来月の一藍の誕生日に珠璃(じゅり)が日本に来ると言ってきた時、一藍は電話越しにきっぱりと「来なくていい」と即答した。
 一藍の意向が無視されるのは分かってはいたが、嫌なものは嫌だと主張しなければさらに珠璃のペースに飲まれて掻き回されるのは目に見えている。
 ニューヨークで大学生活を送っている5歳年上の次姉は天敵と言って良いかもしれない。

 確実に一年ぶりに少林寺拳法の柔法をキメられて床に転がされるだろうし、天地拳第一系から第六系までを間違いなく演武出来なければ、珠璃の部屋に軟禁されて稽古を付けられること必至。
 ひどすぎる。
 でもそれが現実。
 幼い頃から小鉄に護身術として教えてもらっていた少林寺拳法はきょうだいの中で珠璃が一番熱心にライフワークのひとつにしている。
 一藍は日本に来てから別のやりたいことが増え、週イチ以下の稽古に減っていた。

「蒼空と一緒にいたいから時間足りない」

 少林寺拳法はまた小鉄に教えて貰って勘を取り戻しておかないと。
 そう一藍は覚悟を決める。


 珠璃は芸術家肌なのかエキセントリックなのか、それとも少なからず人格に課題があるのか一藍には掴みきれていない。
 この姉からは、幼い時からさんざん迷惑を被っている。
 7歳の時は眠っている間に左耳にピアスホールを予告も意向確認もなく勝手に開けられた。
 確か同じ日に、8歳の朱里も朝起きたら両耳に小さなピアスがつけられていたはずだ。
 寝ている間に髪を短く切られたこともあって、10歳の一藍は小鉄に頼んで自室に鍵をつけてもらった。

 珠璃は「J'ai fait en sorte que tu aies l'air cool, d'accord ? Ça te pose un problème ?(カッコよくしてあげたのよ文句ある?)」と応えるのがいつものパターンだった。

 確かにかなり短い髪型も意外と一藍に似合うと周囲に驚かれたが、一藍はいつも溜息をつくことになった。
 しっかり自己主張をする一藍がここまで無力になるのだから、相手の破壊力が相当なのだと一藍は悟っている。

 三姉の朱里は一藍と一緒に珠璃の餌食になっていたのにも関わらず、珠璃と仲が良い。
 一藍にはそのことが信じられない。
 一生会わなくても平気だと思っている一藍にとっては。
 同じきょうだいでも安心して側に居ることができる紫樹や朱里と、離れて生活していることで心が安寧になる珠璃。
 大切な家族であることに代わりないけれど、それでも。


 だからこそ、一藍は家族以外で側に居たいと思える相手がいることに心が湧き立つ。
 珠璃が横にいると鎧を身に着けなくてはならないが、その真逆。横にいると力を抜ける。
 例えるなら小さくて居心地の良い部屋で寝転んで、顔の近くで丸まっている猫のふわふわした尻尾で顔を時折撫でられながら、窓から見える青空を好きなだけ眺めている時間のような。
 そんな。
 一緒にいてくつろげる蒼空を手離したくないと思う。
 家族に触れるように相手に手を触れたいと思う。
 相手の心をなぞるように、その熱で形づくられた優しい顔とか大きな手のひらとかに触れてしまいそうになる。夏の終わりまでは自然にできていたことを、今は寸止めにして己を律する。
(堰を切って止まんなくなりそう)

 毎日そんな自分を自覚しながら、一藍は痺れるような淡い感覚を俯瞰して味わっている。
 まるごと好きだという気持ちを相手の耳元で囁くだけで、こんなにも甘やかに揺さぶられて充たされてる。だからじゅうぶん。今のところは。
 これは、たぶん、時間をかけてゆっくりと向き合っていかないと振り落とされてしまう。
 一藍自身が翻弄されるのが怖いような?
 蒼空にこれ以上踏み込まないように無意識にしているのは、既に満たされているものを溢れ出させて取り繕えなくならないようにするため…だと思う。
 一藍なりの感覚でバランスを取っている、そんなとこだろうか。 

