* * *

 秋晴れの空の下、僕は軽やかな足取りで山道を登っていた。
 ようやく色づき始めた紅葉が両脇に立ち並び、華やかに坂道を彩っている。残暑も先週から落ち着き、頬を撫でる爽風が心地良い。これは絶好のゼミ合宿日和だと僕は思った。
真斗(まさと)ー。今日泊まるペンションって、もうすぐだよな?」
 軽く肩をたたかれ振り返ると、僕には到底真似のできない爽やかな笑みを浮かべた青年が立っていた。
 黒木(くろき)大輔(だいすけ)。僕たちが所属する邑木(むらき)ゼミナールのゼミ長だ。身長は百七十センチの僕よりも十センチほど高く、さらに見た目は爽やかで誠実な人柄をそのまま体現したかのごとく整っている。同性の僕からすれば羨ましいことこの上ない。
「ああ、たぶんこの坂道を登り切ったところにあるはずだ」
「そっか! いやー昨日サークルの飲み会で飲みすぎてさ。ごめんな、先導頼んで」
「ぜんぜん! いつも大輔には助けられてるからな。たまには副ゼミ長の僕にも仕事させてよ」
「はははっ、じゃあお言葉に甘えさせてもらうわ」
 僕らのゼミは社会学を選考しており、四年生になって授業がほとんどなくなった今でも週一で活動している。主に卒論執筆がメインだが、先生の意向もあってたまにフィールドワークにも出ていた。そして今日はその総括として二泊三日の合宿に来ているわけだ。その初手で役割を与えられれば、自然やる気も出るというものである。
「にしても、最後のゼミ合宿のテーマだけど早まったかなーって今さらにして思ってきた」
「ああ。もしかして、初日はスマホが使えないから?」
 僕が尋ねると、大輔はそれはそれは大仰に頷いた。
「もち。なんかとっつきやすいテーマだったから俺も手を挙げたけど、正直俺らでやるんじゃなくて普通に結果だけ聞きたかったわ」
 こめかみを押さえつつ項垂れる大輔に僕は苦笑する。
 今回のゼミ合宿のテーマは「日常生活における無意識下のスマートフォン依存性調査」だ。僕らの日常生活において、いかに無意識にスマホを使おうとしているか、その影響性を調査するもので、一日目はスマホが繋がらない圏外のペンションで、二日目は普通にスマホが繋がるペンションで過ごすことになっている。それぞれの一日においてスマホを使用しようと思った回数や状況、実際に使えた場合と使えない場合の比較など、検証項目は多岐にわたる……のだが、正直大学生のゼミ合宿なんてものは騒いでなんぼのものだ。にもかかわらず、一日目はスマホが使えない。自分たちで決めたといえばそれまでだが、これはなかなかに致命的だ。
「まあ、たまにはいいんじゃない。スマホが使えない環境に行くと精神的にも安定するっていう研究もあることだし」
「いーや。俺はスマホが使える環境のほうが精神的に安定すると断言するね。その説には反証しよう」
 にやりと自信ありげな笑みを浮かべる大輔。さすがは外資系コンサルの会社にゼミ内最速で内定をもらっているだけはある。そこそこ有名な国内の食品企業になんとか引っかかって内定をもらった僕とは雲泥の差だ。
「おーい! 大輔! 真斗! 少し、待ってくれー!」
 僕らがあれこれと談笑を重ねていると、ふいに後ろから大きな声が聞こえた。
「あららー、これはあれかな」
「うん、あれだろうね」
 顔を見合わせて立ち止まれば、後方には案の定ともいうべき光景が広がっていた。
「ぜい……ぜい……くそう、わたしも……もう、歳、だな……」
 少し離れたところに足取りのおぼつかない者が一名、周囲を自らの教え子に囲まれて歩いていた。なにを隠そう、僕らが所属するゼミナールの担当教授、邑木智彦(ともひこ)先生だ。
「お、おーい……もう少し、ペースを落としてくれー……」
 今にも消え入りそうな声が聞こえてくる。普段の講義ではあんなにも堂々としていて凛々しいのに、体力はまるでないらしい。
「せんせー、体力なさすぎー」
 と美馬(みま)春香(はるか)がからかえば、
「アハハッ、たしかに~。センセ、もっと普段から運動しないとね〜!」
「うん。私も、そう思うな」
 いつものように相良(さがら)透子(とうこ)が同調した笑みを見せ、その隣で西野(にしの)芽衣(めい)が静かに頷く。
「そういう君たちは、先生をいじめすぎ。ほら、邑木先生。ボクが荷物持ちますよ」
 そして見かねた宇佐見(うさみ)正一(しょういち)が手伝いを申し出て、
「さっすが正一。オレと違ってやっさしいねえ〜」
 そんな彼を幼馴染の藤堂(とうどう)(すぐる)がおどけるようにいじり出すのだ。
「お、お前らも、わたしくらいの年齢になればわかる……はぁ、ふぅ」
 いつもの連携プレーに、輪の中心にいた邑木先生は大仰に息をつく。どっとみんなが笑った。
「はははっ。ほんと、いつも通りすぎるね」
「いやーむしろテンション上がってんじゃないか?」
「言えてる」
 紅葉した山々にこだます笑い声につられて、僕らも小さく笑い合った。
 僕らは大学二年生の秋学期からこの邑木ゼミに入ったが、他のゼミにいる友達から羨ましがられるほど仲良くやっていた。決して多い人数ではないが、だからこそお互いのことをたくさん知ることができた。卒業後の内定先も大輔を筆頭に大企業や大手銀行、国家公務員など錚々たるところに決定しており、そんな優秀な仲間たちに恵まれたことを、直接口には恥ずかしくてできないけれど、とても嬉しく思っていた。
「とりあえず待つか」
「ああ、そうだな」
 のろのろと亀のようなペースで登ってきた一行を待ってから、僕らは改めて山道を進んでいく。曲がりくねった小道を抜け、丸太の木製階段を登ったところで、目的地がようやく見えてきた。
「あ、もしかしてあの建物〜?」
「そっ。なかなかイケてるっしょ? 俺と正一で決めたんだぜ?」
「さっすがー! 芽衣もそう思うよね!」
「うん。いいと思う」
 わいわいと騒ぎ立てる声を後ろに、僕はゆっくりと建物を眺める。赤や黄色に衣替えをした山奥に、ひっそりと立つ煉瓦造りの洋館だった。木々に隠れてその全貌は見えないが、二階建てで手入れの行き届いた外観をしている。
「そう言う優はどこまで真面目に探してたのやら」
「細かいことは言いっこなし! な? 大輔たちもそう思うだろ?」
「んーー」
「ああ、どうかな」
 優にいきなり矛先を向けられ、僕たちは苦笑する。
 優はテニスサークルに所属しており、僕らゼミ生の中では一番大学生活を謳歌していそうな出立ちだ。金髪に染められた髪も、ピアスを三つほどぶら下げた耳も、派手な柄物シャツを着こなしている装いも。普段のゼミ活動に取り組む楽観的な姿勢も思い出せば、おそらく真面目に探してたのは正一だけなんだろうなと思った。
 そんな僕の考えを読んだのか、当の正一は「わかってくれたか二人とも」と感極まったように僕らの肩をパシパシと軽くたたいてきた。優と幼馴染というだけあって、相当な苦労をこれまでしてきたんだろう。もっとも、毎期成績優秀者に選ばれるほどの秀才であることや、実家の家業を継ごうとしていること、そして今から面接でもあるのかと訊きたくなるくらいビジネスカジュアルなコーディネートをしていることからもわかる通り、二人の好みや志向は正反対だ。これでしっかり仲が良いのだから、相性というものはほんとにわからない。
 僕らが優の不真面目さについてささやかな議論を交わそうとしていると、建物を興味深げに見上げていた女子グループが口々に声を上げ始めた。
「まっ、細かいことはどーでもいいでしょ! ウチ、早く中に入りたいんだけどー」
 春香はその山歩きに似つかわしくないフリルのついた派手めのワンピースをひらめかせて急き立てる。明るい黒のミディアムアッシュに赤色のワンポイントを入れた髪型やブランド物のバッグなんかも、彼女の目立ちたがりな性格を如実に表しているように思える。
「あたしも〜。さすがに歩き疲れた〜」
 そんな春香に、同じように派手で春香よりもやや露出の多い装いの透子がいつものごとく同調する。
「ちょっと休憩したい、かも」
 二人よりは随分と大人しめで物静かな芽衣もこくりと小さく頷いた。
 この三人が意見を合わせてしまえば、なんだかんだで尻に敷かれている邑木ゼミの男どもは面と向かって逆らうことはできない。もちろん、すべて僕の偏見ではあるけれど。
「よし。それじゃあ、みんな。ここまで結構歩いてきて疲れただろうから、各自中に入ったら一度部屋に荷物を置いて小休止しよう。その後に卒論の進捗報告をしてから、お待ちかねの夜のバーベキューの準備だ!」
 ゼミ生があれやこれやと話し込んでいるうちに体力を回復した邑木先生が、パンと両手を合わせて場をまとめた。
 こうして、大学生最後となる僕らの楽しい二泊三日のゼミ合宿が幕を開けた。

