのやり方でしっかりとけじめをつけるのだ。
「……っ、春香、聞いて」
すると、そこで透子はやや迷うような素振りを見せてから唐突に口を開いた。ウチは驚いて透子のほうを見る。
「え、どしたの?」
「春香、これはあくまでもあたしの仮説なんだけど……あたしは、あのメールの送り主に協力している人、あるいは送り主本人が、あたしらの中にいると思ってるの」
「なっ!?」
想像の斜め上をいく衝撃の言葉に、ウチはアイシャドウを取り落とした。どういうことだろうか。
「優とあたしがキスしてる写真……あったでしょ? あれ、駅前じゃなくて高校の空き教室だったんだ」
「空き教室?」
「うん……。それが合成されてた。背景とか服とか。その服なんだけど、あたしズボラだからさ、曜日でローテしてたんだ。あの服はちょうどゼミに入り立ての頃に買って、いつもゼミがあるときに着てる服に似てるの」
「あ……つまり、無意識のうちにゼミで見慣れてる服を、合成した?」
「うん、ただ確証はない。でももしそうなら、『懺悔の部屋で罪を償う』なんて方法じゃなくて、べつの方法で罪を償おうよ。あたしは、やっぱり春香とこれからも一緒にいたいよ」
「透子……」
ぽろぽろと涙を流す透子に、ちくりと心が痛む。
せっかく固めた覚悟が揺れる。
また、迷いが生まれてくる。
どうしたら……。
ウチは、どうしたらいいんだろうか……?
「だから、春香。お願い。なんとかそのメールの送り主に関する人を見つけて、まずは説得」
「――なんだとぉっっ!?」
その時、透子の続きを聞く間もなく部屋の外から物凄い大声が轟いた。反射的にびくりと肩が跳ね上がった。
何事かとすぐに部屋を飛び出す。
大声で言い合う声が下の階から響いてきて、取るものもとりあえずすぐに一階へと向かった。
「それ、どういうことだよ!?」
「言葉通りだ。これは非常にマズいことになった」
階段を下りてすぐの部屋、『懺悔の部屋』の前にみんなが集まっていた。言い合っているのは優と大輔で、二人ともかなり青ざめている。
「どうしたの、二人とも!?」
「な、なにがあったの?」
「あ、春香! 透子も!」
「良かった、無事で」
ウチらが顔を見せると、二人は一瞬ホッとした表情を浮かべてくれた。が、すぐに雲行きのあやしいものに戻ってしまった。
いったい、なにが……?
息を呑むウチらに、大輔はためらいつつも言葉を続けた。
「消えたんだ。この部屋に置いてあった、拳銃が――」
*
大輔に促され、ウチらはひとまず広間に戻った。外は相変わらず荒れており、雷が時折りペンションを震わせている。
もっとも、広間に漂う雰囲気が重いのはそれが原因ではなかった。
「みんな。知っての通り、懺悔の部屋に置いてあった拳銃がなくなった」
広間でみんなが思い思いの場所に腰を落ち着けてから、大輔はよく通る声で言った。
「悪いが芽衣、拳銃がなくなっているのに気づいた時のことをもう一度教えてくれるか?」
大輔の発言を受けて、ここまでずっと物静かだった芽衣がゆっくりと立ち上がる。舞とよく似た小柄な身体を抱えるようにして、芽衣はポツポツと話し始めた。
「えと……私も、真斗と一緒に春香を探してたの。それで、真斗が裏口付近を見てくるって言った時に、私、たまたまあの部屋のドアが開いてるのに気づいて……真斗に言って、二人で中をのぞいたら、消えてるのに気づいた」
「なるほどな。真斗、合ってるか?」
「うん、合ってる。僕は念のため春香が外に出てないか確認してて、その時に芽衣から『懺悔の部屋のドアが開いてる』って言われたんだ」
「その時の部屋の様子は?」
「確かにドアが開いてて、真っ暗だったよ。物音とかはしなかったな。もしかしたら春香が逃げ込んだのかもとも思って、電気をつけて中をのぞいたんだ」
「それで、拳銃がなくなってるのに気づいた、と?」
「うん。凶器は変わらずたくさんあったけど、拳銃は特に印象に残ってたから。だから、なくなってるのに気づいた時は、背筋が凍った」
ぶるりと真斗は身を震わせた。横にいる芽衣も自身の身体を抱くようにして俯いている。
