「ただいま」
 
 なんとか自我を保ったまま幡ヶ谷(はたがや)三丁目にある自宅へと辿り着く。誰もいない部屋なのに、つい「ただいま」と呟いた。
 1LDKの家は、一人暮らしをするには十分に広い。
 それもこれも、健太がいつ泊まりにきてもいいようにと選んだ部屋だからだ。会社から出るわずかばかりの家賃補助で高い賃料を払っていた。東京の中ではまだ安い方だけれど、地方に住んでいる人からすれば十分に高い家賃だ。さすがに、この歳にもなればユニットバスは嫌だし、間取りや内装にもそれなりにこだわりがある。不動産会社でいろいろと要件を伝えて、高過ぎない家賃で理想を叶えてくれる家が今住んでいるマンションの一室だった。

 今日は仕事をしていないはずなのに、働いた後よりもずっと身体が疲れている。何も考える気力がなくて、スマホを放り出してベッドにぼふんと身を投げた。

 時刻は午後六時半。いつもならお腹が空いてくる時間なのに、今日ばかりは彼からフラれたショックで食欲が沸きそうにない。せめて何か栄養を摂取しなければと冷蔵庫を開けたけれど、普段からほとんど自炊をしない私は、冷蔵庫に気の利いた食品のストックは持ち合わせていなかった。

 料理は健太がしてくれたからな……。
 同棲こそしていなかったが、健太は頻繁にうちに上がりこんでいた。彼は実家暮らしだったので、私の方が彼の家に行くことはなかった。イタリアンレストランを経営することを目標にしていた健太だったので、彼の料理は文句なしに美味しかった。特に好きだったのはラザニアと、特製手作りマルゲリータ。どちらもトマトの香りが鼻から抜けて、私の好みに合っていた。普段からコンビニ弁当ばかり口にしていた私は、健太の料理を食べる時ほど幸せだと感じる時間はなかったのだ。

 そんな健太の大好きなご飯も、もう食べられなくなる。
 一気に現実の世知辛さを思い知り、枕に顔を沈めて泣いた。
 この歳になれば、失恋で泣くこともないんだろうって勝手に想像してた。でも違う。失恋はいつだって辛く、まるで自分が十代の少女に戻った時みたいに感情の整理がつけられなくなる。いや、むしろアラサーという年齢だからこそ、傷つく量が増えているのかもしれないな。

 枕に必死に顔を押し付けているのに、涙がとめどなく溢れた。このまま、夜が明けるまで枕を濡らし続けるのかもしれない——なんて本気で考え始めた時だ。

 ピンポーン

 部屋の中に軽快なチャイムの音が響き渡り、全身がぴくりと跳ねた。
 宅配か何かだろうか。
 それなら、玄関先に置いてもらうように伝えよう——と、インターホンの画面に近づいた。ちなみに我が家はオートロックではないので、インターホンを鳴らした人はすでに玄関の前にいることになる。

 玄関外の映像を映し出す画面を見てびっくり。そこに映っていたのは明らかに宅配の人ではない。

「はい」

 訝しく思いながら、「通話」ボタンを押した。
 女の人だった。歳は自分と同じくらい——いや、というか、知っている人だ。
 記憶の中でショートカットだった彼女からは想像もつかないほど髪の毛が伸び切っていて、肌も陽に焼けてこんがり茶色みを帯びていた。が、彼女のことを認識できないほどではない。次の一言を放とうと思った瞬間、画面の向こうでこちらの返事を聞いた彼女が「おお」と口を開いた。