新しく気に入った飲み物を知ること。
二人で解く問題。
自分には分からない言語で溢れる感情を表現する時のわくわくした顔。
その刹那に自分にも伝染する沸き立ち。
これが今日一日だけだと思うと、足りない気がする。
一藍不足。
雨降りの日に相手から言われたことと同じ欠乏感。
(一藍風邪がうつってる)
一人だけで試験勉強をするのに慣れていた蒼空の組織が細胞レベルで徐々に組み換えられていく。
誰かと時間を共有することを喉の渇きのように求めている。
この感覚に蒼空は少しずつ慣らされてきている。
ほうじ茶の煎じ方を美鈴に教えてもらったと目を輝かせて戻ってきた一藍と、さらに二時間ほど集中して勉強をした。
その後、自宅と波佐美酒店の裏にある古い蔵に一藍を連れていった。
蒼空が幼い時から自分の隠れ家のようにしている蔵は、今でも現役だ。
搬入された日本酒、洋酒の類が適切な保管ができるように、手前の部分は改装されてワイナリーのカーブのように整えられている。
この蔵の手入れと管理は母が担う。
母自身も実家が京都伏見の「波の蔵」という老舗の酒蔵なので、父と知恵を出し合いながら波佐美酒店を支えていた。
奥まで歩くと蒼空だけの場所が小さく手つかずのまま残されている。
電燈がなく、漆喰の壁が少し崩れかけている。
明かり採りからの光が届かない部分に小さな棚が作られていて、そこに古い本が数冊並べられていた。
「この本。一藍に最初に会った時に俺が浸ってた世界があるって言ったでしょ。これ」
蒼空が小さくて薄い古本を一藍に手渡した。
Le ciel bleu, vertiges et toi
蒼空が唯一喋ることのできるワンフレーズ。
一藍の国の言語。
波のように流れる言葉。
全てが日本語で書かれた本の最後のページに、この原題が書かれてある。
翻訳者の意図なのか、きちんとカタカナで読みのルビが振られていたので蒼空はこのタイトルを覚えることが出来た。
一藍はしばらく黙ったまま表紙を眺めていた。
『青空の下で彷徨って』の作者はジュール・サティ。
小さな版元で刷られたような素っ気ない装丁の本だが、古いもの好きの一藍の手のひらの中では格式高い本のように、そして居心地良さげに収まっているように見えるから不思議だ。
一藍は優しい手つきでめくっていく。
短い物語だから直ぐに最後のページがくる。
裏表紙の裏側の右隣、何も書かれていないはずのページを一藍はじっと見ていた。
「蒼空、ここに字が二文字書いてある」
一藍がこちらに顔を向けて問うてきたので、身体を近付けて手元を覗き込んだ。
「あぁ。青島。ひいじいちゃんの名前だよ、苗字。親父が青島って名前なんだ。だからもしかしたら俺も青島って姓を名乗っていたかもしれない」
一藍はそれを聞くと、息遣いを感じる距離にある斜め前の蒼空の顔を見た。
「一藍はこれからわかってくると思うけど、日本では夫婦は結婚したら大概男の戸籍に入って夫側の名前になることが多いんだ。うちぐらい?親父が母さんの苗字に変えたの」
一藍がよく分からないという顔をして、また手元の本に目を落とした。
「また説明するけど。母さんが結婚する前に私は名前を変えたくないって言ったみたい。どうして女性ばかりが名前を奪われてしまうのかって。日本は婚姻制度の中で家族になろうと思ったらおんなじ姓になるしかないんだ」
蒼空は一藍の手の中にある本を右手に取って、改めて原題が書かれたページとその真裏のページに書かれた曽祖父の手書きの二文字を見た。
「波佐美って姓は気に入ってるんだ。でも俺、消えていった俺に繋がる家族の名前も愛しくて。だいたい日本では母方が消えていくよね。青島になることで消えたのは辻村、ばあちゃんの姓ね。全部は掬い上げられないけど、このひいじいちゃんは俺にとって何故か特別でさ。青島って姓が繋がらないのはなんかさみしくて。だから大人になったら青島って姓に変えることを、時々夢想してる」
ここまで黙って蒼空の語りに耳を傾けていた一藍が慌てて蒼空を見上げる。
「待って」
「ん」
「誰が?」
「俺が」
一藍が複雑な表情を見せた。
「それって」
「うん」
「青島って名前の女か男を見つけたら、蒼空がその人と結婚して名前を変えるってこと?」
「え?」
蒼空は一藍が放った言葉が意外すぎてかなり慌てた。
「ごめんなんでそうなった?」
「日本では結婚する時に苗字が変わるんだよね。蒼空は青島って名前に変えたいからその苗字の男女に出会ったら」
「違う」
蒼空は誤解を解くべく一藍の口元を左手で覆ってすぐに答える。
あ、これ前に一藍にされたやつ。
「まず、日本では同性同士では結婚出来ない。って名前変えたいからだけで結婚するつもりなんかないし。…いやそうじゃなくて」
一藍の空色の瞳は暗い蔵の中で紺色に見えた。
蒼空は一藍の唇に触れた左の手のひらを、離せないでいた。
「もともと親父の姓だから、母さんと結婚したままでも青島に戻すことは親父はできる。親父だけね。俺が変えようと思ったら親父の姓を残したいという特別な事情を家庭裁判所に申請して手続きすることになりそう。決めたわけでもないけどこうやって調べてるくらいは、まぁ。気にはなってる」
一藍はゆっくりと瞬きをして呟いた。
「自分でも子どもっぽいこと言ったと思った」
言葉と共に吐き出された一藍の温かな息を手のひらで受け取めてから、蒼空は蔵の暗闇の中に左手を降ろした。
「あと。この作者の名前。俺と同じだ」
「え?一藍と同じってどこが?」
「Jules 。お母さんがつけてくれた名前。栗栖Jules 一藍って長いから、普段は省略してるけど」
「ジュール…」
名前にまつわる互いのあれやこれやが交錯する。
外はもう、すっかり暮れているかもしれない。
「この距離感と蔵の中ってシチュエーションがいいね。ビズしてもいい?」
「一藍…」
「“蔵の中での背徳感”って言葉も知ったばかりだし」
「一藍〜。背徳感って…フツーの高校生は使わないよ…」
「蔵の中と外で、どう違うか比べてみる?」
一藍がそう言って顔を寄せてきた。
急展開すぎる。
ストレートすぎる。
そして一藍の仕草が可愛いすぎる。
鼓動が高なって一気に頬に熱が集まったけれど、蒼空は自然に体を寄せてしまった。
ゆっくり目をつぶった一藍を見て、蒼空も瞳を閉じる。
前回のことはあまりよく覚えてなくて。一藍不足だった自分の欠乏感を埋めるために少しだけなら…と己に言い聞かせる。
互いが同じ希求を持って、唇を寄せた。
そんな優しいキスだった。
前回のことをノーカンにするなら、ファーストキス。って言っても前回の相手だって一藍なわけだけど。
ふんわりとほうじ茶の香ばしい香りがした。
(一藍、唇が冷たい)
多分、10秒も触れていなかったと思う。
蒼空が心臓が波打つ躍動に耐えられずに目を開けて唇を離すと、一藍がねだるように蒼空の下唇に優しく噛みついてきたので「わ!」と声を上げてしまう。
口元を押さえて目を見開いている自分とは対照的に、一藍は涼しい顔でそっと笑った。
(一藍…実は小悪魔?)
さっきから心臓のビート音が半端ない。
現れた一藍の口元を見てまたそこに触れたくなった夕暮れに似つかわしい気持ちは、蔵の中に置いておくことにした。



