高校に入学する春、シャルル・ド・ゴール空港から初めて成田空港に着いたとき一藍は痛切に感じた。
(静かにしてほしい)

 日本は音に溢れている。
 空港も駅も、大通りを歩いていても音楽や無機質なアナウンスが耳に飛び込んでくる。
(賑やかなのは好きだけど、押し付けられるのは嫌い)
 そんな三月末の夕闇の中で、一藍は音の洪水に溺れそうになりながらも若々しい好奇心でそれに打ち克ち、緩やかなメロディーに乗せられたひとつの唄を確かに掴んだ。

 それは大通りにあるBEAMSのショーウィンドウ横に迎えに来ていた小鉄の車に乗り込む時だった。


   ヴェローナのあの2人と
   重ね合わせないでほしい
   鮮やかな魚が泳ぐ水槽越しの恋人の
   運命の行方を知っているから

   住む世界が違うだなんて
   言わせておけばいいじゃない
   僕は君を想い続ける
   踊ることを止めないように


 あ、歌詞が全部わかった。

 一藍は驚いた。
 J-POPが耳から入って心まで届いたのは初めて。
 今までは何を歌ってるか理解できずに聴き流すばかりだったから。

 レオが演じたロミオ、素敵だったな。
 でもジュリエットがとびきり可愛くて。

 ジュリエットを演じていたクレア・デインズの面影と髪の色を一藍は心に浮かべ、自分が一度も会ったことのない母親の髪がクレアと同じ色だったと聴いた日のことを思い出す。
 昔からこの女優の映像を観ると、母のことを想わずにはいられない。
 一藍が生まれる前のこの映画を一藍は一番上の兄と並んで観た。
 この兄とは年齢が二十二も離れている。
 自然と一藍は同じ年齢の子どもに比べ、思考も趣味もクラッシックに傾きがちだ。

J(ジュール)

 運転席から小鉄が機嫌が悪い時の呼び方で一藍に声を掛けた。
「早く乗れ」
 一藍の心を遠くて切ない追憶まで誘拐したこの唄。緑色のPEUGEOTに乗り込んだ瞬間に一藍はその気になる唄と呆気なく隔てられてしまった。
 ロミオとジュリエットみたいに。


 それなのに、また。
 その曲がいきなり一藍の前に飛び込んできた。
 流されるようにして連れてこられたこんな場所でまた出逢うなんて。


 朱里と大喜びで制服を交換している陸上部女子を見て、(JKの心理が見えない)と覚えたての日本語短縮ワードを使って心でそう呟いたその場で、当のJKに頼まれごとをされた。
 一藍は即、断った。
 でも、朱里が女子の部室を借りて一藍の高校のブレザーに着替え、JKにウインクして走り出していったのを見て、気圧されて結局話を再度聞くことを引き受けてしまった。
 そのJK、羽田恭子(はねだきょうこ)に連れられてきた軽音楽部の部室で、一藍はまたこの曲に再会したのだった。

「兄さん」と恭子に呼ばれたドラムの三年生は一藍たちを振り返り、自分だけ演奏を止めて大きく笑う。

「栗栖く〜ん。来てくれてありがとう!」

 一藍は流れている音楽に心を奪われていたから、無言で会釈することしか出来なかった。

「妹から聞いてると思うけど俺は羽田。メンバーは後で紹介する。七月の学祭でこの曲だけボーカル替えたいんだ。ずっとボーカルできる男子探してたんだけど見つからなくてインストルメンタルにするかと諦めかけてたんだわ」

 このあたりの経緯を一藍は恭子から聞いて無理と即答したのに、何故ここにきてこの曲?

「他の数曲はオリジナルも入れて自分たちでバチバチに仕上げるからさ。この曲だけは緩〜くやるから旨く歌えなくてもいいわけ。ぶっちゃけこの曲は栗栖の見た目が絵的に欲しいの。メインボーカルが初めてベースに挑戦するからそっちにスポット当てる。こんな言い方したら悪いけど人前で歌うのがハードル高いとかプレッシャーだと思わず引き受けて欲しいから正直に言うわ」

 羽田が音楽に負けないよう声を張り上げながら一藍の前まで来る。

「栗栖引き受けてくんない?お願い!」
「この曲」
「おう」
「なんてタイトル?誰が作った?」

 一藍はもう一度この唄を聴いてみたかった。

「ダンス・ダンス・ダンス・ダンス」

 羽田は一藍が曲のタイトルを尋ねると、すぐにスマホを取り出して歌詞を見せてくれた。

à gauche(ア ゴーシュ)ってバンド。今Spotifyで流すからこっちきて聴いて。メロディーラインはシンプル。だからお願い。五分俺たちに栗栖の時間をくれ。ステージに立ってほしい」
「さっき俺の見た目がどうのって言った?えてきにほしいってどういう意味?」
「あ〜。栗栖の整った容姿が魅力的で観客を惹きつけるだろうからインパクトあると思ってさ。客寄せパンダみたいな言い方してごめんな?」
「パンダは嫌いじゃないよ。魅力的ってのは誰に対して?JK?…DKに対してはどう?」
「栗栖なんか面白いな。DKにとっても魅力的だよ」
「俺が好きなDKも魅力的だと思ってくれるかな…」
「急にぶっ込んでくるじゃん」
「バンドで歌う自分を今までの人生で一ミリも想像したことない」

 一藍は覚えたての日本語の言い回しを適切なタイミングで使って思いを表現するのも好きだ。

 ほんと一ミリだって、ない。

「うん、ブレイキンの世界も無縁そうだけどさ。なんていうかこの曲全体の雰囲気っていうの?ここの歌詞見て。恭子にいいやついるからって言われて陸上部の練習覗いた時のおまえ見てさ、あ、こいつこのフレーズまんまじゃんって。空見上げながら走ってるやつ初めて見たからさ」

 羽田の指先の歌詞が一藍に流れ込む。


   生きる場所が違うだなんて
   言わせておけばいいだろう
   僕は逆さまでフリーズしながら
   君と空とを見上げてるんだ


  繋がってる、と一藍は思う。
 自分と空とは、分かち難く繋がってるんだ。 

(だから、俺が蒼空に惹かれるのは当たり前ってこと)

 一藍は軽音楽部の暗い部室の窓側まで歩き、校舎の隙間から見える長方形の青空を見ながらそう想った。