二年生のこの時期、周囲は進路を固めて進学先の学部等を確定していく。
 文系クラスの蒼空は大学進学もその後の就職先も全くイメージできていなかった。
 一人息子としていつか波佐美酒店を継ぐことになるのか、それ以外に強く希求する生き方を見つけるのか、そもそも見つかるのか。
 やりたい仕事、職業、働き方が見えていないと学部なんて絞りこめない。
 こう生きたいと思えている、決めている同級生がすごいと思っていた。

 それでも、春と夏をくぐり抜けて涼しい風が吹き始めた今、突如沸き起こるようにして生まれた新たなものは一藍の話す言葉を理解したいという渇望だ。
 細かいニュアンスや相手が感じている気持ちを掬い上げられるようになりたい、と喫緊の課題のように感じている。
 苦しい課題というのではなく、がむしゃらに取り組みたい自分の中だけで設定したゲームのようなもの。
 わくわく取り組みながらも気付けば必死…というたぐいの。
 でも、一人で学びを深めるのは限界がある。

 
 初めて探した大学の学部が、文学部フランス語学科だった。
 語学を学ぶには文学部だろうかと調べてみると文学以外の政治や歴史、言語、文化などの領域も学べるとなっていて、それらを素直に知りたいと思う自分がいた。
 少なくとも一冊のフランス文学には触れて、少なからず自分の人生をよりよいほうに光の当たるほうに導いてもらっているという自覚は、ある。

 特殊な分野ではないからわざわざ他府県で下宿して大学に通うこともない。
 家から通学できる一番近い国公立か私立の大学で…と蒼空は進学先について輪を狭めていくことがようやくできつつあった。



「日仏辞書いつ買ったの?」

 一藍が昼休みの屋上で蒼空の横に座って尋ねてきた。

「地震があったあとすぐ」

 蒼空は正直に答える。

「地震があった日に俺が移動教室で居ない時に来て、俺のノートにメッセージ書いただろ?」

 フランス語で短い一文。
 もちろん読めなかったけれど、筆記体で流れるように書かれた字体が美しいなと思った。
 怪我をした一藍が1週間学校に来ない間、とても気になって学校帰りに駅前の大型書店に寄って辞書を買った。
 今後も持ち運べるように掌サイズの小さなもの。

 銀色の辞書をめくり、苦労して「君」が「私」に「足りない」という意味らしいということを推測している中で、「君がいなくてさみしい」と書かれていたことを知った。
 部活でも休み時間でも毎日のように会っているのに、たまたま会えなかっただけで。

(いつでも直球だよな)

 そう思いながら一藍の怪我が予想以上に重篤だったらどうしようと苦しい気持ちで窓の外を見ていた時に、1週間ぶりに学校に来た一藍に声をかけられた。
 その時の幸福感は今も忘れてない。


 普段は蒼空も一藍も、それぞれの教室で昼ご飯を仲間と食べて過ごす。
 それが夏休み明けから、昼に予告なく音楽が流れだす日には一藍が屋上に避難すると分かって、そんな日があれば蒼空も弁当を片手に合流することにした。
 この日は二学期になって3回目のミュージックアワーデイ。
 だから2回目の合流。

 学祭の後に軽音楽部のthe bangsへの賛辞ともっと一藍の歌を聴かせろというリクエストが殺到してバンドリーダーの羽田が狂喜した、というところまでは蒼空は一藍から聞いていた。
 ただ一藍が新たに歌った曲が、スタジオ()りした後に昼休みに急に校内放送で流れ出した時、一藍は度肝を抜かれたようだ。

 一藍自身、詳細は不明なままに不特定多数に聴かせることは了承していたと後に言っていた。
 放送部の協力で羽田が仕組んだサプライズに慌てて教室を飛び出していった一藍が、自分の歌声を聴かなくても済むように初めて試行錯誤の末に屋上に行ったということは夕方の部活で知った。
 学祭の時はあんなに堂々とステージのド真ん中で歌っておいて、昼休みに流れてきた自分の声は恥ずかしくて逃げ出すなんて。
 わけがわからない。

 その解らなさも含めて魅力なんだけど。


 最初に流れた曲は『the rose』。

 静かなギターな音色が教室に流れ出した時は、周りがざわめいた。
 ゆっくりと滑りこむようにメロディーに英語が重なり、柔らかく耳元で歌われているように感じて蒼空はその場で立ち上がって宙を見上げてしまった。
 一藍の声だとすぐにわかったから。

 ベット・ミドラーのこの曲は聴いたことがあったが、歌詞の内容を知ったのは帰宅した自分の部屋で。

 歌詞が解らないのに気持ちが 揺さ振られてしまう初めての体験。
 今まで自分の中を素通りしていた曲が、自分の中で留まって、さらに言葉のひとつひとつを受け取れるようになった自分を不思議に感じた。今までになくて。

 2回目がDISH//の『猫』。
 今日流れてきたのがRADWIMPSの『風たちの声』。

 それぞれに一藍の知らない一面に触れてしまうようで胸がざわつくのは自分だけなのだろうか。
 蒼空はこの齢になってここまで心許ない気持ちにさせられるのは、地震の日に目を閉じたままの一藍を見た時以来だと思う。

