期末テストが終わり、夏休みを目前にした水曜日に蒼空の学校で学祭が始まった。

 開放感と初夏の季節ならではの躍動が織り混ざって、賑やかな三日間になる。
 後夜祭の金曜日だけ一般公開となり、午後には他校生や放課後駆けつけた中学生たちも入り乱れて例年混雑する。
 蒼空は自分のクラスの隠れ家カフェの店員として前夜祭と2日目にキリキリ働き、その合間に一藍のクラスが企画した教室プラネタリウムに顔を出したりした。
 一藍には会えなかったが、天文部の城田が裏方で同じくキリキリ采配を振るっているのを石賀谷と一緒に冷やかしに行ったりして楽しんだ。
 蒼空がカフェで接客やバリスタをしている間に一度も一藍が顔を見せなかったので、蒼空は三日も一藍を見ていなかった。

(羽田の兄さんにしごかれてるのかな)

 軽音楽部のライブは後夜祭の午後のステージにプログラムされている。
 最終日に向けてスタジオを借りて練習しているバンドに一藍も2日間通しで通っていたに違いない。
 一藍は絶滅危惧種なみの貴重な男子高校生で、スマホをまだ持っていない。
 秋に持つ予定だと聞いているけれど。
 それまでは、今回みたいに会えない時の動向はさっぱり掴めない。


 今日は石賀谷が朱里と一緒に三人でライブを観ようと誘ってくれていたので、初めて自分のクラスのカフェみかどで珈琲を飲みながら二人を待った。
 蒼空自身が接客をしている時はなんとも思わなかったが、クラスメイトの男女が制服の上から腰下の黒色ソムリエエプロンをつけて笑顔で給仕している立ち姿はカッコいいと感じた。
 担任の名前が見角(みかど)だから、という安易なネーミングの店だが、ユーモアを内包した洒脱な空間に仕上がっている。
 店の看板やコースターに黒デッサンで描かれた、なぜか帝の姿をした担任のカフェロゴも渋いと好評で、教室内は今日も満席に近かった。
 この担任の二枚目な似顔絵は、ソムリエエプロンにも白色で裾の隅に小さくシルクスクリーンで印刷されている。
 デザインした美術部女子の細やかさ凄いよな、と蒼空は再び感心しながら珈琲カップをソーサーに置いたタイミングで、朱里が手を振りながら教室に入ってくるのに気付いた。


「エスプレッソ美味しい。和明さん、今日お客さんなのにこれだけ自分で淹れてくれたんでしょう?ここから半分見えてたもの」

 朱里がクスクス笑いながら厨房になっている衝立(ついたて)の部分を指差す。
 女子バリスタだと身体は隠れるが、肩幅の広い益荒男(ますらお)体格の石賀谷だと隠れようもない。

「うん。今日のために2日間カフェみかどでバリスタ修行した。今まで珈琲豆を見たことも触ったこともなかったしなぁ。缶コーヒーさえ飲んだことなかったし」
「じゃあ一息つきたい時は何を飲んでたの?」
「麦茶か水道水かジンジャーエールかな」

 石賀谷と朱里は前よりも少しだけ額を寄せるようにして会話をするが、蒼空が一緒の空間に居ても自然体だ。
 三人で居る今も蒼空が石賀谷と二人だけで馬鹿話をしている時とあまり変わらず居心地がいい。
 蒼空は、これが石賀谷の人徳だと思った。
 あ、朱里の人徳でもあるのか。
 なにせ優しい二人だ。

「ねぇ波佐美さん。一藍は今日のライブで何を歌うの?」

 朱里が澄んだ茶色の目を蒼空に向けて尋ねた。

「俺が聞きたいくらいだよ」

 そう蒼空が答えると、黒色のワンピースを着て大人びて見えていた朱里がとたんに表情を子どものようにして溜息をついた。

Jules(ジュール) il est(イレ) très secret(トレセクレ) !」

 朱里がフランス語で呟いて、バツが悪いと思ったのか慌てて口を手で覆ってはにかんだ。

「今一藍の悪口言ったでしょ」

 そう言って蒼空が笑って尋ねると、朱里は手を振って、石賀谷と蒼空を交互に見ながら答える。

「悪口じゃない…と思う。大事なことを言わずにいるところ、一藍にあるじゃない?秘密主義者なんだから、もう!って言っちゃったの」

 石賀谷が朱里の方に身体を向き直して、静かな声で言った。

「朱里さんフランス語話すの初めて聴いた。なんか、いい。ってか、聴けて嬉しい」



 快晴に恵まれた後夜祭だったので、3年生羽田が率いるバンドthe bangsのステージは予定通りグラウンドの一番奥で既に始まっていた。
 グラウンドには我が校の制服、他校の制服、朱里のように私服といろいろな色が溢れて活気に満ち満ちている。
 一藍はラストの一曲だけと聞いていたから、三人はゆっくりとステージに向かって人の波に乗るように漂いつつ進んだ。

