クラスメイト四人と一緒に夏祭りに行く約束をした時に一藍はそこに蒼空も連れていきたいと話し、当日は蒼空の家に来ていた。
夏祭りが開催される神社は高校の近くにあったので歩いて行くことができる。
一藍たちは美鈴に浴衣を着付けてもらって家を早目に出た。
夏祭りの予定を知った美鈴から、一藍にぜひ浴衣を体験してほしいし息子の浴衣姿もみたいと熱く言われたから。
蒼空は浴衣を着ることにかなり抵抗していたが、一藍が「美鈴サンに言われたことには従うことにしてるから」と言った途端に目を潤ませた美鈴を見て観念した。
蒼空の浴衣姿を見ることができるのは、もちろん一藍にとってもわくわくすることのひとつだった。
(この蒼空の浴衣姿を心に刻んだら、辛いことがあっても乗り切れる!)
美鈴は夏祭りの日のために一藍に浴衣と下駄を買ってくれていた。
その温かさと好意が一藍を幸せにしたことも、ゆっくり歩きながら蒼空に話す。
一藍が着ている浴衣は、藍染の浴衣で濃い藍一色のもの。蒼空の浴衣は縞模様で楊柳と呼ばれる織だと美鈴から教えてもらった。
背が高い蒼空はその浴衣を着ると大人びて見える。
蒼空の父が若い頃、夏に着ていた浴衣だと聞いた。
藍染の浴衣は一藍が夏休みに何度か波佐美酒店を手伝ったことへの御礼だと美鈴は言った。
一藍は海外からの客対応を任され、仏語と英語と日本語を取り混ぜて日本酒のプレゼンをした夏だった。
接客の楽しさを味わってまたひとつ新しい自分を知った。
アルバイトをしたくても、一藍は学生という身分で滞在している在留外国人として就労を禁じられている。
朱里は日本国籍を持っているので日本人としても生きているけれど、一藍は違う。
一藍が生まれた後に父から出してもらえなかった書類は、一歳違いの姉弟をここまで隔ててしまっている。
日本の戸籍に入っているきょうだいと、はじかれてしまった自分一人と。
「下駄だと走れないね」
「走らなくていいから。前みたいに急に駆け出さないで。わかった?鼻緒のとこ痛くなったら言って」
蒼空は珍しく冷たく言う。
学祭の時に一藍が颯爽と駆け出して、蒼空が嵐のように巻き込まれ連れ去られたことを指してわざと少し怒った顔をする。
「心臓に悪い」ってあの後に言われたけれど。
蒼空が息を切らすスピードでもなかったのに何故。
蒼空はすぐに笑って「下駄で走れるものならって感じだけど」と言って、立ち止まって屈み込んで一藍の足に触れた。
「慣れてないと途中から痛くなって辛いかも。俺は夏に時々履いてるから慣れてるんだ。一藍は大丈夫かな」
「大丈夫」
そう一藍が言うと蒼空は身体を起こして真面目な顔になった。
「最初に会った時、一藍その言葉をフランス語で話してた」
そうだ。
青空と目眩と君って蒼空が急にフランス語で言ったから、目眩してないかと聞かれたと思って答えたんだった。
大丈夫って。
「後から教えて貰って言いたかったこと理解したけど。全然意味が分からないのはなんか悲しいと思うようになってきたから言葉教えてくれる?」
蒼空はそこまで言うと、また前に視線を向けて歩き出した。
「蒼空が?フランス語を知りたい?」
「うん。この前一藍が言ってた頭の中の言葉の話が衝撃だったし」
蒼空はまだ前を向いたまま真剣な顔をしていた。
普段笑顔でいることの多い蒼空のそんな顔を見ると一藍は少し呼吸が浅くなるように感じる。
波佐美酒店を手伝っていたある日、蒼空の父が一藍が言葉を出さないで頭で考える時は仏語と日本語半々くらいなのかと聞いてきたことがあった。
「心の中で喋ったり頭で考えてる時?」
一藍はそうだなぁとしばらく真面目に考えてみたのだった。
「フランス語が7割で英語が2割、残り1割が日本語…かな」
それを横で聞いていて、確かに蒼空はびっくりした顔をしていた。
