* * *

「はあーあ、もう。くそ最悪だわ」
 外で雷が幾度も鳴り響くなか、オレも負けじと何度も愚痴を吐き続けつつ用を足す。自分の過去を一方的に暴かれ、吊し上げられたにもかかわらず腹は減るし、尿意だってある。人間とは不思議だ。
「優さ、あれどこまでがほんとなの?」
 今のオレと唯一二人一組を組んでくれそうな相棒、兼幼馴染の宇佐見正一が隣で同じく用を足しながら訊いてきた。
「あ? 全部マジだよ。オレが器用に噓なんかつけるわけねーだろ」
「確かに、そうだった。優はすぐ頭に血が昇りやすくて、訊いてもないのに余計なことまでペラペラと喋るやつだったね」
「なんだよ、喧嘩売ってんのかよ」
「まさか。一度だって優に喧嘩で勝てたことのないボクが自分から売るわけないだろう」
 一足先に終わったらしい正一は、そのまま手洗い場へ歩いていく。オレもすぐに続いた。
「優はさ、どうしてあんなことしたの?」
「それは……」
 正一の問いに口ごもる。けれど、湧き上がった気持ちはすぐに流水に溶かした。
「どうしてもこうしてもねーよ。あれがオレ、だからだ」
 そうだ、あれがオレだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「ふーん。だったら、変わったんだね」
「あ?」
「優は昔、いじめられていたボクを助けてくれたじゃないか。そんな優しさを持ってるやつだと、ボクは思ってたから」
 思い出したくもない記憶が脳裏をかすめる。オレはほとんどクセになった舌打ちを一度してから、荒々しく蛇口を閉めた。
「っせーよ。んなの、昔の話だ」
「そうだね。昔の話、だね」
 そう、昔の話。
 正一がいじめられていたことも昔の話だし、オレが舞と付き合っていたことも昔の話だし、三股をしていたことも、透子と浮気をしていたことも昔の話だ。昔の話で、紛れもない事実だ。
「つーか、なんで歳下のオレに助けられてんだよ」
「あははっ。ボクが歳上って言っても一歳じゃないか。それにボクは身長低いほうだったし」
「あとは気弱だったもんな」
 小四の時に正一と出会った時のことを思い出す。家庭の事情で町内に引っ越してきたが上手く馴染めなかったらしく、公園でいじめられていたところをオレが助けたのだ。歳下かと思っていたのに、実はひとつ上だと知った時は目玉が飛び出るかと思うくらい驚いた。
 そんな正一が一年浪人したことで、今では同じ大学に同期として通っている。不思議な縁があったもんだ。
「……ちなみによ、正一はどう思ってる?」
 気心の知れた正一となら冷静に話せそうだと思い、オレは訊いた。話題が例のメールに戻ったからか、和やかにしていた正一の顔に微かな緊張が走る。
「どうって、舞を殺した犯人のこと?」
「ああ」
 正直なところ、オレにはまったく見当がついていなかった。
 さっきは売り言葉に買い言葉で春香や大輔を責めてしまったが、高校の時からずっと一緒にいる春香や、大学で一年の時から仲良くしてきた大輔が舞を殺した犯人なはずがないと思っている。真斗も事実として舞には苦労していたみたいだが、さすがにそれだけで殺すのはありえないだろう。
 そもそも、邑木ゼミのみんなは揃って面白くいいやつばかりなので、この中に舞を殺したやつがいるとは思えない。いや、思いたくない。
「まあ、そうだな。正直、ボクにもわからない、かな。なんだかんだでみんな優しくていい人だし、舞を轢いて火をつけるような残虐な人にはとても見えない」
 オレの問いに正一はしばらく考えてから、やがて言葉を選ぶようにぽつぽつと答えた。その内容にはオレも同意見だったので、ホッと胸を撫で下ろす。
「やっぱり、そうだよな」
「ただ、ね」
 しかし正一の言葉はそこで終わらず、少し迷ってからそっと耳打ちをしてきた。
「真斗には、少し注意してたほうがいいかも」
「え?」