「波佐美はさ、一藍がフランス語喋るの聞いたことあんの?」

 石賀谷が朱里を真ん中にして歩きながら、朱里の頭越しに尋ねてきた。
 蒼空も石賀谷も背が高い方だから朱里と話す時は目線を下げるが、横を向くと互いに直ぐに目が合う。

「聞いたことあるも何も、最初に喋った時に一藍フランス語だった」
「え?マジ?そうなの?キラキラの庭で、だっけ?」
「違う。光の庭」

 この話題は朱里の前では少し恥ずかしいと思いつつ、去来した思いを言葉にしてしまった。

「あの言葉を聞いた時からもう既に鷲掴みされちゃってたのかも」

 心を。
 一藍に。

 音が溢れている非日常な空間で、言葉にした途端に自覚した、柔らかい一部分。
 あ、やば。
 まだ、自分でも取り扱えてない、保留にしている曖昧な部分。それを声に出してしまった。

 真面目な顔をした石賀谷と目が合ったが、何も言わずにいてくれた。


 ステージ上のメンバーは全体的に黒色のカジュアルな服装の四人。
 パンクなのかロックなのか蒼空には分からなかったけれど、暗い色彩の中でギターを抱えたボーカルもキーボードもドラムも表情が活き活きしていてポジティブなエネルギーに充ちていた。
 エレキギターを担当しているメンバーだけクールに演奏しているが、時々ボーカルに絡まれると小さく笑っている。
 一藍と同じ学年の陸上部女子羽田恭子の兄はドラムでバンドリーダーをしていると聞いていたので、前髪で顔の半分を隠した細身の男が羽田だと分かった。
 間奏の部分でVサインを出し、前列に陣取る女子にウインクして笑う。
 かなり陽気な上級生なんだろう。
「さっきのオリジナルの曲も、このMrs. GREEN APPLEのロマンチシズムも素敵」
 客の波の半分くらい真ん中まで歩き進めてくると人の密度も徐々に高まり、その分空気に含まれる熱も上がってきた。
「朱里さんこの曲出た時日本に居なかったよね。知ってたんだ?J-POP好き?」
 石賀谷が声を少し張り上げて右隣の朱里に尋ねた。
 ここまで歩いてくると、音が身体に直接響いてくるほど迫力があった。
「一番仲良くしている友達が私にたくさん聴かせてくれたの」
 朱里がそう答えた時に、後ろから肩を叩かれた。
「波佐美先輩!」
 蒼空が右後ろを振り向くと、城田が人懐こく笑って手を振っている。
 眼鏡をかけた賢そうな雰囲気の長身の生徒と、保護者にしては若い女性を連れていた。
「一藍の歌、聴きに来たんだ?」
 蒼空は後ろの二人に笑顔の会釈で挨拶をしてから、城田の耳元に口を寄せて話す。
 もう普通には会話できないくらいステージに近付いてきている。
「はい!いつも栗栖とクラスでつるんでいる奥村ってヤツとその姉さんと」
 城田は朱里と石賀谷にも手を振って、「栗栖のお姉さんも来てる」と横の同級生に教えている。
 奥村は蒼空をじっと見て、朱里を見て、また蒼空を見た。
 軽く会釈を返した奥村は真面目な顔付のまま、それでも親しみのこもった眼差しを向けてきた。
 朱里がするっと脇を抜けて一藍のクラスメイトに駆け寄り、そのお姉さんを含めて二人にハグする勢いで自己紹介をしているのを見て、今回の挨拶は朱里に任せておこうと思った。
 朱里がとびきりの笑顔で弟の友達に普段の御礼を言っている様子を見て石賀谷も嬉しそうにしている。
 こういう社交的なとこも全部含めて彼女のことが大好きなんだろう。
 奥村が少し慌てたように眼鏡のブリッジを中指で押さえながらお辞儀しているのをみて城田が大笑いする。

 official髭男dismのStand By Youが柔らかく流れていた。


「もう少し前に行く?」
「ここくらいが一番落ち着いて一藍を見ていられそう。あの子今ドキドキしてるかしら」

 ステージから七メートルほど手前で足を止めて、朱里が美しい顔を少ししかめる。
 マカロニえんぴつのブルーベリナイツをカバーしているthe bangsのステージは最高潮に盛り上がっていて、客席の人々も顔を紅潮させ、体を揺らしてテンポの速いリズムに身を任せていた。 
 こんなに本格的なライブが学祭で繰り広げられていることを蒼空は知らなかった。
 去年までは余所事で他人事で。
 一藍って緊張したりするのだろうか。
 あの歌じゃなかったら絶対に引き受けたりしなかったと言っていた。
 一藍が歌おうと思った曲は何なんだろう。


「あ、天使…」

 後ろにいた奥村のお姉さんが初めて呟くのが、無音になったタイミングで聞こえた。

「栗栖だ」「栗栖出てきた」と奥村と城田が同時に声を出す。
 メンバーの隙間を縫うようにして、白い綿パンに白Tシャツ姿で一藍がステージの真ん中に歩いてきた。
 午後の陽射しが強く一藍の金色の髪を射貫いて、今日は珍しく銀色に見える。
 バンド全体がダークカラーの中で白色に包まれた一藍がモノクロームの映像の一部のようだ。
 青空を映した空色の目だけ、色彩がある。
 奥村のお姉さんにはそんな一藍が天使みたいに見えたんだろうか。
 だったら無愛想な天使だ。
 キーボードとドラムが静かに奏で始めたメロディーがステージを淡く包んだ。

