アイラ島のラフロイグ。
それをショットグラスに入れて飲む。
夜の静寂に、夜空が広く見える自分の部屋で。
誰もいなくて自分だけで、未成年で呑んでいることを咎められもしない自由とラフロイグによって生み出された心臓の鼓動を感じる。
呑んでいることを咎めてくれる相手がここに今いないことに、同時に少し物足りなさも感じる。
(蒼空は今頃何してるかな)
小鉄と紫樹兄から許されているのはショットグラス一杯まで。
毎日ではなく時々嗜むくらいであれば、これが気付け薬だと思ってあげられるからだと言われている。
(朝ヨガのビズの時、蒼空すっごくクールな顔してた)
座ってジャールシールシャアーサナをしていた一藍が顔を上げたタイミングで蒼空がゆっくりと歩み寄り、瞳を閉じて顔を寄せてきた瞬間を想い出して、一藍はベッドの上を一人で転げ回った。
(…っカッコよかった〜)
一藍は今、好きなように自分を出し、自由に言葉を使って思ったことを伝え、自分の鼓動が連れてくる新しい世界を端から端まで味わいつくす毎日を、忙しくワクワクと生きていた。
(優しいビズだった。…あったかくて)
広いベッドを転がり回って蒼空のカッコよさを脳内再生をして堪能した一藍は、動きを止めて半身を起こす。
あの時に蒼空に触れられた唇に指を当て、陶然とした気分に浸る。
(ヤバい。気付け薬が効いてきた)
気が付いたらここに居た、という感覚。
正しい場所で呼吸している、という安心。
寂しいという気持ちも、しばらくしたら溶けて混ざって、呼吸がしやすい明るい気分にいつかシフトできている、という体験。
グラスを傾けながら見上げる夜空は冴え冴えとしていて、今晩の一藍はどこまでも物思いに沈んでいられた。
(好きすぎる。暴走しないためにも…歌おう)
好きな音楽も徐々に広がってきている日々。
陸上部の練習を今だけ30分早く切り上げさせてもらってから向かう軽音楽部の部室には、また別世界が広がっている。
メンバーから聴かせてもらう一曲一曲、身体が欲しがって自分が音の一部になることが愉悦になっている。
それがちょっぴり怖い。
歌う行為って裸を見せているのとそう変わらないじゃないか…とも思う一方で、歌の中に自分を溶け込ませてリズムに身を任せるのは夢の中にいるようで心地がいいということを知ってしまった。
気が付いたら時間をかなり注ぎ込んでいたことに気付いて愕然とする。
望みさえすれば小鉄が時間を作ってくれる少林寺拳法の稽古を今日もさぼってしまった。
仲間として迎え入れてもらった小さな世界で音の重なりの一部になって歌っている自分が、新しい、と思う。
新しい自分。
関連して思い出すのは五月の緑が美しい季節の出来事。木造の建物が半倒壊した中に居て怪我をしたあと、医療関係者からトラウマ体験になっていないか丁寧に聴取された。
今回、医師や心理士の問いに答えながら気付いたことは、地震の体験が自分にとって全くPTSDになっていないということだった。
何故なら、必ず蒼空がこのあとここに来るということが一藍には分かっていたから。
身動きの取れない状況で相手の足音が近付いてくるのを待っていた自分。
眠っているのか目覚めてるのか、違う世界に移ってしまっているのかも分からない浮遊感。
あのときの自分の心理は今のところ誰にも言わずにいる。
あれが倒錯って言われている状況なんだろうか。
知りたいことは何でも蒼空に聞いているけど、これは言ったらダメな気がする。
今度奥村に確認してみよう。
うまく言葉になるだろうか。
繰り返し時々心に思い浮かべてしまう10分ほどの、充たされた時間。
大きな揺れが足元から来て、シャツを脱いだ無防備な姿勢で左のこめかみをロッカーの鏡に打ち付けた時も怖くなかった。
熱く尖った痛みに皮膚が切れたことが分かり、頭を抱えて背中にスチールの重みを感じながらうずくまったときだって、部室が無くなってしまうことを寂しく思う余裕さえあった。
実はこの時、もう気を失っていたんだろうか。