 意外な内容に、オレは驚いて正一のほうを見た。すると彼は「しーっ!」とオレの声の大きさをとがめてから、さらに小声で続けた。
「完全な主観だけど、舞が亡くなった時とか今日のメールが送られてきた時とかの様子がおかしい気がするんだ」
「おかしいって、どういうことだよ?」
「そのままの意味だよ。優ならどう思う? 大好きな恋人が誰かに殺されたり、その恋人の死に対して執拗に犯人を明らかにしようとする人がいたら」
「そう、だな……。まず、殺されたりしたらゼッテー許せねえ。地の果てまで追いかけてでもオレが殺してやるって思うかもしれない。だからこそ、同じように犯人を明らかにしたいってやつがいたら協力したくなるし、そいつが誰なのかってのも気になるところ……あ」
 そこで気づいた。そうか。
「そう。二年前の真斗も、今の真斗も、優が言うような感情は一切出してないんだよ。もちろん性格とか考え方の違いはあるから一概には言えないけれど、少なくとも今回の件に関しては大人しすぎると思うんだ」
「なる、ほど……なるほどな」
 確かに、メールが送られてきてからの真斗はいつも以上に大人しい気がする。
 二年前、真斗と舞の関係は決して悪そうではなかった。ゼミ活動中にイチャつくことはなくても、休日にたまたま見かけた時なんかは普通に恋人同士の雰囲気を醸し出していた。
 普通、好きだった恋人が殺されたら平常心ではいられない。真斗も舞が亡くなってすぐはあまり学校に来なかったけれど、その後は至っていつも通りみたいな感じだった。ただ強がっているのだと思って、オレはそっとしておいた。
 しかし、今回ばかりは違う。オレたちの中に舞を殺した犯人がいると決めつけ、監禁し脅迫までしている異常事態だ。多かれ少なかれ取り乱したり、怒ったり、メールに感化されて犯人探しに躍起になったり、なにかしらの目立つ行動があるはずだ。
 でも、それがない。それがないばかりか、至って普通に、冷静にこの異常事態を乗り越えようとしている節すらある。これは確かに、少し引っかかる。
「でもまあ、まだわからないから。憶測で物事を決めつけるのはやめよう」
「ああ、そうだな」
 オレたちはひとまずこの話の結論は保留にし、真斗には注意だけしておこうということになった。
 そしてあまり気乗りはしないながらも、広間に戻ることにした。
「……ちっ」
 もっとも、予想通りオレを待ち受けていたのは、相変わらず疑念や不信の視線だった。
 オレが食ってかかった大輔や真斗はもちろんのこと、春香に至っては鬼のような形相で睨んでくる。高校から一緒にいるが、あそこまで怖い顔を向けられたのは初めてだ。
 ……いや。一度だけ、あったか。
「……で、大輔さー。これからどうしたらいいと思う?」
 オレが戻るのをまるで待っていたかのようなタイミングで春香が口火を切った。その顔は大輔のほうを見ているが、明らかに注意はオレのほうにある。
「ウチはさー、とりあえず一番怪しいやつに『懺悔の部屋』に行ってもらって、『罪』だと思うことを『告白』して『償え』ばいいと思うんだよねー」
 そうしてあからさまに口端を吊り上げた。頭がカッと熱くなる。
「んだと、てめぇ」
「あれー? べつに優に行ってこいなんて言ってないけどー?」
 春香の挑発的な言葉に、自分で制御できるはずもなく熱はさらに加えられていく。言いたい言葉が止まらない。
「へぇー? じゃあ誰が行くんだよ? 怪しいやつってどうやって決めんだよ? ああっ?」
「そんなの、いつものゼミでもよくやってる方法を使えばいいじゃん」
 春香はさらに笑みを深めると、近くにあったホワイトボードになにかを書き始めた。書記担当らしく僅か一分で見やすく並べられた文字列。そこには、
「多数決、でしょー? ここに全員分の名前を書いたから、怪しいと思う人に手を挙げるの。どう? バカなやつにもわかる超簡単な方法でしょ?」
「は、あ?」
 拳に力を込め、オレは思いっきり近くにあった壁を殴りつけた。
