青柳祭(せいりゅうさい)と呼ばれる高校の学祭は、蒼空の所属する陸上部にはあまり接点がない。
 クラスの出し物で関わればよいだけの蒼空は、この時期がテスト期間とも重なるためにいつもの日常よりは机に向かうことが増える。
 特に今回は五月に大きな地震があって校舎にも一部修復が必要だったり少なからず怪我人が出たという事情により、通常は五月中旬にある中間テストが急遽なくなった。
 そしていつもの期末テストの時期にまとめて広い範囲で実施するということになったのでテスト範囲がかなり広い。
 学祭の準備をする生徒はどちらも同時進行でしないといけないので一部の保護者は勉学に差し支えるのではないかと心配するが、学祭の時期は例年七月に実施されている。

 高校生には高校生の主張がある。
 勉学に励むのも部活動に力を注ぐのも何もしないのも何かをするのも、決めるのは自分だ。
 親じゃない。


「父さん、夕方配達手伝いたいけど夜にする。テス勉するのに今日栗栖が初めて家に来るって言っただろ。会っても店に来る外国人客に言うみたいに、ウエルカムとか絶対に、絶対に言うなよ」

 蒼空が朝の登校前に、自宅隣にある波佐美酒店に居る父親に声を掛けた。

「あぁ?何のことだ。クリス?今日家に来る奴のファーストネームか?」
「栗栖は苗字。今、片仮名の名前思い浮かべただろ?」

 父親が蔵から運んできた日本酒を戸棚に並べるのを、会話の間だけ手伝いながら蒼空は続けた。

「三月までフランスに住んでたんだ。じいちゃんが日本人。ばぁちゃんがアイルランドの出身だって。栗栖は日本語流暢なんだから父さん絶対英語で話しかけないで」

 インバウンドが増えて、町にも外国人観光客がめっきり増えた。
 蒼空の父は気難しそうな見た目とは裏腹に新しいもの好きで社交性が高く、言葉が通じない外国客が来てもジェスチャーとホスピタリティ精神で会話を成り立たせることができている。
 五月の地震で棚に並べていた酒瓶がたくさん割れてしまった時も、空いたスペースを見て「良い機会だから客が試飲しやすいカウンターとかに改装するのもいいかもな」と腕組みをしながら思案していた父だった。
 そんなふうに柔軟で好奇心の豊かな父だから、きっと今後一藍と顔を合わせる機会があれば多いに構いたがるだろう。
 一藍がドン引きしなければいいのだけど。



 一藍と自宅でテスト勉強をすることになったのは、雨降りのためにグラウンドでの練習がなくなった日に青柳館の廊下で一藍と交わしたやりとりがきっかけだった。
 蒼空は雨の匂いと共に思い出す。


「テスト前って部活ないの?」

 一藍がかなり驚いていたから蒼空こそ驚いた。
 中間テストが中止になったことで一藍にとって日本でのテスト期間が初めてだということにやっと気付いた。

「そう。部活動より勉強が優先される1週間があるんだ。ってなにその顔。一藍テスト怖い?」
「テストは怖くない」

 一藍がストレッチをするために廊下に身を屈めていたが、少し拗ねたような顔付きになった。
 蒼空はそれを見逃さなかった。

「部活したかった?」
「部活がないなんて世の終わり」
「おおげさ」
「蒼空が足りなくなって勉強も無理」
「ビタミン不足みたいな言い方して」

 斜め下のコンクリートを睨みつけている青い目が、歩み寄った蒼空自身の影で深い海の色になった。
 四月の一藍の瞳の色。
 一藍は婉曲な言い方をしないから、意図を汲みとって動こうとすれば自然と物事が早く進む。