 *

 ペンションに入ってそれぞれが割り当てられた部屋で小休止をした後、男子勢はいち早く一階の中央にある広間へと集まった。
「それにしても、ここほんとすごいな。正一、よくこんなところ見つけられたな。前に来たことあるとか?」
 壁際にあるソファに腰かけた大輔が、キョロキョロと内装を眺めながら言った。
「いや、今日初めて来たよ。友達と一緒に探してた時に偶然見つけたんだ。なんでも明治から大正にかけて建てられた洋館を改修したみたいで」
 中央の長テーブルに腰かけた正一が照れくさそうに答える。
 なるほど。確かに、外観だけでなく内装も高校時代の教科書かどこぞの資料館でしか見ないような洋風の趣きを醸し出している。アンティークな調度品や絵画が壁にはかけられており、割り当てられた部屋にある家具もすべて一工夫こらした意匠が施されていた。なんならミーティングもできるようにと広間の隅に置かれたホワイトボードやプロジェクタースクリーンなどが場違いすぎて、普段の大学生活で見慣れているはずのなのに完全に浮いてしまっている。
 調査の参考資料として用意されたペンションの概要を見つつ大輔や正一と話していると、わかりやすく優が不満の声をあげた。
「おいおいー、正一だけじゃなくてオレのことも褒めてくれよーなあなあー」
 わざとらしい泣き言を言いつつ、ガシッと僕と大輔の肩を組んでくる。なんともうっとおしい。
「うるさいぞ、優。というか、やっぱりお前が見つけた場所じゃないじゃないか」
 なんてことを思っていると、同じサークルに所属している大輔がいち早く肩に回された手から脱出した。さすがの運動神経だ。
「そこはまあ、そうなんだけど。この際、細かいことは言いっこなしということで」
「大事なことだ、アホ」
「そうだよ、優。もう少し協力してくれたらもっと早くに見つけられたんだぞ」
「なんだよぅ、二人してー。オレの味方は真斗だけってことかよぅ~~~~」 
「ああ、なんていうか、僕も微妙かな」
 肩に回された腕の中で僕が苦笑すると、さらに笑いが起こった。大学の講義室並みに広い広間に笑い声がこだまする。
「あれ~盛り上がってるね~みんな」
「なんの話してたのー!」
 するとそこへ、一時間ほどぶりに賑やかな声が飛び込んできた。透子に春香。その後ろには芽衣もいた。
「いーや、このペンションを見つけたのは優じゃないって話」
「えーまだその話ー? もういいでしょー」
「それよりもさ、見た? 裏手にテニスコートとか噴水とかあったよ! マジすごいから後で見て来なよ!」
「私たちはさっき見に行ったから。ぜひ」
 どうやら僕らがくだらない議論を再開しているうちに、彼女たちは一足先にペンションの中や外を見て回っていたらしい。さすがの行動力だ。
「へえ! じゃあ後で俺たちも見に行こう。なんなら自由時間に男子四人でダブルスでもするか?」
「おっ、いいねえ~。大輔、昨日のリベンジマッチと行こうかあ!」
「僕はテニスそんなに得意じゃないんだけど」
「ボクもだね」
「大丈夫大丈夫。スポーツは楽しんだもの勝ちだし、教えてあげるからさ」
 和気あいあいとさらに話題が盛り上がってきたところで、ポンッとどこかで通知音が鳴った。
「あれ~? 誰のスマホ~?」
「もしかして、電波通じてる?」
「おいー、優ー! 電波届いてたらどうするんだよーー」
「ええ、こういう時だけオレ~~?」
 いじられる優を傍目に、僕の興味の先は壁際に置かれたノートパソコンにあった。大きめのモニターに繋がれ、起動した後の初期画面が表示されている。今の音は、あのパソコンから鳴った気がする。
「いやたぶん、あそこのパソコンからみたいだけど。正一、あのパソコンって?」
「ああ、きっとここの備え付けのパソコンじゃないかな。管理会社に連絡取りたい時とか、あとは普通にネット使いたくなった時用のパソコンがあるって予約サイトに書いてあったし」
「へえ、じゃあもしかして、管理会社からの連絡とか?」
「かもしれないけど、確認しておく? 先生まだ来てないけど」
「うん、しておこうか」
 大輔が頷き、正一は引き出しの奥からマウスを取り出してパソコンを操作し始めた。僕らがパソコンの周りに集まろうとしている後ろで、春香たちが「じゃあ、私たちは後ろのテニスコートで遊んでくるからよろしくー!」とお気楽な言葉を発しているが気にしないでおく。これから卒論の進捗報告会だというのに。あとで先生に怒られるぞ、ほんとに。
 大輔と顔を見合わせて肩をすくめていると、正一が「え」と声をあげた。なにか見つけたらしい。
「なんだった、正一? 業務連絡のメール?」
 僕は尋ねつつのぞきこむ。と同時に、春香たちが開け放った扉から、ふわりと風が吹き込んできた。本当に行く気か、あいつらは――。
「――え」
 視線はパソコン、注意は後ろ。
 何気なく画面を見つめ、呆れながら後方の女子たちを見送っていた僕の口から、思わず乾いた声が漏れた。
「な、なんだよ……これ」
「え、うそ……だろ?」
 大輔たちも、絶句していた。
 十五時ちょうど。
 メールが届いていた。
 件数は、一件。
 件名には、『邑木智彦の本性』。そして、