「ざけんな! んなの同調してたくさん手が上がりそうなやつになるに決まってんじゃねーか! 社会学専攻しててんなのこともわかんねーのかよ、バカが!」
「あららー? それってつまり、自分が『たくさん手が上がりそうやつ』だって思ってるってことだー。やっぱり優、あやしいねー?」
「やめろ! 二人とも!」
 睨み合うオレと春香の間に、大輔が割って入った。
「春香、冷静になれ。優が浮気してたことで頭に血が昇っているのはわかるが、それと舞を殺したかどうかはべつだろ。それに、わかってるのか? あの『懺悔の部屋』には凶器があるんだぞ。そこで『償う』ってことは……」
「べつに、メールには具体的な償い方までは書いてなかったから死なないといけないわけじゃないでしょ。償い方はその人次第なんじゃないの、ねえ?」
 そこまでまた春香はオレに挑戦的な目を向けてくる。なんなんだ、こいつ。オレの過去が明るみになった途端、目の敵にしやがって。
 そこで、オレは気づいた。我ながら冴え渡った考えに、自然笑みが浮かんでくる。
「あーあー、確かになあ。確かにその人それぞれの『罪』に合った償い方をすればいいよなあ」
「でしょ? だったら優も文句は」
「あるだろ。なんたって今は、オレだけの『本性』が暴露されてる状況なんだからな」
 オレの言葉に、春香の眉がピクリと震えた。
「だから、オレからの提案はこうだ。多数決を公平にきすために、全員の本性が暴露されてからやるってのはどうだ?」
「なっ!?」
 思った通りだった。春香が一番に、驚愕の表情を見せた。その隙を、オレは見逃さない。
「あれあれー? 春香、どうしたんだ? オレより頭のいいお前ならわかるだろ? 今の状況は平等じゃない。なんせ他のやつらの『本性』がわからないんだからなぁ。公正にやるなら、全員の『本性』がわかんないとダメだろ」
 ゆっくりと、余裕を持って戸惑う春香に近づいていく。大輔の横を通り過ぎ、春香の目の前まできてから、オレは言った。
「それとも、春香にはオレなんかよりもっとヤバい『悪事と本性』があるのかなぁー?」
「そんなのっ、あるわけ……!」
「だよなぁ? だったら文句ねぇよな?」
 込み上げる愉悦感に、オレはくつくつと短く笑う。こんなことをすれば悪印象が生まれることは間違いないが、過去を暴露された今となってはもはやどうでもいい。
「おいっ、優!」
 そこへ再び大輔が間に入ってくる。またか。
「んだよ、大輔。オレはなにか間違ったこと言ってるか?」
「間違ってはない。だがそれは多数決をするならの話だ」
「なに?」
「春香、悪いが俺は多数決には反対だ。さっきも言ったが、浮気していただけで舞を殺したと決めつけるのは無理がある。それに優の言うように、今の状況での多数決は公平じゃない」
「っ! じゃあどうするのよ!? このままじゃ……!」
「そうだ。このままじゃおそらく全員があのメールを送り付けてきた何者かにやられる。だから、メールに書いてある通り『赤嶺舞を殺したやつ』を見つけないといけない。だがそれには、浮気のことをいったん保留にして考えてもらう必要がある」
「……っ」
 大輔の言葉に、春香は口をつぐんだ。それはそうだろうとオレは同調の言葉を口にしかけたが、大輔がそれを許さなかった。
「お前もだ、優。あのメールの内容に踊らされるな。『本性と悪事』をそのまま『赤嶺舞を殺したやつ』に結び付けて考えるのは悪手だ。メールに書いてあった『本性と悪事』はいったん忘れて、素直に犯人を捜すべきだ」
「素直に犯人を捜すって、どうやってやんだよ?」
「とりあえず、二年前のあの日、舞が焼死体で見つかった日にそれぞれ何をしていたかを話してもらう。警察にも訊かれただろうから、忘れてたってことはないだろう。職質常習犯でもない限りな」
 大輔の声は明快に広間に響いた。その意見に異議を唱える者はいない。