無理もない。ウチだってそんな状況を目の当たりにすれば、きっと恐怖に身がすくんでしまう。今だって、「その可能性」に思い至って手の震えが止まらない。
「……ということだが、念のため訊くぞ。正直に言ってほしい。この中に、拳銃を持ち出した人はいるか?」
大輔の声が広間に響く。名乗り出る人は、いない。
「……いないか? 今なら責めることはしない。こんな状況になって、自分の身を守るために持っていたくなる気持ちもわかるからな。ただ、危険な武器を隠して持っていることは他のみんなに恐怖を呼び込む。それは好ましいとは言えない。だからもし、持っている人がいるなら……今、正直に手を挙げてくれ」
沈黙が降りる。
雷の音ばかりが鳴り、大輔に続いて声を発する者も手をあげる者もいない。
つまり、みんなのことを信じるのならば、ここに拳銃を隠して持っている人は……いない。
「っ! おいっ! マジでいるなら名乗り出てくれ! ほんとにいないのか!? いないで、ここにいる誰も銃なんて持ち出していないってことでいいんだよな!?」
そこで、優が堪えきれなくなったように叫んだ。すぐさま、大輔がなだめにかかる。
「おい、優。落ち着け」
「でもよ!」
「気持ちはわかるが、ダメだ。ここでみんなを疑うのは、ダメだ」
みんなを疑うのは、ダメ。
その通りだと、思う。
この極限状態を乗り越えるには、可能な限りみんなで協力して、助け合わないといけないから。
頭ではわかっている。わかってはいるのだ。
でも……恐怖が邪魔をする。
「……っ、じゃあっ! 今から、持ち物検査と身体検査をしよう! そしたら誰も持ってないってことが証明されるだろ!」
「いや、それはそうだが……」
「んだよ、大輔! オレの言ったことは間違ってないだろーが! それともなにか? お前には検査されるとまずいことでもあるっていうのかよっ!」
「違う。落ち着け。確かにお前の言うことは間違ってはない。だが、検査をするということは一度みんなを疑うことになる」
「仕方ないだろ! それにオレは疑ってるからじゃねー。みんなのことを信じてるから、信じたいから検査をしたいんだ!」
優が真っ直ぐに大輔を見据える。こういう時、優は素直だ。あの瞳に、ウチは何度見惚れただろうか。
そして何度……騙されていたんだろうか。
「……ウチも、持ち物検査とかはしたほうがいいと思う」
「春香!?」
やや迷いながらも口にした言葉に、みんなが驚いた顔でウチを見た。
「正直、みんなはもうウチのことを信じられなくなっていると思う。舞を車で轢いたりなんかしてないけど、あんなメールが送られてきたら、疑われて当然だし仕方ないと思う。事実、ウチはそれだけのことをしたから」
怯みそうになる。でも、言葉は止めない。
「だから、少しでも信頼が回復できる手段があるなら、ウチは協力する。それに、あんなことがあった後になくなったんだから、一番怪しいのはウチだろうし。なんなら、検査をするのはウチだけでもいい」
「春香……」
透子が手を握ってくれた。そこで初めて、自分が震えていることに気づく。
「……みんなの検査をするかどうかは別として、ウチのことは検査してほしい。少なくともみんなに危害を加えようとか、そんな意思はないってことがわかると思うから。あと、みんなごめん。そして、探してくれて、心配してくれて、ありがとう」
ウチは頭を下げた。なるべく気持ちが伝わるように、信じてくれるように、精一杯頭を下げた。一番謝らなければいけない人には謝れなかったのに。どこまでも身勝手な自分がまた少し嫌いになったけれど、それでも頭を下げずにはいられなかった。
静寂が広間に満ちていく。怖い。次にかけられる言葉が、とても怖い。
でも、どんな罵倒も非難も甘んじて受け入れる。それがきっと、今のウチにできるすべてだから。
「……ったく。ほんと春香は相変わらずだな」
静寂が破られた。この声は、優だ。
