カオルが出て行ってから二日が経った。彼女がいなくなった幡ヶ谷三丁目の我が家は、以前にも増して静かだった。カオルが来る前、健太がうちに来ない日だって同じだったはずなのに。一人暮らしに戻っただけなのに。どういうわけか、大切な色を失ってしまったかのように心許なかった。

 それでも私は仕事に出かける。
 朝ごはんに食パンを食べて、昼は外食をし、夜はコンビニ弁当。完全に独身OLのそれだが、私はそういう人間だったのだ。家と職場の往復。幡ヶ谷の街の風景は、冬が近づくにつれて鈍色に沈んでいく。一年前も、二年前も同じだった。今年もいつも通り。何も心配することはない。そのはずなのに、心の空洞がどんどん広がっていることに気づいた。

 ドンドンドン。
 木曜日の夜八時、コンビニ弁当を温めていると玄関を強く叩く音が聞こえてきた。なんだ、と咄嗟に身構える。こんな時間に誰? 宅配の人ならチャイムを鳴らすはずだ。いきなり扉を叩くなんて、もしかして不審者? いや、不審者ならそんな分かりやすい物音は立てないだろう。心臓がドクドクと暴れ出す。ドンドンドン。再び響いた不快な音。放置していることもできず、恐る恐る玄関に近づいた。息を殺して覗き穴を覗く。そこに佇んでいる人の顔を見て、「あっ」と声が漏れた。

「日波? いるんだろ。ちょっと開けてくれない」

 二ヶ月ぶりに聞いた男の声に、全身がぴくりと反応する。頭では拒絶しているのに、身体は無自覚に彼の方へと吸い寄せられる。野生的な自分に、辟易とした。

 気配に気づかれてしまっては、居留守をすることもできない。
 私は、仕方なく玄関の扉を開けた。

「よう。久しぶり。元気?」

 まるであの代々木公園での別れ話などなかったかのような口ぶりで片手を上げる健太。黒いパーカーに、黒いパンツという出立ちに、これまではなかった無精髭を生やしている。見る人が見れば不審者に思わなくもないだろう。

「久しぶり……なんの用?」

 すぐに追い返すこともできたのに、不覚にも、健太と話したいという感情が湧き上がってしまっていた。たった二ヶ月で、五年かけてたっぷり育てた恋心が消えることなんてないのだ。あまりにも陳腐で滑稽な失恋の教訓を思い知って、泣きたくなった。

「あれ、言ってなかったっけ? 日波の家に置いてきた俺の私物、取りに行くって連絡してだろ」

「連絡? ああ——」

 そういえば、そんなメッセージを見た記憶がある。でも、あれはいつだ? 確か別れを告げられたその日、カオルが我が家にやってきた日じゃないか。
 二ヶ月も前に連絡をしたことを、今更?
 私だってもう忘れていたのに、二ヶ月後にフった女の家にのこのことやってくるこの男の神経が分からない。そう思うのに、私は「どうぞ」と素直に彼を部屋に上げてしまっていた。本当に救いがない。

「悪いな。ちょっといろいろ立て込んでて遅くなっちまった」

 言葉とは裏腹に悪気のない様子で、私の部屋のタンスや洗面所から自分のものを回収していく健太。私はその背中をぼんやりと見つめていた。健太が、この家にいる。久しぶりすぎて感覚が追いつかない。もう二度と触れられない背中を見て、身長百六十五センチのカオルのしょぼくれた姿と重なった。

「あれ、この家誰か一緒に住んでんの? もしかして男?」

 洗面所で歯ブラシ立てを目にした健太が私にそう問いかけてきた。
 カオルの使っていた青色の歯ブラシが、当然のようにそこにあった。

「ああ、それは」

 私は青色の歯ブラシを掴むと、彼の視線から遠ざけるようにしゃがんで洗面台の棚の中に仕舞い込んだ。

「ふーん。俺のことあんなに好きだったのに、ちゃっかりしてんな」

 頭上から降ってきた、色のない言葉に、私は思わず顔を上げた。

「ちゃっかりしてる……?」

 頭の中で、彼の言葉をうまく整理できない。下から見る健太の顔は、無精髭のせいで表情までよく見えなかった。でも、その目が笑っていないことだけは分かった。

「まさか日波が、こんなにすぐに男つくるなんて思ってもみなかったってこと」

 別れてすぐに男ができたことは悪いことではなくて、ただ素直に驚いた。
 そんな含みを持たせた正真正銘の毒を、上から一身に浴びせられた私は、自分の中で何かの糸が切れるのを感じた。

「何も、知らないくせに」

 ただただ悔しかった。
 結婚したいと思っていた人から、三十歳を目前にして無様にフラれてしまって。忘れた頃に我が物顔で目の前に現れたこの男の言葉に、こんなにも振り回されている。それが悔しくて、溢れそうになる涙をなんとか噛み殺す。鳩尾に力を込める。なんとか自力で立ち上がると、健太の顔を睨みつけた。

 よく見れば、別れた後の二ヶ月で、ぷっくりと頬や顎に肉がついていた。
 二重顎を隠すようにして生えている髭をじっと見つめながら、発狂した虎のように叫ぶ。

「あんたが……あんたが私の前から消えたあとのことなんて私の勝手です! もう二度と、うちには来ないでください!」

 青色の歯ブラシが男のものではないなんて、言うつもりはなかった。
 そんなことを伝えても仕方がない。今はただ、健太という人間の価値を、自分の中で0にしたい。その一心で叫んでいた。
 健太は、ぽかんと口を開けて、無様に吠える私の顔を見た。きっと醜く歪んでいることだろう。やがて、はあ、と深くため息をついた後にこう漏らした。

「……本当、残念な女だな」

 一度は愛したはずの女に対して言う言葉じゃないことが分かって、私はぐぐぐと声を漏らす。

「言われなくてももう二度と来ねえよ」

 唾を吐き捨てるようにして呟いた彼は、回収した荷物とともに部屋から出て行った。