「一応その前に、舞が死んだ日のことを思い出しておこうか。衝撃的な内容だったからたぶん大丈夫だとは思うが、もし記憶違いがあったら言ってほしい。
 まず警察の話では、舞が死んだのは今から約二年前の十一月七日、午後九時から午前零時までの間だそうだ。午後九時の時点で舞が近くのコンビニに行っていたのが監視カメラに映っていたらしいから、間違いないんだろう。そして舞は午前零時ごろに大学からほど近い県道沿いにある崖下の雑木林で発見された。家に帰る途中の通行人が崖下でなにかが燃えているのを見つけて通報したらしい。そしてその燃えていたのが舞だったわけだ」
「そう、だったね……」
 大輔の言葉に、春香が震えた様子で頷いた。他の面々も暗い面持ちで俯いている。
「しかし舞の死因は焼死によるものではなく、全身打撲と脳挫傷による外傷性ショック死。警察としては交通事故によるもので、隠蔽のために轢いたやつが火をつけた線で捜査をしていたらしい。ほぼ全身が燃えていたみたいだから、近くに落ちていた荷物や保険証、そして焼け残った遺体の一部をDNA鑑定して身元を特定したんだったかな。ここまでが、警察から聞いた話やネットニュースなんかをまとめた内容だ。今のうちに記憶違いや補足なんかがあれば教えてほしいんだが、なにかあるか?」
 大輔はゆっくりとその視線の先を真斗に向けた。おそらく、あの日のことを一番覚えているのは恋人だった真斗だ。ネットニュースだってたくさん見漁っただろうし、警察からも一番事情を訊かれていた。真斗から意見が出なければ、おそらく漏れはない。
「……ううん。大輔の言ってることは、合ってると思うよ」
 真斗は当時のことを思い出したのか、やや間をおいてからおもむろに首肯した。それで、その場の意見は確定する。
「よし。じゃあ当時のことを思い出したところで、ひとりずつアリバイを教えてほしい。まず俺だが、あの時間は弁当屋でバイトをしていた。午後十時ごろに正一が来たから証明してもらえると思う」
「確かに、ボクがお店に行った時は大輔が対応してくれた。遅い時間でワンオペしてて、ほかにお客さんもいなかったから三十分くらい話してたよね」
 大輔の視線を受けて正一がアリバイを証言する。けれど、その言葉にオレは口をはさむ。
「だがよ、それって正一と一緒にいる時間以外はアリバイがねえってことじゃねーのか」
 ワンオペをしていたということは、弁当屋には大輔しかいなかったということだ。あの弁当屋は舞の遺体が見つかった場所からほど近いし、呼び出したところへ車で向かって轢くことは充分にできる。
 オレが疑いの言葉を並べていくと、大輔は肩をすくめた。
「まあ、その通りだな。優の言う通り、それ以外の時間に舞を殺すことはできたかもしれない。店の前に準備中だとか札をかけて置けばいいわけだしね。その意味では、俺も舞を殺すことができた容疑者だ。そのことは、みんなも覚えておいてくれ」
 内容とは裏腹に余裕を持たせた笑みを大輔は浮かべた。こういういつでも冷静なところはじつに腹が立つなとオレは思った。
「よし、じゃあ次は俺の部分的なアリバイを証言してくれた正一から時計回りということでよろしく頼む」
「うん……ボクは、それこそ九時半くらいまで大学で課題をしてて、十時に弁当屋に寄って大輔と話して、それから家に帰ったんだ。課題をしている時も帰り道もひとりだったし、大輔と同じになるかな」
 特に言い淀むこともなく、つらつらと正一は答えた。大輔も疑うところはないのか、満足げに小さく頷く。
「なるほどね、わかった。じゃあ、次、芽衣」
「ずっと、家で寝てた」
 具体的に答えた正一とは違って、芽衣は端的に言った。端的すぎて、大輔同様オレも苦笑交じりに彼女を見る。
「えと、それを証言する人とかは?」
「いない。ひとり暮らしだし。電話とかもかかってこなかったし。アリバイはない」
 芽衣はゼミでも基本大人しく口数は少ない。しかし、こういう場でも変わらないのは尊敬を通り越して畏怖すら覚えてきた。それ以上話せることはないとでも言うように、芽衣はまた俯いた。