『邑木智彦は、性犯罪者。
 小児性愛による強姦未遂の前科あり。
 鬼畜の所業を罰するべく、ここにその末路を載せる。』

 メール本文にはほかに、いくつかの写真が載せられていた。
 どれも、地方新聞の切り抜きだった。
 邑木智彦なる人物は過去に二度、女子児童に性的暴行を振るおうとしたことがあること。
 そのうちの一度は実の娘に対して行ったものであること。
 数十年に及ぶ懲役刑に処せられたことなど。
 その衝撃的な内容に反して、とても小さい記事だった。そういえば、あの頃は大規模な災害に関する内容が紙面の多くを占めていたっけかと、頭の片隅でその理由を追求した。
 そして最後に載せられた写真に、僕らは思わず目を背けた。
 崖下に転落し、頭から血を流している邑木先生だった。
「どうしたのー?」
「なになに~? イタズラメールのURLクリックしたらいかがわしいサイトに飛んじゃったとか~?」
「そんなベタなこと、あるかな」
 広間から出て行く春香たちも取って帰してきて、画面をのぞきこむなり「ひっ!?」と短く悲鳴を上げた。大きな金切り声じゃなかったのは、添付された写真の画質が決して良くはなかったからだろう。
 そこへ続けて、もう一度通知音が鳴った。
 全員の肩がびくりと震える。
 どうしようか。
 これは、いたずら?
 たぶん、そうだよね。同姓同名とか。
 ありえない。悪質。
 でも、誰が?
 ひそひそと声が聞こえる中で、マウスを握っていた正一がおもむろに通知欄をクリックする。
 そしてそれは、画面に表示された。

『赤嶺舞を殺したやつは、誰だ?