「一緒にテスト勉強する?学年違うけど」

 蒼空が言うと一藍は顔を上げる。
 驚いた表情のまま、ゆっくりと頷いた。


 普段は歩いて33分で自宅に着く。
 タイムをきっちり測ってしまうのは陸上部の(さが)なのかどうか。
 自転車や電車で通学している生徒が多い中で蒼空は高校の近くに家があるため、登校で時間を取られないぶん父の酒店の手伝いをすることができている。
 一藍と一緒に帰った日は44分。
 道を横切る猫に一藍が話しかけたり、この時期が一番みずみずしいユリノキの短い並木を見せたくてわざわざ一筋向こうを歩いたりして。


「一藍いちどだけ6限さぼって俺の教室で過ごしたことあっただろう」
「さぼってない。蒼空見ながらちゃんと授業も受けてた」

 蒼空の6畳の部屋で、二人で向かいあってテスト対策にそれぞれ取り組みながら額を近付けて会話をする。
 授業といっても一藍は一学年上の授業を急に受けていたわけだけれど。

「うん。授業も聴いてたんだなって後でわかった。最後にした抜き打ちテスト、無記名だったの一藍だろう?解けるハズないって面白半分で最後に入れた問題を解いてる生徒がいるって。それが誰かわからないって服部先生が珍しくこだわるもんだからしばらく教室がざわついてた」
「文章題じゃなかったから。問いが数式だけで示されているほうが簡単」

 一藍がこともなげにそう言うので、遠慮なく数学と英語は教えてもらった。
 その代わりに一藍が苦手だという現代文・古文・漢文は蒼空なりに一藍が理解できるように嚙み砕いて説明する。 
 いつも以上に熱心にテスト勉強をしていたときに蒼空の母がノックをして部屋に入ってきた。

「一藍くんこんにちは。蒼空の母です、よろしく」

 蒼空の母が短く一藍に挨拶をした。
 盆に載せたお茶と和菓子を二人の中間に差し出す。
 そしてすぐに階下に降りていった。

 一藍は差し入れられた冷たいほうじ茶を飲んで感銘を受けたようだった。
 和菓子を口に運ぶ蒼空を見て、一藍も真似をして一口かじる。
 好みだったようで嬉しそうに蒼空の理解できない言葉を口にしたあとに立ち上がって尋ねてくる。

「蒼空ハハ、何て名前?」
「母は美鈴って名前だよ」

 蒼空が教えるとすぐに一藍は廊下に出て叫んだ。

「みすず~」
「一藍待て」

 蒼空は度肝を抜かれて階下に降りていこうとする一藍の服の裾を掴んで言った。

「日本じゃ知り合いの親の名前を呼び捨てにして呼ばないんだ。教えてなくてごめん!」

 そこまで一気に言うと一藍が立ち止まってくれたので、蒼空はほっとした。

「敬称をつけるんだ。一般的にまるまるさんのお母さん…って言うけど。一藍には馴染みなさそうだな。さん付けしたら大丈夫。美鈴さんって呼んであげて」
「まるまるさんって誰?」

 蒼空はノートを用意して「〇〇」「美鈴さん」と書いて丁寧に伝えた。
 今ではこういう時間が当たり前になり、一藍は最初に会ったときよりも徐々に自然な言い回しで会話できるようになってきている。
 その過程を知ることができるのはとても面白い。

「俺の母親に聴きたいことあった?」
「うん。このお茶の淹れ方と、Et puis(エ ピュイ)...この和菓子が、どこで手に入るのか」

 どら焼きってそんなに感動する美味しさ?
 一藍って、すごく綺麗な顔してるけど。
 心はドラえ◯んと瓜二つ?
 そういう疑問が素朴に浮かんだけれど、蒼空は丁寧に一藍に教える。

「この和菓子を売ってる店は帰りに教えるよ。小鉄さんの迎えの車を待ち合わせしてる場所の近くだから」

 一藍は頷いて、「美鈴サ〜ン」と言いながら部屋を飛び出して階下に降りていった。

 扉が閉まる直前に一藍の金色の髪が揺れているのが見えて。
 蒼空は初夏の木漏れ日みたいだと思った。