 この予告なく流れる気まぐれな昼間の音楽を多くの生徒が歓迎しているのを実感するし、同じクラスの中だけでも一藍の歌声をいいなぁと言ってわくわくと心震わせて味わっている様子の生徒たちだって身近に見ていた。 
 それでも自分だけが、さらに深いところで心を捉えられて揺さぶられている感じがするのは思い込みだろうか。
 特に今日の歌詞の一部から連想して想像して、一人で煩悶して、捩じ切られそうになっているこの心はいったいなんだろう。


「あ、そうだった。蒼空のノート引っ張り出して一言書いた。俺会いたかったのに会えなくて発作的に書きなぐって戻ってきたんだった」

 一藍が晴天をしばらく仰いでいたので放っておいて蒼空は自分の中に深く入っていたが、一藍も急に現実に戻ってきたようだ。
 隣にいる蒼空を不思議そうに見つめて、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「なんで今日までそのこと忘れてたんだろう?」
「え、そうなの?」

 蒼空は一藍のそんな思いも寄らない発言を受けて愕然としてしまう。

「うん。蒼空が言わなかったらずっと忘れてたかも」

 あんなアツいメッセージを残したことを忘れてた?

「一藍…。やっぱり頭打った後遺症ってこうやって後から分かるのかな。他にも何かあったら心配」
「大丈夫だよ。検査して問題なかったんだって」

 ただでさえざわついていた胸が、珍しく黒い物でさらに覆われていくような。
 蒼空は不安に包まれて、肩が落ちていくのを感じた。
 肩を落とすって比喩じゃないんだ、だなんてどうでもいいことも頭に浮かべながら上目遣いになって一藍を見る。

「ねぇ一藍。昼に流れた曲は自分で選んでるの?」

 一藍は蒼空の顔を見て、少し心配そうな表情になる。

「歌いたい曲聞かれて知ってる曲を歌ったこともあったけど、だいたい俺が知らない曲がたくさん候補で挙げられてて。いいなとか好きだなと思えたものを歌った。蒼空どうかした?」
「いや。俺も知らない曲だったんだけど。一藍の声が良すぎて心に沁みた」

 そう言うと一藍がホッとした顔になったので、まぁいいかと蒼空はうなだれて自分の持ってきた美鈴作の弁当に目を落とした。

 それは嘘じゃない。
 一藍の声は心に沁みる。
 問題なのは心に沁みすぎるということだ。

(こんなに情緒的だったかなぁ俺)

 好きも嫌いもあまり振り切れることなくほどほどにあって。
 今日一藍が歌った曲は初めて聴いたので歌詞もはっきりと聞き取れなかったといえるが、明るい一藍の言葉が自分に向けて刺さってきたんだった。

 このままだったら用はない。
 自分には必要ない。
 神様早く次を自分に与えてくれ。

 一藍の声でそう言ったように聞こえて、すぐさま蒼空は自分から一藍が去っていってしまうような錯覚に陥ってしまった。
 次?
 俺がぐずぐずしているから次に行く?
 次に心を自分のものにしたいと思える相手を探す?
 終わってしまう?

 いや何も始まってさえいないんだけど。


 一藍は春、蒼空に「心が欲しい」と言った。
 蒼空の心を自分のものにしたいと真っ直ぐに言ってきた。
 蒼空はそれを聞いて驚きながらも、いつも中庸でいる自分としては珍しく歓喜する心を自覚したはずだ。
 だけど、その心を表現する言葉や気持ちを手渡す習慣を持ち合わせていなかった。
 心が既に捕らわれてしまっていることを認め、相手を独占したい気持ちを自覚して、それでは次はどうしたらいいかと蒼空なりに手探りでいた矢先に出会い頭で殴られたような衝撃。


 一藍の透明な空色の目は今日も優しくて、蒼空が受け取ったメッセージで生じた身体症状は自家中毒みたいなものと分かってはいた。
 きっと歌詞は別のことを物語っているのに、自分の今の悩みが反映されて別の世界をフォーカスして自問自答してるんだろうと言うことも。
 かつて感じた、大波に翻弄されたいという希求は、相手が同性なだけにマジョリティなものではない。
 高校に入る前に女子から思いを告げられたこと、自分が好意を寄せることも何度かあったが、その時はその時で悩んだり胸を騒がせたりもしたけれど今みたいに突きつけられたりはしなかった。
 自分の中の葛藤。
 一藍は最初から突き抜けて自然体だけれど、これは文化の違いか一藍自身の持って生まれた強さなのか、真っ直ぐさなのか。 
 マイノリティ上等。
 マイクロアサルト、かかってこいよ。

 そんなふうに俺は、思えるようになるんだろうか。


 RADWIMPSを聴いて答え合わせをするのは、自分がどうするか決めてからにしよう。 
  
 蒼空はそう思いながら顔をしっかり上げて、屋上に届いた風を胸深く吸い込んだ。

 風たちの声は、まだ聴こえなかった。