初めて来た蒼空の家の階段を駆け下りていく。
 1階に降りると食卓があり、美鈴は端にある台所に立っていた。
 一藍は静かな声で話掛けてみる。

「美鈴サン?」
「はい」

 美鈴が驚いて振り返る。
 蒼空が小学生の頃には身長を追抜いていると思われる小柄な美鈴は、肩までのボブと眉上の前髪のせいで母親というより年の離れたお姉さんのようだ。
 一藍もどちらかというと男子にしては小柄な方だったが、ちょうど伸びる時期なのか春から三cm高くなった目線は美鈴を少し見下ろす角度だった。
「美鈴さんって呼んでくれてありがとう」
「うん」
「お茶無くなった?もっと淹れる?」
「うん、とても美味しいお茶だった。どうやっていれたか見せてください」
「いいよ~」
 美鈴は湯呑みと茶葉を用意しながら、一藍を手招きして歓迎した。
「あなたくらいの男の子がそんなこと言うなんて可愛いじゃない。ほうじ茶気に入った?」
「うん、すっごく良い香りがした」
「香ばしいでしょう」
 美鈴は目を輝かせ、一藍の顔に自分の顔を近付けて笑った。
「お目が高い!これとっても良い茶葉なんよ」
 美鈴が一藍の鼻先で茶筒を開ける。それを銀色の容器に移してコンロの火にかける。
「これ焙烙(ほうろく)って言って、これで煎じるんだけど。焙煎のことね」

 あたりに豊かな香りが広がる。
 一藍は目を閉じて、胸にこの香りをたくさん取り込む。

「ご自宅に焙烙がなかったら土鍋でもフライパンでも焙煎できるよ。時間は20分くらいかかるけど好きなことじっくりしてたら口角上がるじゃないの」
「こうかくあがるって何?」
「これ」
 美鈴が笑いながら、隣に立つ一藍の両頬を両手で掴んで引き上げる。
「笑顔になるってこと」
「わかったからぁ」
「ふふふ」
 美鈴は一藍の顔を解放して、茶葉を焙烙から湯呑みに手際よく移した。
「煎茶や緑茶はお湯を冷ましてから淹れるんだけど、これは100℃で淹れたらいい。香りが立つようにお湯を茶葉に当てて注いでみて」
「こう?」
「そうそう。30秒蓋をせずに香りを愉しむ。この時間もまた(たま)らないでしょう一藍くん?」
「堪らないね」

 一藍が真横の美鈴を見ると、目を細めて笑っていた。

「一藍くんって」
「うん」
「ずっと見ていたいなぁって思わせる顔してるわね」
「そう?」
「ついついガン見しちゃう」
「それって良い意味?」
「もちろん」
「俺も蒼空の顔をずっと見ていたいって思ってる」
「えっ!そうなの?」
「うん。後ろ姿も」
「へぇ。うちの息子、一藍くんの心(つか)んじゃった?」
「それはもう。掴み取りで」
鷲掴(わしづか)み、じゃない?」
「わしづかみ?」
「そう。一藍くんニジマスじゃないんだから!」

 美鈴がおおいに笑って一藍の肩を叩き続ける。

 一藍と美鈴はこのほうじ茶を淹れる短い時間で、とても距離を縮めた。
 一藍にとって姉以外の年上の女性の側に居て温かい気持ちになるのは、久しぶりのことのように感じた。
 急須から湯呑みに入れる。

「美鈴サン」
「ん?なぁに」
「あなたの大切にしてる蒼空のこと」
「うん」
「俺は蒼空が好き」
「好き?」
「うん。あなたも蒼空と一緒にいたいだろうけど俺もそう。一緒にいたい」
「…ぉお〜」
「どうしたらいいんだろう」
「…一藍くん。私たち似たもの同志ね」
「似たものどうし?」
「そう!蒼空のこと、すっっごくすっごく好きってのが一緒やない?」
「…やない?」
「そうなんよ!胸がいっぱいになっちゃって。お国言葉が出てしまうんよ。許してな」
「国は日本でしょ」
「昔は方言のことをそう言うてたの。私は普段は京都の言葉が眠ってるんやけど、なんでか酔ったら出てきてしまうんよねぇ。今、酔ってへんけど一藍くんの真っ直ぐさに打たれてもぅたわ。もぅ!一藍くん大好き」

 横を向くと美鈴が涙目になっていたので、一藍は言葉を呑み込んだ。
 母が自分の息子をすっごく好き。
 空にいる自分の母も、きっと?
 多分、そう思ってくれてるんだろう。

「美鈴サン。俺も好き。ほっぺたにビズしたら蒼空チチに殴り殺されると思うので心でビズするね」
「…よぅわからへんけど愛が伝わってきたやん。好きやわぁ」
「俺のコンパニオン・ドゥ・クラス・アンとそっくりだ。日本語方言バイリンガル」


 さっきは冷たいほうじ茶を楽しんだから、次は夏でも熱いままで。
 このスモーキーな香りといい、蜂蜜を濃くしたような色といい、シングルモルトのスコッチウィスキーみたいだ。
 ボウモアとほうじ茶。
 こんどグラスに入れて並べてみようか。
 こんな話をしたら蒼空はまた言うだろうか。
 “ 聞き捨てならない ”って。