一藍が他の一年生に二週間ほど遅れて入部した陸上部男子の部室は、無形文化財のように朽ちかけの味わい深い木造だった。
対照的に隣には今風のプレハブがあり、そちらは女子の部室。
(この差は、何?)
正直新しい建物より豊かな時間をくぐり抜けてきた木造の方を一藍は好んでいる。
(そういえば“レディファーストの黒歴史”って記事があったけど…)
一藍は文学からファッション誌まで広くカバーして、毎日わくわくと日本の文化と言語の概念を深めている。
(ブラック企業とは言ってもブラック歴史とは言わない。…この違いは何だろう)
放課後になると一藍は誰よりも早くこの古い部室に向かう。
(走りながら蒼空にまた聞かないと)
走るのは、心地いい。
運動部に入るのが初めての一藍にとって、集団で動くことの煩わしさと体力的な厳しさはあったけれど、一藍は初めて走ることを楽しんでいた。
蒼空が言っていたように走る間はいくらでも好きなだけ空を見上げることもできた。
幼い時は一藍が青空の下で座りこむたびに保護された記憶がある。
白い部屋。
白衣の医師。
何か尋ねられて怖かったこと。
白い服の大人が恐ろしいと感じてその白衣が青色に染まったらいいのにと願ったこと。
自分は病気だったんだろうか。
でも今はもう、空にうつつを抜かしても誰からも何も言われずに済む。
(蒼空のことも見つめ放題だし)
自分の心が一藍自身の走るという行為でひたひたと充たされていく感覚があった。
五月の若葉が美しく影を落とす部室でユニフォームに着替え、素早く飛び出して自分以外まだだれも来ていない部室の木の重たい引き戸を閉める。
一藍はこの古びた戸を閉めるのにまだ両手を使わないといけない。
一藍は苦戦しながらも蒼空が来るのを的確に海色の瞳で捉えた。
二年の校舎の渡り廊下を歩いて近付いてくる蒼空に向かって左手を挙げようとした瞬間、後から影が近付いてきて咄嗟に前から抱きしめられる。
「わ」
「一藍!」
豊かな髪をチェック柄のスカートまで伸ばした影の本体が腕だけをゆるめて顔を離し、一藍と同じ目線の高さで笑っている。
「来ちゃった」
「……何でここに来てるんだよ」
「何でって小鉄の車でよ知ってるでしょ」
「その何で、じゃないの。早く離れて?」
「ひどい!」
「ひどくない。公衆の面前って日本語知ってる?」
「失礼ね。一藍より日本歴は一年長いのよ。先輩って呼びなさい」
「やだよ。俺は短期間で日々新しい表現の仕方を取り入れてる。長く住んでいるかどうかは関係ない」
「へぇ。例えばどんな表現?」
「今日は黒歴史について掘り下げる予定だし」
「誰の黒歴史よ…」
「おまえのことはJKと言うらしい。俺はDK」
「え?DKってドンキーコング?」
「何言ってんの。男子高校生だろ」
一藍を抱きしめている他校の制服の華やかな女子は、女子部室から出てきた一年の陸上部員が目をまん丸にしているのを見て、ようやく照れ笑いをしながら一藍から身体を引き剥がす。
そして相手に近付いていき、強引に一年女子の右手を取って握手をした。
「こんにちは、はじめまして」
「はじめまして、じゃねえよ。理由なく無断で他校に入ったら駄目だろ」
少し怯えた顔をした一年女子に朗らかに初級会話のような挨拶をしている相手を、一藍は手で押しのけながら早口に言う。
「一藍。そんな喋り方するの新鮮でいい!」
一藍は隣のクラスの陸上部の女生徒だけでなく、蒼空も驚いた顔で自分たちを見ていたことに胸がざわついた。
「蒼空…この他校生は」
「一藍の、彼女?」
「違う!」
今までで一番大きな声が出た。
「姉!」
そして今までで一番短く答える。
「「…お姉さんッ?!」」
蒼空と2組女子が声を揃えて叫ぶと、一藍の姉は蒼空に向かって心を込めた仕草でお辞儀をした。
顔を上げると優雅な仕草を引っ込め、人懐こい表情に切り替える。
「波佐美さんね?一藍から聞いて御礼を言いたくて。陸上部にこのコを引っ張り込んでくれてありがとう。私、あなたと同級生よ。今二年生」
「朱里もういいって。御礼って何」
朱里と呼ばれた一藍の姉は、やれやれといった顔を一瞬弟に向けてから蒼空に向き合う。
「話せば長くなるからまた次回。一藍が過ごしている学校がどんなところか見たくて」
朱里が急に言葉を区切り、目だけで蒼空に器用に挨拶してから驚き顔のまま固まっていた2組女子の方を見た。
軽いステップで歩み寄り、相手の両肩にぽんと手を置いて微笑む。
「制服、一時間だけ交換してくれない?」
そう言って、朱里は美しく笑みを深めた。



