走っている間に何を考えているのかという話題は陸上部員の間ではよくある。
 蒼空の学年は棒高跳びをする男子1人以外は皆ランナーで、さらに男女ともに短距離走を得意とする生徒がたまたまおらず、蒼空を含めて中・長距離選手ばかりだった。
 一年を通しての大きな大会は夏休み入ってすぐの七月末から八月上旬にある。
 そこに焦点を当てて練習メニューが組まれている。

 蒼空の学年は基礎的な体力を向上させるため、中距離選手は40分、長距離選手は60分のジョグを隔日で練習メニューに取り入れていた。
 インターバル走や全力で走るタイムトライアル走の練習日は無心で走っている選手も、翌日に1時間ほど快適な速度で黙々と走るジョグの時間にはやはり頭の中であれこれ考えるものだろう。


 蒼空はジョグの時間には新入生が一緒に走ることが多いため、後ろにいる一藍の様子がまず第一に気になる。

 振り向くと空を見ていることがよくあって、苦しくて息を上げているのかと最初は心配したが本人はいたって余裕な息遣いでジョグについてきている。

 自分の勧誘にあっさり応じて一藍が陸上部に入ると言った時、今までどんな運動をしてきたのかを尋ねたら「ヨガと護身術かな」と返事してきたので驚いた経緯があった。

 フランス人の日常がどんなものかは分からないけれど、身近なところでヨギを名乗る人物に蒼空は初めて会った。ヨギーニが多い日本だけど、世の中に男のヨギもいるのは当たり前だよな…と少しずつ一藍を通して視野を広げているところだ。

 第二に気になるのは一藍が我が高校の伝統的なささやかな風習を真似して取り入れていること。
 ジョグの前に先輩たちがトラックに礼をしてから走り始めるのを蒼空も自然に取り入れてやっていたが、それを見て一藍も同じように運動場に頭を下げてから緩く走り出す。
 無理強いさせてはないだろうか。
 こんな気掛かりは他の新入生には感じないということは、一藍を外国人だと無意識に余所者扱いしてしまっているのか。
 蒼空自身が先輩と同じようにしている、こんなささやかな行為は、もし意味を問われるとしたら走るという行為をさせていただくこの場所への敬意とか感謝とかにあたるのだろうか。

 一藍にトラックに向かって礼をする意味をもしこの先に問われても、食事の前に手を合わせてしまったり新年には初詣と称してにわか神道に走る日本人のメンタリティをうまく説明する自信は蒼空にはなかった。
 そんなあれやこれやを真面目に考えてしまう自分は、誰からいちばん遺伝子を引き継いでるんだろう。
 走りながら風を感じているこの身体はそんな遺伝子を未来に送る、今だけの暫定的な容れ物。

 …俺。
  しばらく眺めていたいと言われるような容れ物?


 1時間近く走っている間、何を考えているかと言えばこんなことばかり。
 同級生は、好きな推しの歌声をリピートとか、彼女とのデート時間の予習妄想とか、掛け持ちしてる演劇部の舞台の台詞反芻してるとか様々。

 俺は他に何を思い浮かべてるんだろう?

 『青空の下で彷徨って』という本をあの暗がりの中で最後まで読み切っていなかったら、今も自分は一藍のことを知らないままだっただろう、とかいろいろ。
 自分のすぐ後ろを走りたがる海色の瞳をした後輩。
 黙々と走る他の一年生と違って一藍は時折話しかけてくるから、前より走っている時に一人で哲学的思考の海に潜る時間は少なくなった。
 そして一藍の話すことが思いも寄らないことだったりするから、ジョグしながら大笑いしてしまうこともある。

 部活の時間はもともと好きだったけれど、最近はなんだか心が湧き立って前よりもずっと愉しい。


「蒼空」
「なに一藍?」
「罪悪感って何?」
「…え?何?いきなり疑問が深いんだけど」
「ヤングケアラーがよく使う言葉だってニュースで言ってた」
「一藍、結構語学マニアだよね。意味を深めるのが好きっていうか」
「うん。深めたいね。で?」
「文学的センスがない俺に聞かれてもなぁ」
「蒼空が思っている意味でいい」
「えぇっと…。相手に悪いなぁって思う気持ち、かな」
「あぁ。だからか。真面目だと、このトラップにハマるってニュースで言ってて」
「へぇ」
「ヤングケアラーは自分の人生にブレーキをかけざるをえない…ってアナウンサーが言ったんだ」
「うん」
「で、かけざるをえないって、どういう意味?」
「ぇえ?…説明が難しいなぁ」
 そう言いながら振り返ると、一藍が走りながら期待するようなキラキラした目をして自分を見ているものだから、蒼空は思考を巡らせた。
「外的要因、つまり避けられない状況なんかで自分自身の意思ではどうにもできない事情によって、諦めを強いられるときに使われるんだよ。表現が硬いだろ?諦めモードなわけ」
「しいられるって何?」
「わぁ。それな。困ったな」

 蒼空は思う。可愛いなって。

 誰も、一緒に走る同級生の頭の中の世界やら妄想やら純愛やら悩みやらには気付かない。
 走る時は何を想ってもいい。
 悩みは何だっていい。
 それだけ走ることは自由な行為だ。
 だからこそ、蒼空は今も走り続けているんだろう。
 青春ってこういう普段の日々のことなんだと思っている。
 地味で、滋味に溢れて、ささやかな。
(語学マニアな後輩を可愛いって思う気持ちだって、ささやかなものだよな?)

 上を向いて走り、日本語を追及する語学オタクな青い瞳の後輩が陸上部に入部してくるなんて、予想だにしなかったアオハルな日々だけど。