 私は、赤嶺舞を殺したやつを許さない。
 懺悔の部屋で自らの罪を告白し、償え。
 さもなくば、全ての本性と悪事を晒して息絶えるがいい。』

 全員の声が、止んだ。

 *

「…………ははっ。これ、なんの冗談だろうねー」
 大学の講義における質疑応答を求められた時よりも遥かに長い時間の沈黙のあと、ひときわに明るい声が発せられた。春香だった。
「ほ、ほんとだよね~。冗談にしては、タチが悪すぎるっていうか~。誰、って感じ」
「オ、オレじゃないからなっ!? 断じて、オレじゃないから!」
「優。そんなにうろたえなくても大丈夫だって」
 春香が話し出したのを皮切りに、それぞれが思い思いの感想を述べる。凍っていた場の雰囲気が、ゆっくりと弛緩していくのがわかった。
 それにしても……。
 僕は改めて、メールの本文を見つめる。
 赤嶺舞。
 懐かしい、名前だった。
 まだあれから……彼女が亡くなってから、二年も経っていないというのに。
「――い。おい、真斗?」
「え? な、なに?」
 薄れかけていた記憶が蘇ろうとしていたところで、大輔に声をかけられた。僕は慌てて、パソコンから目を逸らす。
「イタズラだと思うけど、ひとまず邑木先生の様子を見に行こうって話。ショックなのはわかるけど、とりあえず行くぞ」
「ああ、うん」
 確かに。赤嶺舞のこともそうだけど、今一番の心配は邑木先生だ。あの写真が本当だとは思えないけれど、今ここに先生がいないのは事実だ。
「たぶん加工だとは思うけどね~」
「画像も荒いし、なんかブレてるもんねー」
「それでも、先生が心配だ。ほら、行くぞ」
 僕らはガヤガヤと話をしつつ広間から出た。先生の部屋があるのは一階。左右に伸びる広い廊下のうち、右側の廊下を進んで突き当たりを二度曲がったところにある奥から二番目の部屋だ。当時の洋館らしく雰囲気を出すためか、いやに薄暗い廊下を僕らは進んでいった。道中、不安を紛らわせるためか、みんな近くにいる誰かと必ず話していた。
 そして先生の部屋の前で、僕らは立ち止まる。「開けるぞ」と先頭に立った大輔が低く言った。
「先生? もしかして寝てるんですか?」
「起きてくださーい」
「センセ~?」
 みんなが口々に邑木先生の名前を呼んだ。けれど、部屋の中には誰もいなかった。邑木先生の持っていたリュックがベッド脇に置かれているくらいで、荒らされたような跡もなく僕らの部屋と同じように綺麗だった。
「いない、ね」
「うん……」
「どうしよっか……」
 不安が大きくなってくる。でも、まだそうだと決まったわけじゃない。
 なにやら考え込んでいた正一が、「トイレに行っているのかもしれない」と言った。なるほど。確かに、先生はよくお腹を下しがちだったからあり得るかもしれない。僕たちは一階と、念のため二階にあるトイレに行ってみた。けれど、どちらにも先生はいなかった。
 次に「このペンション、そこそこ大きいから迷っているのかもしれないねー」と春香が言った。僕らは二手に分かれて、それぞれ一階と二階を探すことにした。春香と透子と優と正一は二階を、僕と大輔と芽衣は一階を探すこととなった。
「この先のドアから、裏手に出られるみたい」
 女子たちは先に館内を見て回っていたらしいので、芽衣を先導に僕らが後ろからついていく。春香が言った通り、中は想像以上に広かった。廊下が右に左に前にと伸びていて、ちょっとした迷路みたいだ。これなら迷っている可能性のほうが高い。
 先生の名前を呼びつつ芽衣が正面のドアを開けると、眩しい光が溢れてきて思わず目を細めた。
「この先は?」
「まだ行ってないけど、たぶんもうひとつの山道じゃないかな」
「ああ、そういえば事前に見た地図にもかいてあったかも」
 正一から手渡された地図には、確か二つの道があった。ひとつは僕らが登ってきた道で、もうひとつは車でも通れるほどの比較的大きな舗装された道だ。邑木先生がせっかくだからと言うので歩いて登ったが、本当はこっちのほうから来るはずだったっけ。
「もしかして、散策に出かけたとか?」
「んー。ありえなくはないけど、卒論の進捗報告会やるって先生もわかってたはずだからなー」
 僕の言葉に大輔は首をひねる。芽衣も同意見のようで、小さく頷いた。僕も言っておいてなんだが、それはないだろうなと思っていたので異論はなかった。
「とりあえず、東側も探してみるか」
「ああ」
「そだね」
 僕らは頷き合い、踵を返した。扉を閉じていくにつれて、薄暗い廊下に差し込んでいた光が細くなっていく。
「……あれ?」
 その時、すぐ隣から疑問の声が聞こえた。芽衣がなにかに気づいたらしく、小走りで近くの壁にかかっていた絵画の前まで寄っていく。
「どうした、芽衣?」
「なにか見つけたのか?」
 僕と大輔が顔を見合わせると、芽衣は静かに「これ」と絵画の下にあるプレートを指差した。ちょうど裏口の扉から降り注ぐ光がプレートに当たり、先ほどよりも見えやすくなっている。
 僕らも芽衣に続いてプレートを見ると、そこには「懺悔」と彫られていた。
 つい最近、どこかで見たその文字に僕は身を硬くする。
「懺悔って、メールに、確か……」
 大輔のつぶやきに、僕もハッとした。そうだ。あのイタズラメールの本文に「懺悔の部屋」とかなんとか書かれていた。
「うん。私たちも、部屋の中までは見なかった。懺悔の部屋って、もしかしたら、この部屋かも」
 ドクン、と心臓が跳ねる。
 ――懺悔の部屋で自らの罪を告白し、償え。
 確か、メールにはそう書かれていた。
「どうする? のぞいてみる?」
「ああ。もしかしたら、あのイタズラメールについてなにかわかるかもしれない」
 僕の問いに大輔が頷き、そっとドアノブに手を触れた。ゆっくりと回すと、なんの抵抗もなく扉は音を立てて開く。
 中は遮光カーテンが閉め切られ、真っ暗だった。すぐ近くの壁にあるスイッチに手を触れ、電気を点ける。
「うわっ!?」
「なっ!?」
「きゃあああっ!?」
 三人の悲鳴が、館内に響いた。
 僕は思わず、口元を押さえる。
 部屋の中央には、大きな丸テーブルが置かれていた。
 ご丁寧に白のテーブルクロスまで敷かれたその上には、所狭しと凶器が並んでいた。
 何本もの出刃包丁にカッターナイフ、金鎚や斧、挙句には本物かどうかわからないが小型の拳銃まである。
 僕らは部屋の中に入れず、入り口で立ち尽くした。
「なに、どうしたのっ!?」
「なんかあったのか!?」
 悲鳴を聞いてか、足音を響かせて春香たちが駆けつけてきた。そして僕らと同じく室内を見て小さく悲鳴をあげ、すくんだようにその場から動けずにいた。それほどの恐怖が、僕らの中には渦巻いていた。
 ……いや。あるいは、僕の中にある恐怖のほうが強いかもしれない。
「い、いやっ! ウチ、もう帰るーーーっ!」
 その時、春香が耐え切れなくなったように叫び、走り出した。
「あ、おい!」
「春香!」
 近くにいた優の伸ばした手をすり抜け、透子の呼び声も無視して足音がこだます。
「おい、追うぞ! 今このペンションの中は危険だ!」
「っ、ああ!」
 大輔の声に、僕らは一斉に春香の後を追う。ひとりになることは危険だ。あの凶器を用意した得体の知れない誰かが、今も潜伏している可能性が高い。
 僕らの足音以外は静かな館内を駆け抜け、正面玄関のあるホールに続く扉が見えたところで、再び叫び声が聞こえた。
「な、なんでっ!? なんで開かないのよぉーー!」
「おい、落ち着けよ春香! オレが開ける!」
 ドアレバーを壊れんばかりの勢いで動かしていた春香を押しのけ、優が扉を開けようとする。しかし、何度やっても片開きの分厚い扉は低い音を出すばかり。どうやら鍵がかかっているらしく、その鍵を開けようにもサムターンではなくシリンダーだ。
「なんで!? なんで鍵なんか! だれよぉ、かけたのはーー!」
「くっ、もしかして、どっちも鍵穴のタイプか!?」
「この建物の中にいる誰かが、鍵をかけた……?」
 不安がどんどん強く渦巻いていく。ドクドクと心臓が嫌な鼓動を立てて暴れている。
「おいっ、ほかにホールに出られる通路はないのか!?」
「な、ない……あたしたち、見て回ってたけど、ここの、ドアだけで……」
「じ、じゃあ裏口は!?」
「あ、さっきの部屋がある廊下の奥、裏手に出られるドアだった!」
 大輔が思い出したように叫ぶと、僕らはまた一斉に走り出した。一番取り乱していた春香は優が手を引き、ほかのみんなは我先にと廊下を走る。
『懺悔』
 それだけが書かれたプレートと、黒の背景にどこぞともしれない街の風景が描かれた絵画が近づいてくる。
 ――真斗くん!
 彼女に名前を呼ばれた気がして、僕は慌てて首を振った。
「あ、開いてる! 出るぞ!」
 大輔の声とともに僕らは裏口から飛び出し、そのまま舗装された坂道を下っていく。
 山道特有の曲路を転ばないように、しかし確実に急ぎ、焦りつつ。
 大輔が時折全員が来ているかを確認していたが、とても僕にはそんな余裕がなかった。副ゼミ長なのになんとも情けない。
 そうしてなんとか全員が這う這うの体で中腹近くまで差し掛かったところで、僕らは愕然とした。
「え……な、なんで……」
 両脇を斜面で覆われ、狭まった道路の先。
 確か地図では、大きな河川を渡るための石橋があったはずの場所。
 しかし目の前には、僕らの背の何十倍もの高さがある土砂が濛々を土煙を上げて積み上がっていた。
 土砂崩れが起き、道が塞がっていた。
 ポツリ、となにかが顔に当たった。
 雨だった。
 山の天気は変わりやすいという。
 どこかで、雷鳴が轟いた。
 僕たちは、仕方なくペンションに引き返した。