「わかった。じゃあ、次、春香」
「その時間はずっと透子のアパートにいた。ね、透子?」
 続いて促された春香も端的に言った。そして同意の視線を送られた透子は、どこか気まずそうに言い淀んだ。
「おい、透子。春香を庇ったりせずほんとのことを言えよ」
「ちょっとなに優! 疑ってるの!?」
 オレは春香の制止を無視し、透子に釘をさした。透子は春香と幼馴染で、小中高大とずっとつるんでいた。しかし、同じ立ち位置の親友というよりは目立ちたがり屋でカースト上位に君臨する春香の取り巻きという感じだった。そんな春香ににらまれ、同意を求められては断ることなんてできないだろう。
「……えと、確かにずっと一緒にいたんだけど……あたしは途中で、春香に頼まれて、お酒とお菓子をコンビニに買いに行った。四十分くらい、かな」
「透子!」
「ほらな。これでアリバイは崩れたわけだ」
「優、あんた!」
「二人とも、やめろって言ってるだろ」
「ああ、わりーわりー」
 何度目かになる大輔の制止を受けて引き下がるが、やはり思った通りだった。オレのことばかり疑っていたが、春香も舞を殺せたのだ。あの事件については、みんなが平等に容疑者だ。
「それで、春香と透子はその買い出しの時間はアリバイがないってことだな? 時間はわかるか?」
「ごめん……わかんない。あたしがコンビニに行ったのは、舞と同じく監視カメラを見てもらえばわかると思うけど。でも、移動中とかは誰とも会わなかったし……」
「そうか、わかった。それで、優はどうだ?」
「芽衣と同じだな。オレもひとり家でゲームしてたから、アリバイはない」
 大輔に訊かれ、オレはためらいなく答えた。もしこれがメールに書かれた『本性と悪事』をも考慮したうえでのアリバイ確認だったならこうはいかなかった。あとは、春香に明確なアリバイがあってなじられた後でも同じことだろう。どこか嬉しそうな視線を向けてきた春香を見返しつつ、オレはみんなと同じく電話がかかってこなかったことなんかを話した。
「よし、わかった。じゃあ、最後に。真斗」
 ごくりと、その場にいる全員が喉を鳴らしたような気がした。少なくともオレと正一は、真斗の次にいう言葉を聞き逃すまいとしていた。
 ――二年前の真斗も、今の真斗も、優が言うような感情は一切出してないんだよ。もちろん性格とか考え方の違いはあるから一概には言えないけれど、少なくとも今回の件に関しては大人しすぎると思うんだ。
 正一の言葉を思い出す。
 ここまで舞の事件当時の話や全員のアリバイ確認をしていた時も、真斗はやはり大人しく、どこか陰鬱としながらも冷静だった。激情を表に表すことも、さめざめと涙を流すこともしない。ひとりの友達を亡くしたオレたちと同じく、建前上の平静は保って同じ場所にいた。
「……僕は」
 しばしの沈黙の後、ようやく真斗は口を開いた。なにか、言葉を発するのをためらっているようにも見えた。
「……バイトをしていて、そこから家に帰った。バイト中は、同じシフトの人がいたから、証言はしてくれると思うけど、ここにはいないからアリバイにはならないかも。あと、帰りも誰とも会わなかったから、アリバイはないね」
「なるほどね」
 真斗の言葉に、大輔は小さく頷いた。
 おおよそは、オレたちとなにも変わりない。当たり前だ。夏休み中の大学生の夜なんて家でダラダラ過ごすかバイトでお金を貯めるか友達とくだらない飲み会を繰り広げるかのどれかだ。変なところも、特にない。
 これで、全員が言い終えた。アリバイが確定した人はいない。
「よし、じゃあ次は――」
 その時だった。大輔が最後まで言い切る前に、それは鳴った。
 全員が同時に顔を見合わせ、そして身を強張らせる。
 機械質で、けれど誰の声よりも広間に響いてよく聞こえる、通知音。
 どうする?
 見る?
 見ないほうがいいんじゃ?
