翌日、私たちは身軽な格好で渋谷の街に繰り出していた。
 “都会のオアシス温泉庭園”は渋谷の街中にある大きな商業ビルの屋上に新しくできた温泉施設だ。自宅のある幡ヶ谷から電車ですすっと行くことができるので、とっても便利。温泉だけじゃなくて、サウナやマッサージ施設、ちょっとしたカフェ、Bar、子供向けの縁日なんかも備え付けられている。女子同士の遊びやカップル、家族連れまで一日中楽しめる施設として、最近人気らしい。

「うわーめちゃくちゃ楽しそう!」

 入場ゲートを潜った途端、目の前に広がる未知の世界に、瞳を輝かせるカオル。まるで子供みたいだ。隣を通り過ぎていった小学生らしい子供たちが、私たちの方をじろじろ見ていた。

「温泉もサウナもマッサージもあるけど、どこ行く?」

「そりゃ、全部でしょ! まずは温泉で身体を温めて、サウナでデトックス! 仕上げのマッサージしたらもう最高じゃない? あ
あ、もう想像だけで昇天できるかも」

「いや、妄想で死なないで。でも全部満喫するのは賛成」

「でしょ? ほらほら、早く行こうよ。温泉が私たちを待ってる!」

 ハイテンションの彼女に、何年振りか分からないくらい久しぶりに手を引かれて、これまた数年振りに温泉に向かう。着替えを済ませ
て温泉へと続く扉を開くと、もうもうと立ちこめる湯気に全身を包まれた。石畳になった地面の上を転ばないようにそろりそろりと歩く。「もー遅いよ日波!」と、今にも転びそうな勢いで湯の中へと入っていくカオルの背中は、腕や足と同じくらい潔く日に焼けていた。

「はあ〜気持ちいいっ! すべすべしてて最高! 温泉入ったのなんて何年振りだろー。やっぱり日本の温泉はいいね」

「ずっと海外にいたんだっけ? 何年くらい?」

「今回は二年かなあ。でもそれ以外でも一ヶ月とか、二ヶ月単位でちょくちょく行ってるから、もう三年くらいは海外で暮らしてるっ
て感じ」

「へえ。じゃあ英語もペラペラなんだね」

「まあね。でも日本に帰ってずっと生活してたら多分忘れちゃう。まあ別に、日本で過ごす分には使わなくても平気なんだけど」

「大丈夫だよ。私と一緒にこれからも暮らすんだもんね」

「そうそう! 日波と暮らすんだから、もうずっと日本にいるって」

 最初は温泉の心地よさに彼女との会話も途切れがちになるのかと思っていたのだが、話しているうちに心が踊りだすのを感じていた。
 カオルと会話をしていると、高校時代のあの頃に戻ったみたいだ。
 本当は私だって誰かと結婚したいし、女子同士のルームシェアがずっと続いていくとは思えない。でも、カオルとだったら続けてもいいかな、なんてすでに思い始めている。それぐらい、カオルの持つ圧倒的な華やかさに酔いしれてしまいそうだった。

「日波はさー、結婚とか考える?」

 今、まさに「結婚」というワードが脳内でちらついていたところだったので、無邪気なカオルの質問に、どきりと心臓が跳ねた。

「う、うん、まあね。私もそれなりの歳だし……」

「ははっ、それを言ったら私もだよー。私なんてもう三十だし?」

「私だって、来月三十です」

「それもそうだね。同級生だし。で、ずばり結婚できそうな予定の相手は?」

 クイズ番組の司会者みたいなノリで、拳でマイクをつくって私の向けてくるカオル。私は、苦虫を噛み潰したような心地で「いません」と答えた。口の中でじゃり、と嫌な感触さえしたような気がして咄嗟に口元を覆った。もちろん何も吐き出されなかった。

「そっかー日波、モテそうなのに」

「モテそう? 私が?」

「うん、だって女の子らしいし。少なくとも変人の私よりはモテるでしょ」

 まさかカオルが私のことをそんなふうに思っているとは思わなくて、目を瞬かせる。

「変人の自覚、あるんだ」

「もー失礼だな! そりゃ私だって分かってますよ。私は変人なんですう。高校時代から……いや、小学生時代から変だって言われまく
ってますっ」

 先に自分のことを「変人」だと言ったのはカオル自身なのに、むくれている彼女が可愛らしくて、思わず手を伸ばす。

「ん、どうしたの日波?」

「ごめん、なんでもないっ」

 カオルの頬に触れかけていた手を咄嗟に引っ込める。危ない危ない。どうしたんだろう、私。カオルのことが、なんだかすごく愛しく思えてしまって。許可なしに身体に触れるなんて、たとえ女同士でもいい歳した大人がやることではない。

「結婚は墓場だっていうじゃん」

 肩まで浸かっていた身体をすっと出して、半身浴状態になったカオルが唐突に言った。

「私はさ、墓場だとは思わないんだよね。って、ろく恋愛経験もない私が言うのもなんだけど。好きな者同士で暮らすのに、墓場はないよねえ。楽しいことだっていっぱいあるはずなのに」

「……そうだね。でも確かに、時々虚しくなることもあるのかも」

 私の言葉を意外に思ったのか、カオルが目を丸くした。

「へえ、さすがモテ女は違うね。結婚生活で虚しくなることもあるか。女同士だったら虚しくならない?」

「たぶん、ならなない。恋愛したい人にとっては物足りないのかもしれないけど、少なくとも空っぽにはならないよ」

 結婚したこともないのに、どの口が言うんだか。
 自分自身に悪態をつきながら、カオルの表情が「目から鱗」とでもいうように開いていくのを見てちょっとだけ気持ちよく感じた。馬鹿だな、私。カオルの純粋な心にわずかばかりの毒を垂らして満足しているなんて。しかも、彼女は毒なんてまったく効いていない様子でただ全身で私の言い分を受け止めてくれていた。

「空っぽにならないんだったら、安心した。私、日波が私と暮らすの嫌だなって思ってるかもって感じてたから」

「……嫌じゃないよ。むしろ、ありがたかった」

「そう? なんか照れるなー。嬉しい」

 そうだよ。結婚したいと思えるほど好きだった男にフラれて、一人で職場と自宅を往復する毎日なんて、きっと心が耐えられなかった。妖精のようにどこからともなく現れたカオルに、私は救われているんだ。

「んじゃ、これからも遠慮なく迷惑かけまーす!」

「いや、迷惑はかけないで」

 わっはっは、という女子らしからぬ豪快な笑い声を上げたカオルから、近くに温泉に浸かっていた別の女性たちがそっと距離を置いた。私は構わずにカオルと一緒になって笑う。お湯を掛け合って、顔から水を滴らせる。高校時代に水泳の授業で水の中ではしゃいでいた時の清々しい気持ちを思い出した。真面目に授業を受けなさいと先生から怒られたけれど、二人の世界にはひび一つ入らなかった。

 その後、“温泉庭園”で宣言通り、サウナとマッサージを満喫し、Barでモヒートを一服した。鼻から抜けるミントの香りに、温まった身体がさらに癒される。なんだこれ、最高じゃん。ぷはーっと息を吐くカオルがやっぱり眩しくて、私もつられて豪快にお酒を飲み干した。