「みんな、ごめん。よくよく考えたら、オレがみんなを疑う筋合いなかったよな。あんなことしておいてさ。だから、さっきのみんなへの検査云々の言葉は撤回する。そして春香同様、オレのことも検査してくれ。オレも、過去を知られたからみんなを傷つけようとか、思ってないから」
思いがけない優の言葉に、床を見つめたまま目を見張る。
「あたしも……検査してほしい。優と浮気したのも事実だし、春香と一緒にいじめをしていたのもあたしなの。見方によっては、二人に関係してるあたしが一番あやしく見えるから。だからあたしも検査して、少なくとも銃については無実だって証明したい」
隣からは、透子の声も聞こえた。そしてウチと同じように頭を下げる。
なぜか、泣きそうになった。
せっかくメイクを直したばかりなのに。
涙を流す資格なんて、ないのに……。
「あーもう、わかった、わかったよ」
暫しの沈黙ののち、根負けしたように呆れた大輔の声が聞こえた。
「とりあえず、三人の持ち物は検査しよう。他のみんなは任意で検査する、ということでいいか?」
「ああ、もちろん!」
大輔の提案に優は再び頭を下げ、真斗や芽衣、正一も次々に頷いてくれた。
あれほどまでに殺伐としていた雰囲気が緩み、和やかな空気が漂い始めた、その時だった。
「っ!?」
そこにいる誰もが、びくりと身体を強張らせた。
正一の後ろ、備え付けのパソコンが、メールの受信を知らせたのだ。
――させないよ。
絶妙なタイミング。
まるで、関係の修復を阻止されているようかのようだ。
見たくはない。
誰もが顔を見合わせる。
けれど、先ほどのメールには、『受信したメールはすぐに開封し中身を確認するように』と書かれていた。『指示に従わない場合、命の保証はしかねる』とも。
メールの送り主は、あれほどの凶器を用意できるやつだ。見ない場合、何かあるのは確実だった。
「開く、ぞ……?」
正一はおもむろに立ち上がると、ゆっくりパソコンを操作し始める。こうなれば、見ないわけにはいかない。今度は誰の、どんな本性が書かれているのか。ウチらはもう一度顔を見合わせ、誰ともなくパソコンの近くへ集まった。
『黒木大輔は、詐欺師。
少年詐欺グループの主犯格のひとり。
被害者の中には家庭崩壊し、命を落とした者もいる。
そのひとりは、赤嶺舞の母親だ。』
「なっ――」
誰かの、驚嘆に満ちた声が聞こえた。
メールには、とある週刊誌の記事の画像が貼られていた。見出しにはでかでかと、「世間を震撼させた少年詐欺グループのメンバーの謎に迫る!』と銘打たれている。
誰も、言葉を発せなかった。
無言で、ほとんど無意識に記事に目を通す時間が流れた。
なんでも、今から約十年前に某有名配信者をリーダーとした三人の少年グループが子どものいる家庭をターゲットに詐欺を働いていたらしい。リーダーとAさんがターゲットの絞り込みと実行をし、頭の切れるKさんが計画の立案や具体的な準備をしていたと書かれている。ターゲットとされた家庭もまさか子どもが詐欺をしているなんて思いもせず、結果として被害額は数千万円にも昇ったとのことだった。しかも、「子ども」という大勢の共感や同情につけ込んだ巧妙かつ陰湿な手口により、家庭崩壊や人間不信になった被害者も多く、精神的に病んで自殺した人もいるらしい。
読めば読むほど、その悪辣な内容に吐き気がしてくる。
しかも、もしこの記事に書かれていることが事実ならば、これまでずっと邑木ゼミをとりまとめ、先生も含めたゼミ生全員からの信頼を得ていた彼が、そのひとりということになる。
そんなの、信じたくない……。
「…………へぇ。まさかここでバラしてくるとはね」
怖くて彼のほうを見れないでいると、雷と雨音ばかりの室内に低い声が響いた。間違いなく、大輔だ。
「バレたなら仕方ない。その前提で話すまでだな」
大輔はパソコン前に集まっているウチらから少し距離をとると、さらに低い声で言った。
「さーて、それじゃあ再開しようか。誰が『赤嶺舞を殺したやつ』なのか、の議論を」
また心臓が縮み上がった。
大輔の目は、これまで見たことがないほどに鋭く、怖さが増していた。
雷雨はまだ、収まりそうになかった。