大地が揺れるのを森の木々に覆われた小さな苗木にでもなった気分で他人事のように体感していたから。
でも揺れがおさまった時に目を開けると自分の伸ばされた手が視界に映っていた記憶があるから、しっかり目覚めていたはずだ。
『大きな地震が来たらここは跡形もなく崩れそう』
蒼空が木造の部室で話した声を思い出していたら、不思議と怖いという感情が湧いてこなかった。
大きな音がして木の密な重みが背中にのしかかった一瞬、意識が遠のくことが自分でもわかったあの刹那。
必ずそばに来る。
もうすぐ声が聴こえる。
待っていればいいんだ、という安心した心で、温かな海水の中で漂っているような心地よさで、優しい気持ちで。そして意識がなくなったんじゃなく、自分は眠りについたんだと思ったような。
ここまで自由に連想し続けていた一藍はこの想像だけで酔ったようになったので、空になったグラスを窓辺に置いてベッドに潜り込んだ。
「それが倒錯かどうかが気になったの?」
翌朝一番に奥村に話し、時間切れになったので続きを聴こうとして1時間目の休み時間に後ろの奥村の席に近付くと直ぐにそう尋ねられたので、一藍は頷く。
奥村は少し笑った。
「で、その言葉はどこで覚えてきた?」
「三島由紀夫の小説だったかな。最近いろいろ読み漁ってるから」
「それは、倒錯じゃなくて。甘い気持ち、とか甘やかな気分って言うんだと思うよ」
「ふぅん。枕を抱えて蒼空のことを想いながらベッドを転げ回るのも、倒錯じゃなくて甘やかな気分がなせるわざってやつ?…なせるわざってこの使い方、あってた?」
「…たぶん。って栗栖。好きな人のこと考えて転げ回ってる?どこでそんな仕草覚えた?」
「これは朱里の持ってる漫画の主人公がやってた。真似してやってみたらしっくりきた」
「なんか想像したら笑える。乙女だな」
「奥村も一度やってみて。好きすぎる気持ちを再認識してヤバかった。あ、最近、このヤバいって使い方もしっくりくるようになった」
「栗栖…恋してるの、いいね。甘い気分が伝わってきた」
眼鏡をゆっくりと外して、奥村が自分のワイシャツでレンズを拭きながら小さな声で優しく言った。
甘い気分。甘い気持ち。甘やかな。
奥村が手元の眼鏡から視線をあげて、目を少し細めて一藍を見ながら続けた。
「甘いもの苦手だったらこのニュアンス伝わんないと思うけど」
「甘いものは好き。ショコラ中毒と言ってもいい」
一藍が速攻で答えると、奥村は珍しく声を出して笑った。
「あのさ。先週姉貴の話しただろ?赤ん坊連れて富山から帰省してるって」
「うん。奥村が叔父さんになったって話」
「叔父さんって言うの止めろ」
「甥っ子さん可愛いだろうね」
「うん。すごく」
奥村は眼鏡をかけ直していつもの真面目な顔になって言った。
「今日の栗栖の話、姉貴にしていい?」
「今日の、何を?」
一藍は不思議に思って尋ねた。
前に奥村と話している中で、お姉さんが産後精神的に不安定になって笑わなくなったことが辛いと言ったことがあった。
あまりプライベートなことを言わない奥村だったから、一藍も自分からは聞かないでいた中で心を寄せていた奥村のお姉さん。
その人に、何を?
「栗栖の感じた甘やかな気分。きっとこの話を聴いたらあったかい気持ちになると思う」
あったかい気持ち。
甘やかな気分。
自分が味わったあの時の優しい気持ちを少しでもお姉さんに分けられたらいい。
一藍はそう思って、頷いた。
他の人が辛い時に、自分が幸せでいてもいい。
できれば自分の幸せな気分を、その人にもあげて一緒に幸せになれたら、もっと。
「なんの話してた?混ぜてよ~」
朝川が廊下から教室に入ってきてすぐ笑顔で近付いてきたのを一藍たちは同時に優しい目をして迎えた。
(俺は蒼空にたくさん甘やかされたい)
「え。なんでそんな二人とも甘ったるい顔してんの?」
朝川が二人を交互に見て、たまたま「甘い」という言葉を使いながら目を丸くしたので、一藍も久しぶりに声を出して笑い続けてしまった。
そんな、何もなくて、なんでもない、だからこそ幸せな一日を今日も。