 *

 窓の外は完全な豪雨だった。時節閃く雷光が、僕らの影を濃くしては消していく。
 僕らはひとまず最低二人以上で行動することを取り決め、濡れた服を着替えてから広間に集合した。
 メールを受信してから、既に二時間が経過していた。相変わらず、先生は姿を見せることもなければ連絡もなかった。少なくとも、先生の身になにかがあったのは確かだった。そしてそれは、備え付けのパソコンに送られてきたメールと『懺悔の部屋』にあった凶器を思い起こせば、想像に難くなかった。
 それから軽く話し合ったあと、僕らの中で一番パソコンに詳しい正一が備え付けのパソコンから助けを求められないか試し、体力のある大輔と優が裏口から出て屋敷伝いに正面玄関側へ回れないか確認することとなった。
「……っ。やはり、ダメみたいだ。外部との連絡ができないよう、メール閲覧以外の一切の機能に制限がかけられている」
「それは、解除とかできないの?」
「無理みたい。パスワードを設定するフリーソフトかなにかの類みたいだけど、こういう単純なのが一番厄介なんだ。既に間違ったパスワードが何度も打ち込まれてる。次にパスワード入力できるのは五七八日後だって」
「一年以上先……まいったね」
 正一の返答に、僕も堪らず息を吐いた。それだけでまた空気がひとつ重くなる。けれど、どうすることもできない。
「くそっ……いったい、なんだってんだよ」
「悪いみんな、遅くなった」
 また沈黙が下りかけていた広間に、次なる希望の優と大輔が帰ってきた。が、その顔を見れば答えを聞かずとも結果はわかった。
「屋敷から東西の森の中に向かって、獣除けの電気柵がずっと続いていた。しかも、電気柵についている安全装置やパワーユニットが壊されていて……あの電気柵を登るのは無理だ」
「じ、じゃあー、電気柵の切れ間を探しに森の中に入っていったらどうかな? もちろん、次はウチも行くし」
「いや、さらに雨足が強くなってる。この雨の中森に入るのは危険だ。それに、山道がそっち側に続いていないことを考えると、おそらく急斜面だったり崖だったりするから無事に下りられるとは……」
「そ、そんな……じゃあ、あたしたちは……」
 このペンションの中に、完全に閉じ込められた。
 頭の中に、絶望の二文字が浮かぶ。
 外界とのアクセスは遮断され、助けを呼ぶこともできない。僕らはみんな大学の近くに一人暮らしをしている大学生で親元から離れており、しかも今は夏休みだ。家族や友達が僕らの異変に気付く前に、邑木先生のように得体の知れないなにかに危害を加えられる可能性が高い。
 広間に沈黙が流れた。
 何度目かになる沈黙。けれど、今回のが一番重かった。
「……メール」
 その時、ふいに思い出したように芽衣がつぶやいた。その声にみんなが反応する。
「さっき来たメールに……『懺悔の部屋で自らの罪を告白し、償え』って、あった。『さもなくば、全ての本性と悪事を晒して息絶えるがいい』とも……。もしかしたら、『罪を告白』して、『償え』ば、私たちは助かる……?」
 ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
 それが誰のものなのか。全員か、あるいは僕のものだったのかもしれない。しかし確かに、芽衣の言葉を皮切りに、その場にひとつの緊張感が走った。
「で、でも、『罪』ってなんなの? あたしたちは普通の大学生で、そんな、償うべき罪なんか……」
「……赤嶺、舞」
 今度はドクンと、心音が聞こえた。
 それが、誰のものなのか。
 考えるまでもなかった。これは、僕の心音だった。
「そ、そうか……! メールに書かれていた『罪』っていうのは、『赤嶺舞を殺した罪』ってことだな!?」
 早鐘を打ち続ける僕の心音を上書きするように優が小さく叫んだ。僕は思わず、窓の外へ目を向ける。遥か先の雲間に、稲光が見えた。あの日も確か、こんな大荒れの日だった。
「ちょ、ちょっと待って……! それってつまり……二年前に舞を殺したやつが、この中にいるってこと……!?」
 続けて響いた雷鳴のあと、春香がヒステリックに叫んだ。悲鳴にも似たその問いかけに、しつこい稲妻が応えた。
 赤嶺舞。
 二年前まで、僕らと一緒に邑木ゼミで学んでいた同級生。
 小柄で童顔な見た目と無邪気な笑顔に反し、自分の軸はしっかりとあった大学の人気者。
 そして、約二年前に市内にある崖下で焼死体で発見された……僕の、元恋人だ……。
「っ、なら……! その殺人野郎に『罪を告白』させて、『懺悔の部屋で償い』をさせればいいってことだな!?」
「そ、そうよ……! そうすれば、あたしたちは助かる! 助かるっ! 先生みたいに、殺されない……!」
「誰、だれなの!? いるなら出てきてよ!」
 広間に三つの怒声が響き渡った。
 けれど、その叫びに答える者は当然いなかった。
 僕も口をつぐみ、みんな同様俯いていた。
 答えられない。答えるわけにはいかない。
 だって、もしかしたら……――僕が、舞を殺してしまったかもしれないのだから。