 壁際にパソコンを見るばかりで、今度は誰も近づこうとしない。近くにいる人と会話するささやき声が静かに聞こえる。
 また指示かな。
 もしかしたら、ここにいる誰かの『本性と悪事』かも。
 それはしんどい。見たくない。
 その時、オレの頭の中でなにかが弾けた。
 今、全員のアリバイを聞いて無実が確定したものはいない。
 ならもし、タイムリミットまでメールを一切見ずに誰かひとり、『懺悔の部屋』に送り込む人を決めなければならないとなった時、真っ先に吊し上げられそうな人は誰か。
 現在は大輔が冷静にその場を取り持ってくれているからなんとかなっているが、極限状態の中でもそうだとは限らない。冷静な判断をできる人が少なくなり、死への恐怖が高まってくれば、『舞を殺したやつ』が「舞を殺した可能性の高いやつ」に話がすり替わっていく可能性も考えられる。そしてその判断は、「あのメールに書かれていることなのだから関係があるだろう」という決めつけによって進んでいくかもしれない。
 蒸し返すようにオレの過去を糾弾し、春香を中心としてオレにあの凶器だらけの部屋で償いを迫る。
 絵面が、簡単に想像できた。
「ふざけんなよっ!」
 オレは足音うるさくパソコンに歩み寄った。春香がオレの名前を呼んだが無視する。なんでオレだけが思い出したくもない過去を暴かれ、不利に立たされないといけないんだ。不公平だろうがっ。
 十九時ちょうどの新規受信の通知をクリックして、オレはメールを開封した。

『美馬春香は、いじめ常習犯。
 執拗で粘着質ないじめを取り巻きの相良透子らとともに実行。
 その標的のひとりは、赤嶺舞。

 なお、受信したメールはすぐに開封し中身を確認するように。
 指示に従わない場合、命の保証はしかねる。』

「え――」
 乾いた声が、オレの口から漏れた。
 メールの件名、『美馬春香らの本性』という字面を一度眺めてから、もう一度本文に視線を落とす。
 そこにあったのは、オレらもよく使っているオープンSNSの投稿と、ネットニュースの写真だった。

>もう生きていたくない。
>つらいつらいつらいつらい。
>しんどいしんどいしんどいしんどい。
>なんで私がこんな目にあわないといけないの?
>なにか悪いことした?
>なんでいじめられないといけないの?
>もう死ぬ。死んで復讐してやる。
>美馬春香め。地獄におちろ。

 SNSの投稿日は十数年前のもので、「MAI」と書かれたユーザーネームから察するに赤嶺舞のものだろう。そこには名指しで、オレの恋人の名前が書かれていた。
 やらなければ良かったと、正直思った。
 ネットニュースの記事は、県内の小学校に通う生徒がいじめに耐えかねて自殺未遂を図ったというものだった。この二つだけだと関連性はわからないが、ネットニュースの時期とも合致していたので十中八九関係していると見て間違いなかった。
「……っ、な、んで……!」
 春香の悲痛な声に、オレは勢いよく振り返った。
 いつの間にか、オレの後ろにはみんなが集まって画面をのぞき込んでいた。
 見ないんじゃないのかよ、とツッコみたかった。一周回って、オレの頭は変なふうに冷静さを取り戻していた。
「……っ! 違う! 違う違う違う違うっ!」
 後ろから震えた声が聞こえた。そこには、目を怒らせ、今にもパソコンに襲い掛かろうとしている春香がいた。
「ちょっ、待て! おいっ!」
「うっさい! 離せ!」
 オレは暴れる春香を慌てて押さえつける。今まで何度も繰り返してきたどの喧嘩よりも力が強かった。どうにか引き剥がすと、春香は猛獣のような鋭い瞳でオレを睨んでくる。
「春香。これは、本当なのか?」
「本当だったらなんだっての!? 浮気魔のあんたにだけはなにか言われたくないっ!」
 肩で息をしつつも、春香は変わらずオレを視線で射殺そうとしてくる。あれほどまでに血が昇っていた頭は、すっかり冷え切っていた。
 そこで、ふと思い出す。
 あの視線。完全な敵意の視線を、オレは見たことがある。
 ――最低! 最悪! もう少し私の気持ちも考えてよっ!
 信頼が絶望へと変わり果てた瞬間に向けられた視線。
 一度目は、オレじゃないオレへ。
 二度目は、間違いなくオレへ。
 そして、もうひとつ。
 やり場のない怒りをどこかに向けないと収まらない視線も、オレは見たことがある。
 ――あんたなんか、生まれてこなければよかったのよっ!
