一藍(いちあ)にとって、日本語は難しくない。
  小さいころから馴染みはある。
 それでも普段使っていた言語が周りからほとんど消えて、包まれる空気も光の色も空の色でさえも今までとは完璧に違うこの日々は、一藍の中に湧きたつようにある生命力を少しずつ奪っているようだった。

 何の愁いも不自由もなく充ち足りていた生活を急に斧で断ち切るみたいにして母国を出て、祖父の故郷であるここで暮らすことを決めたのは自分なのに。
 でも満たされていたように感じていたのは幻影だったのかもしれないと一藍は思う。
 それは与えられていたからであって、今ようやく自分で自分を充たしていくステージになったんじゃないか。
 これから自分が手にしていくものをはっきり魂に刻み込むために、まずは一度自分を(から)にする段階。

 もしかしたら今の一藍のこの息苦しさは、多かれ少なかれ誰しもが感じる必然性のある生命の飢餓状態なのかもしれない。
 呼吸がしづらくても、水の中にいるみたいに外界から少し遮断されているような違和感に翻弄されても、おそらくこうするしかなかったんだろう。

 一藍は深く呼吸する。
 この学校に来てすぐに、一藍は校舎の隅で誰からも忘れられたように静寂に包まれているこの場所を猫なみの本能で探し出し、昼のひとときの居場所にしていた。
 好きなだけ見上げる空とか瞳の中に自然に飛び込んでくる緑のゆらめきとか、今の自分に不足しているものを補う時間。今までは欠ける、という感覚こそが欠けていたんじゃないか?

 
 一藍が一人革命みたいに「日本で暮らす」宣言をしたとき、湖に小石を投げ込んだあとの波紋のようにささやかに動きが生まれ、一藍の周りで生きていた数名が本人より先にここに生活の拠点を移した。
 一藍自身が一人で異国で生きていくつもりで動き出したことでここまで大きくさまざまなことを変化させてしまった。
 それぞれはいたって平然と淡々と以前から日本で暮らしていたように新たな生活を始めたことに一藍は驚きもしたし罪悪感さえ感じてもいた。
 でも日本で生活するための学校関係の手続きとか日々の食事の準備とか日本の高校生になるという人生初めての体験をする中での日々の心の揺れの手当てだとかを一人で賄えるはずもなかった。

 今なら分かる。
 家族に対する感謝も遅れてじわじわと生まれてくる。
 自分は本当に子どもだったんだ。
 こんなふうに自分がちょっと弱っているのを認められているだけ、今はいいかもしれない。


 ありがと、神様。


 そう心の中で呟いて、空を仰いで実際に目を閉じて心を全開にしたタイミングで一藍の上に静かな声が降ってきた。

「何してる?」

 閉じていた目を開けて真上を見る。
 黒髪と黒い瞳が見える。
 白いシャツに縫い付けられた襟の青色のラインが見える。
 艶のある黒い前髪が揺れるのを見ながらその人を縁取る空が今日はこんなにも青いと一瞬思う。

 そこでふと気付く。

 自分のシャツの襟に縫いつけられた緑色のラインと違う。
 青色だから一つ上の学年の生徒だということ。同時に急に自分の視野に入ってきた映像が久しぶりに鮮やかだという事実。

 真上を見上げていた一藍はいったん目を閉じる。
 俯いて深呼吸する。
 クリアに見える世界が久しぶりすぎてびっくりした。
 祈るように閉じていた身体を起こして右の頬を相手に向けて振り返る。
 唐突すぎて言葉が出てこない。
 言の葉を紡ぎだせない口は閉じかけたまま次の音を待つ。一藍は、そんな無防備な顔を相手に向けている。光と色彩を豊かに(まと)っている彼をみつめる。


 幼いときにこんな顔をして魅入られたように空をよく見上げていたらしい。
 隙がありすぎるからやめるように言われたそんなことを今思い出している。
 誰かにこの表情を見せてしまうのは日本に来て初めてかもしれない。

 どうしよう。紫樹兄(しじゅにい)に怒られる!