 *

「そこまでだ」
 恐怖が漂い始めていた広間に、芯の通った声が駆けた。全員が視線を向ける。
「みんな、いったん落ち着け。これだとメールの送り主の思うつぼだぞ」
 大輔だった。凛と発したその澄んだ声に、優が呆然と口を開く。
「思う、つぼって、どういうことだ……?」
「そのままの意味。俺の予想だけど、赤嶺舞を殺したやつはこの中にはいない。あのメールは、ただのハッタリだ」
「ハッタリって……じゃあなんで、オレたちがこんな目に遭ってんだよ!?」
 優が勢いよく立ち上がり、大輔の胸倉をつかみ上げた。その形相に、僕は思わず腰を浮かしかける。
「それはわからない。だけど、ここで俺たちが冷静さを失えば、きっとそれは送り主の思うつぼになる」
 けれど、大輔は冷静に優の手をとった。そしてそのまま、ゆっくりと彼の肩に手を置く。
「冷静になれ。まず、俺たちは閉じ込められたがここは孤島じゃない。天気が落ち着けば山を下って、大きな焚火でもなんでもして外に異常を知らせることができる。そのためにはまず、全員が落ち着くことだ」
「そ、それは……そうかもしれないけど」
「それに、一応俺たちは食料も多めに買い込んである。少しずつ使えば三、四日はもつはずだ。それにこのペンションには非常食がキッチンに備えてあったし、水もあれば火だって使える。いざとなればその辺の雑草を煮沸消毒して食べればいい。そうしてる間に晴れ間くらい何度もあるだろ」
「ま、まあ……」
「そして全員がなるべく広間で過ごすようにすること。トイレとか広間を離れる時は二人以上で行動し、なにかあれば大声で叫ぶこと。裏口も含めて一応戸締りはしてきたし、目的は違ったが先生を探す時に一通りペンションの中を見回っていたから、変なやつが潜んでいる可能性は低い。きっとどこかで高見の見物でもしてるんだろう。先生の件だって合成写真かなにかかもしれないし、不確かな情報だ。だから、大丈夫だ。ここは落ち着け」
「……」
 流れるような言葉に、優はつかみかかっていた手を力なく下ろした。その様子を見て、僕もそっと胸を撫で下ろす。さすがだと思った。いつも少しクセのあるゼミ全体をまとめ上げているゼミ長の声には、確かな安心感があった。
 それから僕たちは大輔の提案で夜ご飯を食べた。お腹が空くとイライラするという言葉通りか、夕食後のみんなはさらにいくぶんか落ち着いているように見えた。一番取り乱していた春香や優も調子を取り戻し、ぎこちなくも笑いながらソファでくだらない話をしている。
 良かった。きっと僕では、こうはいなかった。大輔がいてくれて本当に良かった。
 ……でも、安心はできていない。
 やはりどうしても、「彼女」の顔が脳裏から離れてくれない。
「よっ、真斗」
「あ、大輔」
 僕が窓の外を眺めつつ考え込んでいると、大輔が声をかけてきた。僕がそれほど深刻な顔をしていたんだろうか。
「なんかあったか?」
 すると、答え合わせとでも言わんばかりに大輔は気遣いの言葉をくれた。まったくさすがすぎる。
「いや……なんでもない」
 小さく苦笑してから、僕は先ほど淹れたコーヒーをゆっくりと喉に流し込んだ。とても苦い。
「わかってるよ。彼女のことだろ?」
 ごくり、と喉が鳴った。いや、鳴らした。ほとんど咄嗟に、僕は大輔を見る。
「恋人、だったもんな。もうそろそろ二年経つってなって、ようやく整理できたってころにあのメールだもんな。動揺するなってほうが無理だよ」
「あ、ああ……まあ、な」
 そういう意味か。
 僕は小さく息をつき、はたと気づいた。
 果たして今、僕の心に浮かんだのはどんな感情だったのか。僕が答えに行き着く前に、大輔はまた口を開く。
「それにしても、舞か……。今思い出しても、悲しいな」
 苦し気に顔をゆがめて、彼は窓の外に視線を向けた。未だに、豪雨がガラスを打ち付けている。
「明るくて無邪気だけど、けっこう芯の通ってるやつで、俺はたまに言い負かされてたっけな」
「ああ、初めてゼミでやったディベートの時とか?」
「そうそう。根拠は充分で口にも自信あったのにな。あの時は完敗だったよ。春香と優っていうおバカップルが同じチームにいたのにな」
「ははっ、そういえばそうだったな」
 そうだ。当時、というか今もそうだが、春香と優は恋人同士だ。それゆえに一緒にいるとすぐに話が別方向に脱線するので、ゼミの活動でも二人と同じグループになった人はかなり苦労させられていた。しかし舞はそんな二人ともうまく連携し、見事に大輔たちのグループに勝利した。今でもたまに話題に出る、僕らの中での伝説のディベート大会だ。
 あの頃は、本当に楽しかった。
 舞はここにいる全員と仲が良く、よく場をとり持っていた。もし舞が生きていれば、ゼミ長は満場一致で彼女になっていたかもしれないと今でも思う。
 僕も舞と円満な関係を築けていて、ゼミ終了後の帰り道で「今日のディベートすっごく緊張したーーー! でも勝ったよ! 真斗、褒めて褒めて!」と無邪気になでなでを要求してくる彼女のことが好きだった。
 でも、もしかしたら僕はあの時、彼女を……――。
 その時、唐突に通知音が鳴った。
「え?」
「い、今のって」
「ま、まさか……」
 一瞬にして、広間に緊張が走る。
 誰もが視線を一点に釘付けにし、遠巻きに睨みつける。
 自然、みんなが距離をとっていた場所。備え付けのパソコンに。
「……っ。ひ、開くよ?」
 一番近くに座っていた正一がおもむろに立ち上がり、パソコンの前に座った。その動きにつれて、僕らもパソコンの前に集まる。
 わかっていた。
 このまま、この状況が落ち着くはずないということに。

『藤堂優の本性』

 十八時ちょうどに受信したメールの件名には、そう書かれていた。
 続くメール本文に書かれていた文言に、その場にいた全員が息を呑んだ。

『藤堂優は、浮気魔。
 ヤることしか考えていない三股常習犯。
 美馬春香も浮気相手のひとり。
 そして、赤嶺舞にも手を出していた。』

 心臓が、恐怖とはべつの感情で大きく脈動した。僕は思わず胸のあたりを押さえる。顔が、手が、熱くなる。
 メール本文のさらにその下には、写真が二枚貼り付けられていた。
 一枚目は、二人の男女が多くの人が行き交う駅前で抱き合い、熱烈なキスをしている写真だった。ただそれだけの写真なら、べつにどうとも思わない。しかしそこに写っていたのは……
「おい、これ……どーゆうことだよっ!?」
「え、え……え?」
 髪色や雰囲気は今と少し違うが、明らかに優と透子だった。
 そこで、一番後ろにいた春香が優に掴みかかった。
「これ、マジなの?」
「ち、ちげーよ! 俺はこんな駅前でこんなことしてねー!」
 優は必死に弁解する。しかし、それが良くなかった。
「駅前でやってない、てことは浮気はしてたんだ?」
「あ、や……ち、ちがくて……!」
「なにが違うの!? 透子もどうなのよ!?」
「あ、あたし、は…………」
 怒りの矛先が優から透子へと向きかけていたそこで、再び通知音が響いた。

『赤嶺舞を殺したやつは、誰だ?
 私は、赤嶺舞を殺したやつを許さない。
 それを庇うやつも許さない。
 今から六時間後の午前零時までに、赤嶺舞を殺したやつを突き止めろ。
 そして懺悔の部屋で罪を告白し、罪に応じた償いをさせろ。
 さもなくば、邑木智彦と同じ運命をお前ら全員が辿ることになるだろう。』

