相手が振り返ったとき、シャツの襟元を見て新入生だと分かった。
同時に蒼空は曾祖父の本のタイトルが心に浮かんだ。
あの本の続きが急に自分の目の前で展開されはじめたんじゃないか。
そんな思いにとらわれて蒼空は自分のまわりの時空がゆがんでいるような不思議な感覚を味わっていた。
振り向いた新入生はどう見ても日本人の典型的な顔じゃない。異国の血が濃く入っているのがわかる。
髪は誰でも栗色に染められるだろうけれど。
「…えぇと。大丈夫?」
心許ない表情になった相手にそう尋ねたが、こちらを見上げたまま新入生はブロンズ像のように微動だにしない。
(このコ、また動きが止まっちゃったなぁ)
蒼空は自然に笑ってしまう。
「驚かせちゃった?…急に声掛けてごめん。気分が悪いとかじゃないよね」
ルーブル美術館の像が命を吹き込まれて動き出したという印象で、彼は柔らかく首を振る。
だいじょうぶ、という意思表示だ。
去年、あの本のフランス語の原題を知った。
最後のページに辿り着いたときに書いてあった。自分の名前ってフランス人はこう発音するのかと興味深かったから、その言葉だけは心に刻んでいた。
だからこそ連想ゲームのように、ルーブル美術館だなんて発想に繋がってしまった。
「だったらいいんだ」
碧空はさらに笑みを深めて、後輩を脅かさないよう小さな声で言う。
深い海の色の瞳を持つ後輩が今度はしっかりと頷く。
あの物語の最後には音がなかった。
碧空も現実に騒がしい場所にいるはずなのに、ここでは音がどこかに迷子になっていた。
耳に届く音がないぶん、さっき背中を向けていた彼を包む静寂さは何かを語りかけてくるようだった。
相手を振り向かせたいという気持ちだけ強くて。
「いい場所見つけたね。そこのカスミザクラ。今がいちばん綺麗な時期だよ。ほかの桜はもう葉桜になっているけど」
何も答えないまま自分を見つめ続ける相手にもう一度笑いかけてから、碧空は空を仰いだ。
今日の碧空は現実と非現実の狭間を行き来するのを面白がっていた。曾祖父から手渡された物語からまだ抜け出していない。
自然に本のタイトルを口にしていた。
「Le ciel bleu, vertiges et toi」
日本語に訳された本では『青空の下で彷徨って』というタイトルだったな。
碧空が青空を見上げながら確かに彷徨っているような一日だなと思ったとき、碧空の言葉に弾かれたように彼が初めて声を出した。
自分に向けてまっすぐ、迷子になっていた周りの音も一緒に引き連れて、校舎に響くざわめきと共にはっきりと言った。
「Le ciel bleu, vertiges et moi?(青空と目眩と僕?)」
流れるような言葉だった。
「え、なんだって?青空って言った?」
碧空は慌てて一年生に向き直る。
彼の言葉が、響きが、新しい碧空自身の物語を紡ぎ出すように感じて、そしてそれを聴き逃したらだめな気がして前のめりになる。
「Je n'ai pas de vertiges, je vais bien(目眩はしてない、大丈夫)」
凜とした顔で言い切った新入生を前にして、碧空はまた非現実の世界に突き飛ばされる。
「ごめん…何言ってるのか分かんないよ」
俺はあの物語の続きに今もいるのか?