 本心ではないとわかっていた。でも確かに、深々と心に突き刺さった声。あの声に、オレは……
「は、春香……あたし、あたしね……」
 尋常ではない重々しさの広間に、ひとつの声が響いた。
「透子……」
 見れば、最初のオレに対する暴露以来黙り込んでいた透子が、震えつつも前に出てきていた。
「春香……ご、ごめん、あたしが……」
「うっさいっ! あんたのことなんてもう友達ともなんとも思ってないから! 優とよろしくやってろよ! この裏切り者!」
 涙の入り混じった怒声を放ち、春香は駆け出した。乱暴に扉を開くとそのままの勢いで部屋を飛び出していく。
「待って! 春香!」
「マズいぞ! みんな、春香を連れ戻すぞ! ひとりになるのは危険だ!」
 透子の叫び声に続き、大輔が一目散に春香を追う。その後からは真斗が、正一が、芽衣が、口々に春香の名前を呼んで部屋から出ていく。
 それでもオレは、動けなかった。
 浮気をしていたことに対する怒りと、暴かれたくない過去を晒された怒り。
 春香から二つの怒りを同時に向けられたオレは、完全にその場に縫い止められていた。
 まったく動かない、震えるばかりの足。
 どこまでも情けないこの有り様が、本当のオレなんだろうか。
「……っ、す、優! あたしたちも!」
 その時、同じように立ち尽くしていた透子が、オレの名前を呼んだ。そのおかげで、硬直していた身体が少し動くようになる。
「で、でも……」
 そう、でも。でもだ。
 オレの心は未だに、あの視線に恐怖している。
 己が身の過ちだとわかっていても、まだ受け入れられずにいる。
 その二つを同時に宿してしまった恋人を恐れ、宿させてしまった自分に嫌気がさしている。
 こんなオレが、春香を追いかけることなんて……。
「バカ優! あんたは春香の彼氏でしょ!」
「あだっ!?」
 怖気付いていたところへ、痛烈に背中をはたかれた。ジンジンと痛みが背骨に響く。
「とにかく、行こう! あたしも、後悔するのは後にするから……!」
 遅れて駆け出していく透子の背中を見て、オレは思う。
 ここで動かないと、きっと後で後悔すると。
「ああもう、くそっ!」
 未だに震えが止まらない我が身を叱咤し、オレはだいぶ遅れて広間を飛び出した。

 * *

 赤嶺舞。
 彼女とは高二の時にクラスメイトになり、席替えで二度隣の席になった。
「おはよー優くん! 今日もよろしくね!」
 オレは彼女の無邪気で守ってあげたくなるような笑顔に惚れ込んだ。
 そのころ、既にオレは春香と付き合っていたが構わなかった。二股、三股は何度もしてきたし、現に春香のほかに透子とも付き合っていたし、その時のオレにとっては何人も恋人がいるのが当たり前だった。春香や透子とのことは隠して、オレは彼女に近づいた。
 舞とはめちゃくちゃ話が合った。
 最初は兄弟の愚痴からだった。オレには姉がひとりいて、舞にも兄がひとりいるらしかった。年上の異性兄弟がいると下々のオレらは苦労するよな、なんてどうでもいい話で盛り上がった。さらにそこから互いの趣味や食べ物の好みがまったく一緒なことがわかり、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。空いている休日には映画に行き、見終わった後には近くのカフェに入って感想を語り合う。たまに時間も忘れて話していると夜になっていて、夜ご飯まで一緒に食べることすらあった。
 そうして、オレたちはなるべくして恋人になった。恋人にマジにならないようにしていたオレだったが、正直舞にはひときわ強い気持ちを抱いていたと思う。
 春香や透子との時間をほっぽらかして、舞との時間を優先するようになった。学校では気をつけていたつもりだったが、たまに抑えきれなくて頭を撫でたり抱き締めたりすることがあった。舞はいつも、少し照れながらも笑って受け入れてくれていた。
 だから、だろうか。
 舞が家に遊びに来たある日、オレは気持ちが溢れて舞に迫った。
 受け入れてくれると思った。舞なら、春香や他の女たちとは違ってオレの心に空いた喪失感を埋めてくれると思っていた。
「ごめん、優くん。私は、そういうことしたくない」
 けれど、舞は拒んだ。最初はそういうフリかと思ったが、本気で嫌がっているようだった。
 オレは尋ねた。なぜダメなのかと訊いた。でも舞は、ただ嫌だからと繰り返すばかりだった。
 腹が立った。舞なら受け入れてくれると思ったのに。
 悲しかった。オレのなにがダメなのか。
 ――あんたなんか、生まれてこなければよかったのよっ!
