一藍は日本に来て初めて、一藍自身を取り戻せたような心の弾みを感じていた。
昼休みに旧校舎から教室に戻り5時限目の授業を受けている間もそわそわして、その落ち着きがない自分の心臓に驚いたくらい。
休み時間になった途端、教室を飛び出した。
心沸き立っているという意識のもとに突き動かされている感覚が大好きだ。
優先順位が明らかになる、その瞬間が好き。
家族以外に日本に来て初めて母国語を話すことができてホッとした、というだけではない、何か。
自分の教室とひとときの居場所にしていた遅咲きの桜が咲く庭を行き来するばかりだった一藍は、足を踏み入れたことのない校舎を初めて歩いた。
青色の襟をしている二年生たちがひしめく教室をひとつひとつ覗いてアオゾラを探す。
名前を知らないから心の中だけで相手をそう呼んでみる。自分の語る言語を理解してくれた相手のひとまずの仮名。
青空を背にして自分の中に飛び込んできた相手だから。
言葉を交わしてみたいと思える相手ができたことは、一藍にとって灯台を見つけたような感覚だった。
いた!
ためらわずにアオゾラのいる教室に体を滑り込ませる。誰かと親しそうに話しているアオゾラのすぐ近くまで近付いていく。目を細めて向かいにいる大きな生徒と話していた彼は一藍が自分のすぐ近くまで歩いてきたのに気付いて、目を見開いた。
相手が何かを尋ねようとして口を開きかけているのを制するように一藍ははっきり声を出した。
「俺の青空見つけた!」
言いたいことをもう一つの言語で語ることのできる感覚は嫌いじゃない。
「あなたの名前、何?」
思ったことを相手に伝えるのに一つの言語だけに縛られていたのでは困る環境にいた一藍は、祖父が使っていた言語も不自由でいたくないという思いから幼いときから意識して使うようにしていた。
そのことを今ほど感謝したことはない。
「誰の青空って?え?…俺の名前?」
見開いた目を今度は柔らかく細くして、口角をそっと上げて彼が言った。
「ハサミ ソウ」
音だけが届いた。言葉の意味が分からない。
「苗字の波佐美は珍しいかも。ソウはソウクウという表現をする方のアオで蒼い空と書いて、ソウ」
アオゾラが手元にあるノートにボールペンで漢字を書きながら説明してくれる。
「ほんとの名前もアオゾラだった?」
相手の名前が仮名と同じだったことに一藍は息を呑む。
こういう符号の一致って、何を意味しているんだろう。自分にとって空とか青空とか。蒼色とか藍色とか。
そして思う。
幼いときからよく空を見上げていた。
青空を見つめすぎることを心配されて、瞳の色さえしばらくは隠していたほうがいいと言われてしまったこと。
今もまた幼い時と同じように不自由な枷を瞳と髪に強いてしまっていること。
「さっき心の中でもあなたをアオゾラって呼んでたんだ。これってすごくない?俺は昔から青空が好きなんだ」
過去に気持ちが飛ばされていたのを急に引き戻すように蒼空が明るい声で言った。
「笑う。日本語喋れないのかと思ってさっきドギマギして損したよ。俺の縮んだ寿命3日分返して。で、君の名前も教えて?」
名前を聴かれるとは思ってなかった。
自分が相手を知りたいという気持ちが強すぎて。
「クリス イチア。一つの藍色と書いてイチア」
一藍は蒼空のノートに遠慮なく自分の名前を、心を込めて紡いでいった。
「で、縮んだじゅみょうって、何?」
「…え?驚いたってことだよ。…説明するの難しいなぁ」
蒼空が一藍を見ながら、困ったような顔をして自分の髪を掻き混ぜた。
一藍は、相手のその仕草を見て、青空に風が吹き込むイメージが脳内に溢れてしまって。
途端に、目が離せなくなる。



