「蒼空」
栗栖一藍と漢字で書かれた名前を見て(まんま日本名じゃん)と意外に感じて字面を凝視していたら 名前を呼ばれたので顔を上げる。
下の名前で呼ばれたのは久しぶりだ。
中学以降は、幼稚園からのつきあいをしていた一部を除いてだいたいは苗字で呼び合うようになる。
「蒼空を見ていたいから、ここに少し居てもいい?」
栗栖が海色の目でじっと蒼空を見て、真面目な顔で言う。
「え?俺を?見ていたい?」
「うん」
(俺、観察に値するようなことしてた?)
相手の質問が頭に浸透するまで5秒ほどかかった。
「ここに居るのは構わないよ」
さっき旧校舎で初めて会った時と全く違う。
180度ひっくり返したように言葉を連ねる栗栖は、日本人とは違う率直さで会話を続ける。
「蒼空とあなたの周りの景色はしっかり目に飛び込んでくるから、気分がいい」
個性的な言い方。
しかもあなたって。
そんなふうに教師以外の誰かに呼ばれたこと、今まであっただろうか。
「えっと。栗栖…は」
蒼空が話かけようとすると、栗栖がすぐさま蒼空の口元に手を延してきて発言を遮るジェスチャーをする。
栗栖がフランス人なのかどうか聞こうと思った矢先、優雅な仕草で待ったが掛けられてしまう。
「ダメ!それはみょうじ。俺は一藍」
きっぱりと言い切る弾むようなテンポに、さっきのブロンズ像に何が起こった?と笑えてきた。
(苗字で呼ばれたくない、名前で呼べよってこと?)
過去にそんなことを言われたことがなくて、にわかに愉快さが込み上げてくる。
「一藍」と呼ぶと、一藍がきつい表情をした顔を緩めて頷いた。
(笑える…)
さっき聞こうと思ったことはこの先聴く機会はいくらでもありそうだと蒼空は感じていったん自分の中に引き戻した。
「昼休みが終わってからも一藍は気分良く過ごしたい?」
蒼空は真面目に問うてみる。
「うん。長くあなたを見ていたいと思う」
一藍は声のトーンを少し下げて即答した。
「さっきも…蒼空の上に青空がくっきり見えて、綺麗だった」
蒼空は一藍の言い方が聞き慣れないフレーズだからこそ、物語の続きを自分だけが読み進めているかのように感じる。
(なんか登場人物の台詞みたい)
もちろん相手が心を込めて手渡してきた言葉だと理解している。
それを誠実に受け止めた上で軽口を叩くように勧誘をしてみた。
「陸上部は通年随時部員募集中」
笑いながら言うと、まるで早口言葉を披露している気分になった。
「俺が走っているのをいくらでも。陸上部に入れば、走りながら青空と俺を存分に見ることができるよ」
蒼空が走るのは。
頭の中を空っぽに出来る身体感覚に浸れる時間が好きだからだと思う。
自分の周りの景色がものすごいスピードで移り変わっていく映像。
熱い空気や雨の香りを纏った風や、時には凍るような抵抗感をくぐり抜けるようにして前進していくのは自分の熱源。
肺の空気が足りなくなる感覚とか、たまに喉に広がる鉄の味とかでさえ蒼空は大切にしている。
部活の時間だけではなく、休みの日も朝焼けより早起きして森林公園を走っている。
自分の気持ち次第で、どこにいても、何も持っていなくても、走ることはできる。
その自由さと身軽さが好きだ。
二年生になって新しい新入生が入部してきた今月、自分より脚の速い新入生もかなりいた。
気にならないといえば嘘になるけれど、周りと比較して自分は競争心が希薄だと実感している。
ただ走りたいから走っている。
誰かに勝るために速く走りたいわけじゃないという思いが強くて、その分自分は走るという誰でもできるシンプルなことに魅了されているんだと思い知らされる。
蒼空の勧誘の言葉を聞いて一藍が迷いもなく頷いたのを見て驚いた。
そのタイミングで、馴染みある低い声が真横から発せられた。
「あのさ」
一年から同じクラスメイトの石賀谷が、蒼空の肩を右人差し指の先で突つきながら一藍を見て右隣の親友に尋ねる。