 一藍はステージの上とは思えない自然体で右手に持っていたベースギターをマイク前に居たボーカルに差し出した。
 ボーカルはギターのストラップをずらして客席の一人にギターを託し、空いた左手で一藍からベースを受取った。
 右拳で一藍の胸を叩き、後はよろしくと言うように頷いてから重低音でリズムを取りはじめた。
 一藍はステージの真ん中でまるで周りに誰もいないように物思いに沈んだような表情のまま少し顔を上げて目を閉じた。


−−−ダンス ダンス ダンス ダンス

 高く明るい声が人格をまとって軽快に踊り出した、そんな感じだった。
 少しハスキーな女子の声と言われたらそうとも聴こえる、中性的で綺麗な声だった。

  ダンス ダンス ダンス ダンス−−−

 グラウンド全体から歓声があがる。
 両手をあげて手拍子を打ち始めた客もいる。
 女子なの、男子なの、あれは誰?と他校生の女子集団が盛り上がっている。
 一緒に歌い出す高校生もいた。
 一藍が同じフレーズを繰り返し歌う間に音楽はさらに大きく、陽気なメロディーを形作った。
 一藍が目を明けて少し柔らかな顔になる。

−−−スリーカウントでステージに踊り込む
  こめかみの痛みも左胸の痛みも一瞬で霧散する

 蒼空は一藍の声に、歌詞とは真逆に左胸が痛んだ。
 左隣にいる朱里と石賀谷が笑顔で顔を見合わせたのを横目で見て、またステージを見ると淡く口角を上げた一藍が目に映って鼓動が速まった。

(こうやって一瞬で鷲掴みにされるんだよな)

 後ろから城田の「恭ちゃん見る目あるやん」と言っている声が聞こえた。
 知らなかった曲なのに、歌詞がひとつひとつ心に届いてくる、そんな気がした。
 前に一藍の立ち姿に見惚れ、そして予想通り今は魅了されている。
 前は自分一人が彼の前に立っていた。
 でも今は自分だけじゃない。
 たくさんの目が一藍に注がれていて、そこには多かれ少なかれ焦がれたような熱が含まれているだろう。


「独り占めにしたい」


 蒼空の小さな独り言が一藍の歌う音楽に溶けて誰にも聞こえないことが分かっていたからこそ、わざと声に出して、自分の気持ちを再確認した。 


−−−僕らの10本の指先が
  互いに重なるといいなと祈ってた 

 一藍は先輩ボーカルとは逆に派手な動きはせずに歌っていたが、ここでゆっくりとした仕草で自分の手のひらを広げて前に出した。
 その手の隙間から視線を下げて、一藍は確かに七メートル離れた蒼空を捉えた。
 伸ばした手を降ろした一藍は蒼空をしっかり見たまま、ふわっととびきりの笑顔になる。

−−−僕は君を思い続ける
  踊ることを止めないように

 そう歌って一藍は下に降ろした右手で蒼空にだけ小さく手を振った、ように見えた。
 歌いながら笑う華奢な一藍は、中学生のように幼く、あどけなく見えた。

(やられた)

 「エビアンを持つ手も好き君のまるごとが好き」−−−

 一藍はかなり長い間、蒼空と目を合わせていたと思う。
 ここまで歌うと視線を上げて、また空を見て目を閉じた。
 高い声が少し掠れがちになるのも、アップテンポな陽気なメロディーラインからトーンダウンしていく曲の揺れに重なって魅力的だった。

「天使が笑った」
「サキさんさっきからそればっかり」
「私見て笑ってくれたよね?」
「いや姉さんにじゃないから」

 後ろから三人で織りなすマシンガントークが聞こえて、蒼空は現実に繋ぎとめられた。
 気が付くと曲が終わっていて、拍手と大歓声が校庭を揺らしていた。
 一藍はベースを弾いていたボーカルの先輩から髪を搔き回されながら客席にお辞儀をして、メンバーに手を上げて束の間のやり取りをするとステージを駆け出してグラウンドに鮮やかに飛び降りた。
 その瞬間。
 たぶんその場に居た誰もが目を丸くしたんじゃないか。

 真っ直ぐに蒼空の前まで身軽に駆けてきたのが、まだ曲のパフォーマンスなのかと思ってしまった。
 それくらいあっという間の出来事だった。
 一藍が蒼空に駆け寄って自分の右手で蒼空の左手を掬い上げて手首を掴んで走り出す。
 その間3秒で仲間に目線だけで会話しながら初めて見る相手に挨拶をした。

「奥村のお姉さんこんにちは!」

 優しく甘い笑顔を見せて、これで出番は終了とばかりに蒼空の手を引いてグラウンドの外を目指してぐいぐい走っていく。



 蒼空の欲望どおり蒼空だけを連れ出して。