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 三十歳になってからの月日はあっという間に流れた。
 カオルは私の誕生日以来、以前にも増して熱心に仕事を探している様子だったが、一ヶ月後、彼女はまだ就職できていなかった。
 それだけじゃない。
 家に引きこもって冷蔵庫の中身を物色したり、頼んでおいた蛍光灯を変える仕事をやってくれていなかったり。かと思えば、夜遅くまで出歩いて帰ってこないこともある。最近、ひっきりなしに出かけることが増えている気もする。まったく、どこで何をしているのか分からない。大人同士なので、いちいち相手の日々の行動について詮索をするのも憚られた。カオルの本来の自由な性格が、ここにきて裏目に出ているような気がした。

「ほんっとうにごめん! 面接までなんとか漕ぎ着けた会社もあったんだけどさ、やっぱり自分には合わないなって思って辞退しちゃった」

「辞退? もったいないよ」

「そうなんだけど。でも、やりたい仕事じゃない仕事をするって、苦痛じゃん?」

「……」

 カオルの主張に呆れて言葉も出ない。
 確かにやりたくない仕事はやりたくない。
 でも、それならば一企業の事務職員としてさしてやりたくもない仕事を日々延々とやらされている私はなんなのだろう。そして、そんな私の稼いだお金で生活をしているあんたは? 今は、どんな仕事でもやらせてもらえるならば喜んでやるべきじゃないの?
 沸々と煮えたぎる怒りが、喉元までせり上がる。

 ……だめだ、だめ。ここで熱くなったら、せっかく仕事を探してくれているカオルの気持ちに水をさすことになってしまう。
 それに、カオルがいてくれることで、少なくとも失恋直後の私のメンタルは死なずに保たれている。むしろ、楽しい毎日を送らせてもらっていると思う。カオルを失うことを考えると、あまりにも怖い。

 でも……だけど。
 我慢してカオルの分の生活費も払っている私の立場って何なんだろう?

「あーあ、私に合う仕事が、向こうからやってきてくれないかなー」

 ぼふんと、後ろのソファにのけぞるようにして身体を預けて、天井を仰ぐ彼女。その口調の能天気さに、私の怒りメーターはついにMAXまで達してしまう。

「……っ。いい加減にしてっ! いったいいつになったら仕事をしてくれるの? いつになったら生活費を払ってくれるの!」

 1LDKの部屋の中の空気が凍りついた。
 時計の秒針が時間を刻む音が耳に擦れる。
 高校時代、私は一度もカオルに対して声を荒げたことはなかった。

 ただカオルと一緒にいることが楽しくて、そんな彼女に対して怒りの感情が湧くこともなかったのだ。
 大人になって、カオルが変わってしまったわけじゃない。カオルは変わらないままだ。いつも陽気で、他人と歩調は合わなくて、でもそれが潔くて清々しい。ずっと抱いていたカオルのイメージは崩れない。変わってしまったのは、ゆっくりと動いていた船の舵を切って座礁してしまったのは、私の方かもしれない。


 “真面目”で“利口”な私の、突然の豹変ぶりに、カオルが身体を震わせて驚愕しているのが目に映った。両目が開かれて、異星人でも見るかのようなまなざしで私を見つめている。そんなに驚くことだろうか。それともカオルは、私が聖人君子か何かだと思っていたんだろうか。私が切羽詰まった状況で働いていることを、知らなかったとでも言うのだろうか。

「……出てって」

 残酷な響きを帯びた低い声が、獣の唸り声のように響く。自分でも信じられなくて、はたと喉元に触れた。もちろん、おかしいところは何もない。自分の中に虎が眠っていたことを知って戦慄する。私は、獣だ。たった一人の大切な友人に、こんなふうに牙を剥いているなんて——そう思うのに、前言撤回することはできなかった。

 カオルはしばらくの間呆けたように宙を見つめていたが、やがて徐に立ち上がり、ふらふらとした足取りで部屋の方へ向かって行った。私の部屋だ。カオルの大きな荷物がそこに置いてある。荷物をまとめる気だ、とすぐに察知した。小さくなった彼女の背中の裾に触れようと手を伸ばす。だけど、追いつかなくて行き場を失った私の右手はぶらりと垂れ下がった。

「分かった……準備が出来次第、出ていくよ。迷惑かけてごめん」

 今まで聞いたこともないような萎れた声が静寂の中に響く。
 途端、ものすごい罪悪感に襲われて目が眩んだ。でもカオルをこのまま甘やかしていれば、しんどくなるのは自分だと目に見えている。止めるべきではないのだ。時に自分の身を守ることも必要なんだ——そう言い聞かせて、私は暴れる心臓をなんとか宥めた。