「どこで拾ってきたの?」
石賀谷の左人差し指は目の前の一藍に向かっている。
一藍が来る前に蒼空と談笑していたのは石賀谷で、だからこそよく今まで黙っていたなと碧空は感心する。
「光の庭」
「は?」
碧空は短く答える。
石賀谷はラグビーで鍛えられた大きな体を蒼空に向け、太い眉を下げて脱力した声を出す。蒼空は親友と視線を交えながら、これ以外の答えはないように感じた。
「あんた、誰?」
石賀谷と蒼空が同時に一藍を見ると、さっきまでの生真面目な顔に少し苦みを加えた表情でゆっくりと言葉を放った。
「碧空の、誰」
「お〜い!」
石賀谷がツッコミ担当のように即反応した。
「誰って友達だよそうのだれってなんだよ普通はそんな言い方しねえのってさっきあんたって言ったな」
石賀谷は口がときどき荒くなるが根はとても優しい。
そのことを知っている蒼空は、石賀谷が一藍に突っかかっても気にはならない。
「敬語知らねぇのか先輩って言葉知らねえのかあんた誰なんて目上に言っちゃ駄目なの!波佐美にはあなたって!なんだそれ」
一蒼がさらに苦みを深めた顔をしたのがかなり可笑しくて、蒼空は笑いを気取られないよう口元にさり気なく手を持ってきて笑みを隠した。
「やばい、後輩指導してる間に休み時間終わりそうじゃん。波佐美、さっき写させてって頼んだ6限の課題諦めるわ。この栗栖とやらに丁寧語とか!尊敬語とか!謙譲語とか!教えないと」
石賀谷は身体だけじゃなくて地声も大きく迫力があって危険人物と誤解されがちだが、優しいだけじゃなくて面倒見がかなり良い。
一藍が名前を書いた蒼空のノートを見て、相手の名前をきちんと憶えている。
「波佐美斜め後の席のヤツ今日欠席してたよな?ここに座れ栗栖。言っておかないといけないことが2つあって休み時間終わりそうだから端的に言う」
石賀谷が小さな声で一藍に言った。
一藍は柔らかな表情に戻り小さく頷いて、空いている席に座る。
「まずひとつ。さっきは拾ってきたなんて犬みたいな扱いしてごめんな」
一藍が身構えるように身体を少し後ろに引いた。
「仔犬みたいに可愛くて整ったカオしてんなって思いながらおまえたちのやり取り見てたもんだから。つい思ったことが口に出た」
石賀谷はいたって真面目な顔で一藍に謝る。
「で、もひとつ。年上にあんたは駄目。やっつけたいくらい憎い相手だったらいいけど、俺とはまだ、初対面だろ?」
チャイムが鳴って休憩時間が終わった。
「石賀谷和明って名前があんの。名前で呼びなさい。和明くんでも石賀谷先輩でも丁寧に言ってくれたらいいの!あんたは駄目なの。波佐美を呼んだ時みたいにあなただったら許す」
石賀谷は言いたいことは言ったとばかりに「以上!」と締めくくり、自分の席に戻ろうとする。
「いしがたに」
一藍が小さな声で言った。
「こら〜!サンづけしろよ」
石賀谷が素早く身を翻して一藍に詰め寄る。
こらえきれなくなって蒼空は声を出して笑ってしまった。
「波佐美は笑いすぎ」
蒼空は涙が出たのを拭いながら一藍に素早く言う。
「次の授業始まるよ」
一年生の四月の授業は、まだ慣れていない教師と関係を築く時期ゆえの静かさと皆の真面目さが相まって独特の雰囲気だった覚えがある。遅刻して入室すると目立ってしまう、まだ初々しくてみずみずしい教室。
「6限目だけここに座ってる」
「え?」「ん?」
「この席の人今日は休みだっていしがたにサンがさっき言ってた。しばらく蒼空を眺めていたいと思う」
一藍がきっぱりとした口調で言い切った。
数学の教師が入ってくる。
蒼空と石賀谷はゆっくり互いの顔を見合わせ、言葉が一藍に盗まれてしまったように二人ともが何も言えないままでいた。
一藍だけが涼しい顔をして、ざわついた教室の中で二年生の振りをして席に座り続けていた。