「実は初めて小さな日仏辞書とテキストも買って見始めたんだ。なんだって名詞に女性と男性の区別があるんだ。それに付く冠詞も形容詞も動詞も変化するなんて複雑すぎるだろ」
そう言って一藍を見て、蒼空が優しい顔をして笑った。
だから。
自分の母国語を学びたいと言ってくれる相手の笑顔を見て、つい、蒼空の耳元に口を寄せて言ってしまった。
「 J'aime tout en vous(あなたの全部が好き)」
「ごめんぜっんぜんわかんない。何?」
「最初のJeが、俺は…って主語。今日はこれだけ」
一藍は少しだけ下駄で駆け出して、振り返って蒼空に「これから言いたいこと俺の言葉で話すから。聴くだけでもいいから」と言って右手の指先を神社の鳥居に向けた。
朝川たちが大きく手を振っていた。
「栗栖!浴衣!髪短っ!」
「波佐美先輩も!浴衣いいですね〜」
「栗栖背が伸びてる!僕見おろされてるねぇ…春は一緒くらいだったよね?」
「先日はきちんと挨拶できてなくて失礼しました。姉もよろしくと言ってました」
同時に四人が一藍たちに向かって喋り出して急に賑やかになった。
笑顔の花が咲く。
「そんな短い髪した栗栖初めて見た。ベリーショートの綺麗なお姉さんみたい」
そう言った朝川の口を慌てて奥村が押さえる。
「え?なんか地雷踏んだ?」
一藍は少しだけ朝川を睨むように見たが、悪びれずに思ったことを口にする朝川の裏表のない性格を一藍は好ましく思っているので直ぐに許して笑ってみせた。
「奥村君は一藍が怒るポイントよく知ってるね」
蒼空が朝川たちのやり取りを見て笑いながら後ろをゆったりと歩く。
前から親しかったように一学年下の城田以外の三人にも自然に溶け込む蒼空を見て、一藍は凄いなと素直に感心してしまう。
するっと相手の懐に入ってしまう。
青みのある風のような?
流れの速い水みたいな?
今日は日本語がうまくまとまらない。
「ステージに立った一藍のこと、客席の女子高校生がボーカル女子か男子かどっちだろうって話してたことを言ったら直ぐに」
蒼空がからかうように一藍の髪を掻き混ぜた。
「やっと陸上部員らしくなった」
「羽田の兄さんがうるさかったんだ。前髪を伸ばせだのしばらく髪切るなだのバンドのイメージがだのうんぬん」
一藍は短くなった髪を蒼空に触れられた跡を辿るように自分でも両手で掻き混ぜてみる。
「うわぁ栗栖がなんか愚痴っぽいのも新鮮。でもその言い方は年配の人っぽくない?」
山崎が黒縁メガネの奥の目を細めて、心を込めて心配そうに言った。
「いやまだ若者らしい言い方だったと思うけど。栗栖今度は云々って言葉試してみたかった?」
「うん」
「え、それ栗栖フラ語で何て言う?云々ってさ」
「エトセトラ、エトセトラ」
「マジか知ってるわ、やった俺」
「それみんな知ってるやん朝川だけちゃうやん」
「栗栖〜。キスって何て言う?」
「ビズ」
「お!なんかいいね〜。じゃあ“先にシャワー浴びてくるよ”ってフラ語で言ってみて」
「朝川バカ野郎!…栗栖だまってろよ」
「うわぁ奥村の怒った声。初めて聴いたよ?」
奥村に続いて朝川も城田も一藍に絡んで、教室での普段の五ツ星フォーメーショントークが始まった。
歩きながら、賑やかに。
それを後ろから蒼空がにこやかに見守っていた。
金魚すくいを初めてして、一藍は掬えなかったことにホッとしたり残念に思ったり金魚の動きに見惚れたりした。
蒼空が上手に赤と黒の金魚を掬ったのを見て目を見張ったり。
一藍は今日はいろんな表情になる。
蒼空の静かな動きに金魚が自分から身を委ねたように見えて。
二匹の金魚をビニールの小さな海に閉じ込めて、藍色の浴衣を着て下駄を鳴らして歩く一藍と楊柳浴衣の蒼空。
二人の前で屋台をひやかす四人。
陽が落ちて暗闇に包まれると同時に輝きを増す屋台の明るい照明が、皆の心を盛り上げていく。
りんご飴。
焼き玉蜀黍。
かき氷。
焼きそば。