 遠い昔、幼い頃母に言われた言葉が蘇った。心に刺さった棘が、急に存在感を増していく。舞もオレのことを不要だと言うのか。
 もちろん、こういうことは他の女でもあるにはあった。高校生のうちはそういう行為に抵抗がある人も多い。そんな場合は、オレは無理強いすることなく少しずつ抵抗感を和らげるようにしていた。
 でも、この時のオレにはそんな余裕はなかった。
 気がつけば、嫌がる彼女を無理やり押し倒していた。不幸中の幸いとしては、押し倒した時にすぐに我に返ったことだ。
 ――最低! 最悪! もう少し私の気持ちも考えてよっ!
 涙を浮かべて、舞は叫んだ。
 彼女の視線は、深くオレの心に突き刺さった。
 すぐに後悔した。でも、もう遅かった。
 オレがようやく手にしかけていた彼女からの信頼は、地に堕ちていた。
 怒気をたぎらせ、嫌悪の視線を向けてくる彼女に、オレはなにも言えなかった。舞はそのまま荷物をまとめると、足音荒く部屋から出て行った。
 舞とは、そこで終わった。当然だった。
 オレは最低最悪なことをしたのだ。
 ……いや、これまでもずっと、最低最悪なことをしていたのだ。
 ――最低! 最悪! もう少し私の気持ちも考えてよっ!
 何の因果か、彼女がオレに向けた言葉は、昔母が浮気をしていた父に向けた言葉と同じだった。詳しい事情を知らなかった当時のオレは父を庇って、母の怒りを買った。あの時の視線も含めて、すべてに既視感があった。
 オレは母からもらえなかった愛情を埋めるべく、とっかえひっかえいろんな女に手を出していた。
 目を背けていた事実をどうしようもなく突き付けられて、オレは自己嫌悪に陥った。
 だから、全ての恋人関係を解消しようと思った。けじめをつける意味で、春香と透子に別れようと告げた。
 透子は最近構っていなかったことで何かを察していたのか、すぐに了承してくれた。
 でも、春香はそうはいかなかった。オレの唐突な言葉に、真っ向から嫌だと泣き叫んだ。
 けれどオレは、すべてを清算したかった。
 最後は一方的に春香と距離を置いた。SNSもブロックして、学校でも避けるようにした。
 でも春香は、頑として受け入れてくれなかった。ほとんどストーカーみたいにオレと接触してきて、結局半年間の攻防の末オレが根負けした。
 それ以来、オレは春香のことを一番に考え、春香だけを見てきた。
 彼女は実は、どこまでもオレのことを認めてくれて、受け入れてくれた存在だったのだと、実感した。
 でもオレは、ついぞ舞に謝れなかった。
 邑木ゼミで再会した時は肝を冷やしたが、当の本人は既に真斗という新しい恋人を作って、上手くやっているようだった。オレにも普通に話しかけてきたので、もう気にしていないものだと思い、オレも普通に接していた。
 けれど、実は違っていたのかもしれない。
 みんなには言っていないが、オレは舞が自殺を図った可能性もあると考えていた。つまりは自ら身体に火をつけて崖から跳び下りたのではないか、ということだ。全身打撲も脳挫傷も、崖から落下した時の衝撃でなったのではないかと思った。あるいは、自分から車の前に飛び出して轢かれ、そのまま崖下に落下したのかもしれない。妄想は、捗った。
 舞が死んだのは、ゼミ活動が始まって間もなくしてからのことだった。つまり、オレと再会してしばらくしてからだ。
 そこに、どんな因果関係があるのかはわからない。けれど、ただの偶然というにはいささか不可解だった。
 もし彼女の死にオレとの一件があるのなら、オレは償わないといけない。
 でもオレは自分勝手ながら、今の日常を手放したくもなかった。
 春香に謝って、なんとかここから無事に帰って、いつも通りの日々を送りたかった。
 我ながら、本当に浅ましい。聞いて呆れる。

 オレはこれから、どうしたらいいんだ……?