 件名に『本性と悪事を白日の下に』と書かれたメールが、パソコンの画面に表示された。
 その内容に絶句する。
 それと同時に、喉元に刃物を突き付けられたような恐怖を覚えた。
 メールの送り主は本気だ。
 本気で、僕らを殺すつもりだ。
 助かる方法はひとつ。
 午前零時までに、僕らの中にいる『赤嶺舞を殺したやつ』に、『罪を償わせる』こと。
 しかもその場所は、あらゆる凶器が置かれていた『懺悔の部屋』だ。
 つまり、その凶器で『償い』をする必要があるということになる。もしかしたら……僕が――。
「は、ははは……わかった、わかったよ……! 優っ! 舞を殺したのは、あんたでしょ!?」
 そこで、ひときわ大きく春香が吠えた。物凄い剣幕で優を睨みつけるその目に、僕は思わず一歩引く。
 優も一瞬たじろいだが、すぐに食ってかかった。
「は、はぁ!? んなわけねーだろーが! 第一、なんでオレが舞を殺さないといけねーんだよ!」
「このメールに書いてある浮気性が原因なんじゃないの!? ちっちゃくて可愛かったし、だから手を出したんでしょ! そこで言い合いとか喧嘩になって腹いせに殺したんでしょ、どーせ!」
「喧嘩になってねーし、殺してねー! 第一、オレと舞は昔……!」
 そこで、優はハッとしたように口をつぐんだ。その様子を見て、春香がニヤリと唇を歪める。
「オレと舞は昔、なに? ほら、言ってみなよ」
「いや、オレは……」
「優っていっつもそうだよねー。このメールもそうだけど、動揺するとすぐに墓穴を掘るんだから。ほんっと単細胞」
「……っ、てめぇ……!」
「待てって、優!」
 春香に詰め寄ろうとした優を大輔が押し留める。
「なにすんだよっ、大輔!」
「だから落ち着けって! さっきも言ったけど、このままだと送り主の思うつぼ」
「っせえ! 適当な理由で殺人犯にされてたまるかよ!」
 優は荒々しく大輔の手を払いのけると、春香を正面から見据えた。
「……ったく。あーあ、バカらしい。くだらねー。確かによ、昔オレはいろんな女と付き合ってた。三股だって普通にしてたし、お前と付き合ってる時期に、透子とも舞とも仲良くやってたよ!」
「っ! やっぱり!」
「だがよ! 舞を殺したのはオレじゃねー。そもそも、オレが舞や透子と付き合ってたのは高校の時なんだよ。大学生の時じゃねえ。だから、あの舞の焼死体とは無関係だ!」
「そんなの信じられないっ!」
 今度は春香が優に掴みかかった。しかし、すんでのところで大輔が押しとどめる。猛獣のように肩で息をする春香を、優はじっとりとした目で見据えた。
「うそじゃねーよ。それに、舞とはすぐ別れちまったしな。まあでも、この事実も踏まえたらオレ的にはあいつだってあやしいと思うけどなー。なあ?」
 無情に言い放った言葉の矛先を、視線の留め先を、優は春香から、僕へと向けた。
「舞の恋人だった、真斗よぉ?」
 ヒュッと心臓を鷲掴みにされたような寒気を覚えた。
 けれど、僕はすぐにそれを振り払う。
「は、はあ? なにいってんだよ、優」
「しらばっくれんなって。オレは知ってんだ。舞はさ、実際付き合うとかなり面倒なやつだってことを」
 優は金髪を雑に掻き上げつつ、僕のほうへ歩いて来る。
「アホみてーに頑固だし、オレの意見なんて聞く耳すら持たねー。束縛も激しいしよ、それでオレはすぐに冷めて別れた。お前の時もどうせそうだろ? 苦労したんじゃねーのか?」
「な、なにを……」
 ――真斗……私のこと、好きだよね?
 ――ね、ねぇ……! 明日は、どこ行くの……?
 ――本当に好きなら……女友達の連絡先ぜんぶ消してよ!
 唐突に、あの日の彼女の言葉が思い起こされた。涙声が、耳の奥で反響する。
「その表情、図星みてーだな。それで、お前は心底腹が立った。わかるわかる。オレもそーだったから。でもお前はオレと違って優しいからな、どうせ別れようとか言えなかったんだろ。でも腹が立つ。あーちょっと痛い目にでも合わせてやろうって思って、そのまま」
「おいっ、優!」
 目前にまで迫っていた優との間に、大輔が割って入った。優が小さく舌打ちをする。
「大輔、他人事みてえな面しやがって。そういうてめえだって実はなんかあるんじゃねーのかよ。なあ? 舞と幼馴染の大輔くんよぉ?」
「はっ、いい加減なことを」
「もうやめて!」
 そこへ、芽衣の叫び声が響いた。いつもは影に隠れて物静かな芽衣の大声に、全員が驚いて彼女のほうを見た。
「もう、やめて。お願い……」
 芽衣は、今にも泣きそうな顔をしていた。そしてすぐに、一滴の涙が頬を伝う。
「……ちっ」
「ごめん、芽衣」
 優は再度舌打ちをして、大輔はゆっくりと芽衣に頭を下げて、矛を収めた。僕は、なにも言えなかった。
 この時、おそらくみんなが思っただろう。
 きっと僕たちはもう、数時間前のような和やかに話せる関係には戻れないのだと。
 メールの送り主の思惑か否か。僕たちはこれから、疑心暗鬼に身も心も擦り減らしていくのだと。
 そんな僕らを嘲笑うように、雨風が窓をたたいていた。