 誰かをまるごと好きすぎて怖いだなんて、そんな気持ちが自分の中に生まれてくるなんて予想もしていなかった。



「美味しい和菓子用意してるから期待してろって」

 十月の秋の風が金木犀の香りを運ぶ午後、衣更え後のブレザー姿で二人は歩く。
 涼しい風を一藍が鼻先で楽しんでいると蒼空が斜め前を歩きながら声掛けしてきた。
 中間テスト前の短縮授業の後、蒼空の自宅に向かいながら一藍は心が浮き立った。

「テスト期間って最高だね」
「一藍くらいじゃない?そんなこと言うの」
「蒼空と長く過ごせて美鈴さんとも話せて。今日は泊まらせてもらうから明日朝一緒に走ることができて。波佐美酒店の手伝いだってさせてもらえるから」

 そう一藍が返答した顔を蒼空は流し目で捉え、珍しく無言で歩を速める。
 今日はいつもと違うルートだった。
 毎朝蒼空が走っている森林公園を通って帰ろうと言われていた。
 広い公園の中にポツンと一つだけ椅子が置かれていて、蒼空は小さいころから心の中で自分の椅子だと思って大切にしていた場所があるとかなり前に聞いた。
 樹木の中で一番好きなメタセコイアが並木になっていて、夏の新緑が一番美しくて今が最後の見頃だと言う。
 これから色付いて十一月下旬にはまた格別な葉の色を見せてくれるようだ。
 メタセコイア並木を一藍に見せたいと言われた今日は、いつもより周りの樹木に意識が向いた。

 蒼空は今までもよく出先で一藍に木の名前を教えてくれた。
 何も言わずに街路樹を見上げていたりするから、とても樹木に関心があるのだろうとすぐに気付いた。
 だから一藍は景色の一部である木々の名前を今まであまり知ろうと思わなかったけれど、蒼空が言葉にした名前は全部記憶している。
 (ケヤキ)。ユリノキ。ヒノキ。モッコク。くすのき。プラタナス。花水木。ナンキンハゼ。(かえで)
 そして最初に会った日に教えてもらった、カスミザクラ。

「着いた」
「これがメタセコイア?」
「そう。ここを走るのが一番好きだ」

 美しい緑の葉が秋の陽射しを受けてざわめいていた。
 並木が続く一本道は今は自分たち以外の人影がなく、濃い緑が柔らかく影を作って優しい空間を生みだしている。
 見上げると胸が広がって深い呼吸になった。
 気持ちいい秋の陽だまり。

 一藍がメタセコイアの葉の向こうに見える秋の薄青い空も綺麗だと思いながら幹にもたれかかった時、蒼空が目の前に立って見下ろしてきた。

「蒼空?」

 蒼空が一藍の目をのぞき込みながら右手を差し出して一藍の左頬に触れてきたので、一藍はびっくりして後退ってしまう。
 あっつ。
 熱い手。
 メタセコイアの大きな幹に背中がぶつかって、逆に背を押されて蒼空の胸の前によろめき、至近距離で蒼空を見上げる格好になった。

「今までうまく言葉に出来なかったんだけど。聴いて」

 蒼空が目を逸らさずにゆっくりと言った。

「俺も一藍のことがまるごと好き」

 秋の柔らかな光の中で蒼空が真面目な顔で言う。

「俺の心はすでに一藍のものになってる。かなり前から」

 秋の気配が辺りを包む静かな場所で、一藍は大切な言葉のカケラを今手渡されていた。
 思いもよらないタイミングで、まるで出会った時のあの瞬間のように。
 一藍は声が出せなくて、春と同じように目を見開いたまま動けずにいた。