四人が別々の物を楽しんでいるのを見るのも楽しい夜。
「栗栖食べたことないものあるんじゃない?」
山崎がりんご飴を齧りながら一藍に尋ねた。
「朝川が食べてる焼きそば以外は食べたことない」
「そうなんや!これ齧ってみる?」
城田が玉蜀黍を差し出す横から山崎はりんご飴を、奥村はかき氷を一藍に同時に勧めてきたので笑いながら一口ずつ分けてもらった。
「たこ焼きも食べたことないんじゃない?小鉄さんが作るとこ想像できないし」
蒼空が斜め前にある屋台を指差して、帯に挟んでいた札入を取り出した。
「ない。美味しい?」
「うん。一緒に食べよ。この味知らないと損するよ」
一藍に優しく笑顔を向けてから列に並んだ蒼空の後ろ姿を見て、奥村が小さな声で静かに言った。
「一つだけ歳上だなんて気がしない。大人だな。あんな人に、俺もなりたい」
「うん。親切でクールで優しくて。栗栖が先輩の心欲しがるの分かるわ」
城田はそう言ってから一藍に改まったように尋ねた。
「俺が初めて波佐美先輩のクラスに連れていってもらった時のやり取り。あれ聴いて俺は自分らしく生きようって思えたっていうかマジメに考えたっていうか。そんな俺なりの人生の転回点を奥村たちにも説明したくて」
「うん。祐樹の展開点?…あぁ転回点だね」
「そう。だから…あの時栗栖が波佐美先輩に言ってた言葉含めてみんなにも話していい?」
蒼空がナイロン袋を2つ下げて帰ってきて話の輪に加わった。
「俺の話?」
「はい。先輩に栗栖が自分の想いを真っ直ぐぶつけてたあの休み時間のあのやり取り聴いて俺が大人の階段登ったっていう」
一気に言った城田の言葉に一藍は大人の階段って何だ、と思う。
「俺は話してもらって構わないけど改めて再現されるのを聴くと照れそう。だから俺がいない時にしてね」
そう答えた蒼空の浴衣の襟を、朝川が掴む。
「何それ城田早く聞かせて!波佐美先輩も照れたとこ見せて見せて!」
「蒼空、てれそうってどういう気持ち?」
朝川が城田と蒼空に詰め寄った横で一藍のいつもの質問攻めがまた始まって、他の客のざわめきと屋台の喧騒が織り混ざって夜が深まっていく。
「熱いよ。食べるとき火傷しないようにして。一口で食べると熱くて泣くよ」
木の椅子が並んでいた社務所横のスペースで六人が向かいあって座り、蒼空が六舟購入してくれたたこ焼きをそれぞれ食べた。
蒼空が静かな声で横から一藍に教えてくれたから舌を火傷せずに済んだ、と言える。
「うわ。Délicieux. Il s'agit d'un plat qui se marie bien avec la bière.(美味しい。ビールに合いそう)」
一藍が声を弾ませて隣の蒼空に流れるように言葉を紡いだ。
一藍が自分から母語を喋るのを初めて聞いた蒼空以外の四人はびっくりした顔になった。
「 S'il y avait de la bière ici, je la boirais(ここにビールがあったら飲むのに)」
「だめ。ビール飲みたいみたいなこと言っただろ?また小鉄さんに一口貰え」
「残念…次はこっそり呑もう」
「後でラムネ買ってあげるよ」
蒼空が当たり前のように応答したのを見て、またまた四人が驚く。
「波佐美先輩ッ!フラ語分かるんすか?」
ESS部の朝川が食いつく。
「ううん全然わかんない」
蒼空が笑って言うと「え〜!?」と皆が沸いた。
「言葉はわかんないけど一藍が言いたいことは良く分かったから」
「えぇえ、それどういうことですか先輩?」
若い六人の声が互いにテンポよく絡まり合い、笑い声と共に夜風で高く持ち運ばれていく。
下駄が足に馴染み、好きな食べものが一つ増え、庭の池で泳がせる予定の金魚を大切に手首にぶら下げた、そんな夜。
一藍の特別な夏の夜の闇が、右膝に触れた金魚が跳ねた音を溶かして濃くなっていった。