 * *

 赤嶺舞。
 彼女と初めて出会ったのは、大学に入学してすぐの頃。サークルの新歓コンパの時だった。
「私、赤嶺舞っていうの! よろしくね!」
 桜の下で無邪気に笑う、小動物のような可愛らしい人だった。けれど話してみると思った以上に芯が通っていて、僕とは頭一つ分以上違うのにとても頼り甲斐のある人だと思った。僕と舞は、すぐに仲良くなった。
 楽に単位がとれる、通称楽単の講義がどれか情報を交換し、試験もなるべく助け合えるよう履修登録も可能な限り合わせた。
 それから被っている講義のたびに僕らは顔を合わせ、あいさつや雑談をするようになった。さすがに講義はお互い同性の友達と一緒に受けていたが、試験前は一緒に勉強し、先輩からもらった過去問なんかを交換し合っていた。
 たまたまお互いの時間が空いている時は一緒に昼食も食べたし、交流ラウンジで趣味の話をして盛り上がった。二人とも映画好きでジャンルの好みも似ていたので、一年生の夏休みに入る頃には二人で映画を観に行く仲になっていた。その時には、もうとっくに自分の気持ちに気づいていた。
 そうして僕は冬も間近に迫ったある秋の日、映画を観に行った帰りに公園で舞に告白した。大学生にもなれば僕らは大人で、大人は告白なんかせずに付き合うものだと先輩は言っていたけれど、僕は告白した。僕たちの関係を、このまま曖昧なものにしたくないと思ったから。子ども地味ている、まるで高校生か下手をすれば中学生にも劣るようなしどろもどろの告白だったけれど、舞は無垢な笑顔を向けてくれて、嬉しそうに頷いてくれた。大学一年生の時だった。
 それから僕たちの関係は、友達から恋人になった。舞とは喧嘩なんてほとんどしなかった。二人とも争いごとが嫌いで穏やかな性格だったこともあるけれど、一番はやはり相性が良かったことだと思う。一緒にいて安心できて、自然体でいても苦しくない。映画の話で盛り上がるし、たわいのない話ですら楽しくて話題は尽きない。それは大学二年生になってからも、一緒に邑木ゼミに入ってからも……続くものだと思っていた。
「ね、ねぇ……! 明日は、どこ行くの……?」
 いつからか、舞はいやに僕の行き先を訊いてくるようになった。お互い一人暮らしはしていたが、大学に近い僕の住むアパートに舞は半同棲みたいな感じでよく来ていた。そして出かけるたび、帰るたびにその内容を事細かに教えるようせがまれた。最初は嫉妬していて可愛いなくらいのものだったけれど、それはどんどんとエスカレートしていった。
 あの日も、そうだった。
「真斗くん……私のこと、好きだよね?」
「ああ、もちろん。いつも言ってるだろう?」
「いつも言ってるじゃなくて、ちゃんと『好き』って言って!」
「……好きだよ、舞」
「……なんか、言わされてる感あってやだ。本当に好きなら……女友達の連絡先ぜんぶ消してよ」
 あの日、僕と舞は初めて大きめな喧嘩をした。
 友達の連絡先を消したら連絡できないじゃないか。私以外の女になんで連絡する必要があるの。試験範囲とか過去問の共有とかいろいろあるだろ。いろいろってなに、まさか浮気じゃないよね。なんだよ、僕が浮気してるって思ってるのか。
 したくもない言い合いが二時間以上に渡って続いていた。なんとも不毛で、失うばかりの実りのない時間だった。彼女の怒りはヒートアップし、名刺入れやらティッシュケースやらを投げつけられもした。僕のバイトの時間が近づいてきて、ようやく解放された。終わらせるはずだった翌日締め切りのレポートは、一文字も書くことができなかった。バイト中もイライラしていて、店長にも散々怒られた。
 だから、だろうか。
 あの日のバイト帰り、僕は急いでいた。
 イライラしていて注意力は散漫だった。
 さっさと家に帰って寝たかった。もしかしたら舞がいるかもしれないけれど、もうどうでもよかった。
 降り頻る雨の中、僕は車を走らせていた。
 街中を過ぎ、高台にある坂道を曲がったところで……僕は、なにかと衝突した。
「え、まさか……!?」
 僕は慌てて車を降り、辺りを見回した。道は薄暗く、スマホのライトで照らして車も確認する。決して小さくはない人の顔ほどのへこみが、左側面についていた。
 まさか、人を轢いた?
 血の気が引いた。道路脇に立ち並ぶ雑木林にも入って、人が倒れてないか必死に探した。
 けれど、いくら探しても人はいなかった。ただひたすらに、雨風の音と木々のざわめきが響いているだけだった。やや不安は残っていたけれど、確証もなかったので僕はそのまま帰った。
 そして翌朝。
 ネットニュースを見て、愕然とした。

『県道沿いに遺体 県内の大学に通う女子学生か』

 昨日、僕が通った県道だった。
 そこから先、連日の記事には地獄の真実が続いていた。
 明け方、通行人が県道沿いの崖下にある雑木林から焼死体を発見し通報した。
 しかし死因は全身打撲と脳挫傷による外傷性ショック死。おそらく交通事故によるもので、隠蔽のために火をつけた線で警察は捜査しているらしかった。
 そしてその遺体は、付近に落ちていた荷物や保険証、DNA鑑定の結果などから、僕と同じ大学に通う赤嶺舞だと推定された。
 なにがなんだかわからなかった。
 舞が、死んだ……?
 もしかして、僕が轢いてしまった……?
 でも僕は、舞に火なんかつけてない。そんなこと、するはずがない。
 ならこれは、べつの誰かが舞を轢いて、隠蔽するために火をつけた……?
 あるいは僕が轢いてしまったあとに誰かが? なんのために……?
 そもそもどうして舞が、こんな目に…………?
 僕はショックと混乱から、一週間大学を休んだ。べつの犯人が捕まるか自首してくれたらと願ったけれど犯人は捕まらなかった。
 警察は僕らの大学に何度も来た。僕という容疑者が浮上しているというよりは、ただ純粋に舞の知人のひとりとして話を聞いているようだった。
 僕は訊かれたことにすべて答えた。アリバイがないのも正直に答えたし、車を持っていると言うと見せてと言われて見せたが、そこでは表立って何も言われなかった。へこみについても訊かれたけれど、最近何かにぶつけたのだと誤魔化したら深くは追及されなかった。それもあって、僕が轢いてしまったかもしれないことについては迷いつつも怖くて言えなかった。そうして、本当に驚くほど呆気なく、聞き込みは終わった。
 あれから二年。
 未だに舞を殺した犯人は捕まっていない。
 警察だってバカじゃない。僕の車を見て、ドラマとかで見るような鑑識まで引き連れて捜査していた。そうした捜査のうえで僕を逮捕しなかったのだから、客観的に見れば僕は舞を殺した犯人ではない。
 ただそれでも、事実と僕の心の内とでは話が異なる。今でもたまにあの日のことを夢に見るのだ。その度に僕は汗だくで跳ね起きる。そして悩んで悩んで、またいつの間にか眠ってしまう。
 僕はどうしたらいいんだろう。
 こんな疑念を抱えたまま、真っ当に生きていけるのだろうか。
 生きていって、いいのだろうか。
 そんなことを思いながら過ごしていた矢先に、この脅迫監禁事件だ。
 普通に考えれば、告白するべきなのかもしれない。
 本当に僕が殺してしまったかどうかはべつとして、心当たりがあるのなら名乗り出るのが筋かもしれない。それにメールの送り主が、そう思い込んでいる可能性だってあるから。
 でも、僕は怖い。
 名乗り出て、そんな心当たりがあるなら確定だろと怒鳴られて、袋叩きに遭うのが怖い。
 あの凶器ばかりの『懺悔の部屋』で『償い』をするのが、死ぬのが、怖い。
 そしてなにより。
 僕の中にある「本性」が、怖い。
 僕はここまで、恋人だった舞が誰かに殺されてしまった怒りよりも、自分が殺してしまったかもしれない恐怖とそれに対する自己保身の気持ちのほうが強かった。自分のために平気で二年以上も嘘を吐き続け、隠し通している。自分はこんな人間だったのかと、自分の人間性を自覚して、その有り様に呆れ、恐怖している。

 僕はこれから、どうしたらいいんだ……?