「一藍を独り占めにしたいと思ってる」

 蒼空がそう言って、一藍の肩に手を置いて、小さな声で囁いた。

「一藍に伝える言葉を持ち合わせていなかった。今まで。でもまだ全然分からないフランス語と違ってこれは日本語なんだから。できるだけこれからは言葉にしていこうと思う」

 蒼空はここまで言ってから一藍が頷いたのを見ると、顔を伏せた。

「だから次に行かないで」

 蒼空が一藍を抱きしめる。
 一藍は相手の体温に驚きながら、蒼空が一度だけ自分から顔を寄せて口吻(ビズ)してきた朝のことを思い出していた。
 蒼空は目覚めながら眠りの中にいたような状態だったからできた行為だろうけど、自分が相手に大切にされている自信の源になっていた、あの五秒間。

「次って何?」

 そう言うと、蒼空が一藍の左肩の上に埋めていた顔を起こして一藍の目を見た。

「どこに俺が行くって?蒼空が言ってる言葉の意味が初めてぜんぜんわかんない」

 一藍は静かに笑って、蒼空に言葉を渡していった。

「蒼空、熱があるよ。かなり高熱。気付けなくてごめん」

 一藍が言った言葉に蒼空が目を見開いた。

「俺やっぱり熱ある?今日動悸がしてたのはそのせい?…でも熱に浮かされて言ったんじゃないよ」

 蒼空が少し掠れた声で言う。
 熱で少し潤んだ黒い瞳も綺麗だと一藍は思った。
 バランスを保つために自分を抑えて生きていこうと思った矢先に、秋の気配とともににわかに蒼色が鮮やかに心に染み込んできた。
 似たような色かもしれないけれど、藍色とは別の空色。

「そう言われると俺の気持ちが溢れて手に負えなくなるけどいい?」

 一藍は今日はテスト勉強ではなくて蒼空の看病だなと段取りしながら返答する。

「ってこの言い方合ってた?通じてる?」
「おそらく」
「おそらくって何?」
「たぶんってこと」

 一藍は秋空とメタセコイアの葉の下で甘やかな心持ちで思う。
 自分が誰かを好きでいる気持ちを全開にして、それで何が悪いんだろう。
 もういいや自分をセーブしなくても。
 蒼空を見上げ、その向こうにある青い空を見てそう思った。

「蒼空。次からは熱出したらすぐ気付いてあげるよ」 

 甘い気持ちとは裏腹に言葉になるのは日常のやり取り。
 でもそこには相手に触れていることが前提の、そしてこれからも横にいることが約束されている未来がある。

 一藍は蒼空の笑顔を見た瞬間に珠璃の口癖のような言葉を思い出した。
Es-tu(エトゥ) amoureux (アムール)?(恋愛してる?)」
 いつもの冷ややかな声が脳内で再現される。
 恋愛至上主義でもある珠璃に、顔を会わせるたび毎回そう聞かれる。
 そしてそのたびにいつも「してない」と淡泊に答えていた一藍だった。
 挨拶の定型文みたいに。
 だけど次に聞かれた時はきっぱりと「してる」と答えよう。
 珠璃が驚く顔を人生初、見ることができるかもしれない。

 俺たちは互いが互いを染め合えるような二人になれたらいい。
 それが深い友情なのか恋なのか愛なのかは、あとでゆっくり混じり合った色を見ればいい。

「帰ろう?」

 そう一藍は言って右手であの時みたいに蒼空のブレザーの袖を掴んだ。
 左手の親指でそっと蒼空の唇に触れる。
 かなり高熱。
 今晩はここにまた自分から触れてみよう。
 一藍は全開にした心で素直に想う。
 濃密な秋の気配に二人分の甘やかさが溶け込んでいく。

 十五歳と十七歳の二人の上に、メタセコイヤ並木の緑の葉が、柔らかく影を落としていた。



「やっと今日、風たちの声がちゃんと聴こえた」

 歩きながら、蒼空が小さな声で、優しく言った。