今では、一年一組は静かなクラスだと思う。
 もちろん賑やかな会話も女生徒が踊るために流している曲も教室に溢れてはいるけれど、一藍はその音を煩わしいと思わない。
 四月に教室で一人で過ごしていた時は溢れ出す音が一藍を攻撃してくるように感じて、意識して呼吸を深めないと音に溺れそうになった。
 でも今は仲良くなった城田裕樹を通じて五人で過ごす時間が増えたことで、不思議なことにクラスメイトと話せば話すほど騒音は退き、凪いだ空間になっていった。

  アン 城田裕樹
  ドゥ 奥村暁人
  トロワ 朝川元貴
  カトル 山崎聡

 一藍は心の中でクラスメイトを数える。

 小さな時は同じ年齢の友達がほとんどいなかった。
 歳の離れたきょうだいといる時間が安心したから、友達がいなくても気にはならなかったという理由もある。
 成長してからは交流する同級生も出てきたが一藍は好きな相手とそうじゃない相手がかなりはっきりしている。
 同じ年齢で仲良くなれそうと思った時、そんな稀な相手の数を数えてしまう一藍の変わった癖は、十五歳の今でも残っていた。
 親しくなりたいと思う相手はファーストコンタクトで身構えないでいられる。
 それ以外に一藍は背中を向ける。
 それでも日本に来てからは、他者との関係を柔軟に変えていけるようになったと思う。
 黒色だと思った相手の色が徐々にグレイになり、さらに白い色に近づいた上で他の色を重ねて、そして別の色彩に染まっていく感覚。


「城田はさ、最近喋り方変わった。前よりなんかいい。親しみ増した」 

 朝川が弁当を食べながら、斜め前の城田を箸で指しながら言う。
 一藍の机の周りに緩く集まり、昼ご飯の時に五人が顔を揃えるのがいつの間にか自然になっていた。

「僕もそう思ってた。なんていうの郷土愛っていうの?日本は狭いようでもほんと風土も言葉も違うから。その地域の特色が滲みでてるものってすんごく魅力あるよね」

 山崎が同意する。
 おっとりと喋る山崎は、日本史と民俗学と遺跡がたまらなく好きなんだと最初に一藍に教えてくれた。
 眼鏡の奥の目を優しく細めて城田に声掛けした後、目を閉じる。前に一藍に熱く語っていた山城の石垣を想っているのかもしれない。

「栗栖がさ。今の髪と目の色になった時に」

 城田が弁当を左手にしたままゆっくりと喋り出すと、口数少ない奥村を含めて皆が揃って一藍を見た。

「いいなと思ったんだ。もともと持ってるものを見られても大丈夫っていうのが。栗栖が凜として見える。俺はずっと喋る時は周りに合わせてたからこの話し方が馴染んでるけど、不思議に頭ン中では前の話し方してて。で、それを時々出してもいいんやって。元の播州弁やと言いたいことがどストレートに話せるねん。だから今は標準語と方言をいったりきたり。これってバイリンガルなん?」

 城田が真面目に皆に問うと、あまり喜怒哀楽を見せない奥村が細い眼鏡を外して目を押さえながら俯向いた。

「奥村?」

 側にいた一藍が下から奥村を覗き込んでみる。
 たまにしか上がることのない奥村の口角が上がっているのと、細い手の平の間から切れ長の目が三日月型に揺れて長い睫毛が震えているのが見えた。
 声を出さずにしばらくその姿勢でいたが、顔を上げて眼鏡をつけたとたんに何事もなかったかのように涼しい表情をしている。 

「俺なんか恥ずかしいこと言ったか心配…」
 城田が小さな声で言って卵焼きを口に入れる。
「そんなことない。全くない」
 奥村はきっぱりと言い切る。
「恥ずかしくなんかない。もっと、城田のど真ん中の話をしてほしい」
 奥村の言葉に、卵焼きを咀嚼中の城田が真面目に頷く。
「どストレートに話せるって言ってたぜ、城田は。ど真ん中とどストレートはちょっとニュアンスが違うだろ?」
 朝川が奥村に異議を申し立てた。
「どっちでもええやん…」

 朝川は言語を愛して止まない人生だと公言している。
 好きな科目は現国と英語。古文や方言、新しく日々生まれる言葉だけではなくラテン語由来の言語にも関心があると言う。トリリンガルになりたいと常にこのメンバーに言っているので、それが先程の裕樹のバイリンガル発言に繋がったんだと思う。ESS部に所属しながら朝のNHKラジオ講座で初級イタリア語を学んでいるが、今は一藍にフランス語を教えてほしいと言ってきている。
 陸上部に入った一藍だけが体育会系で、あとの四人は天文部、歴史考古学部、ESS部、帰宅部とそれぞれ違う。
 お互い違うことに関心があって、互いに関心を持つ五人だった。



 グラウンドが使えない雨降りの放課後。
 剣道部が練習する青柳館(せいりゅうかん)の廊下で短縮練を終え、一藍は蒼空の傘に入れてもらい、迎えの車まで一緒に歩いてもらった。
 小鉄の車で登校した今朝は快晴で、折畳み傘の用意をしていなかった。
 隣を歩く一学年上の蒼空に初めて出会った時、蒼空は空にいた。
 正確には、一藍が座ったまま上を見上げた先にそれらがあった。
 その時から、一藍はこれらの空と自分は離れられないと悟っている。

 この空の名前を持つ上級生と言葉を交わす時にもっと深く相手を理解できるよう、日本語を今以上に理解する学びの努力は惜しまない。
 姉の朱里が部屋に置いているファッション誌でさえ今の一藍には教科書のように貴重に思う。

(でも)

 一藍は朱里の部屋で感じた、あの突き動かされたような衝動を思い出す。

(相手の色に染まるのは嫌だ)

 『好きな相手の色に染まるために無垢な白を…』と、そこまで読んで雑誌を投げつけてしまった自分の荒々しさを。

(俺は自分の色に相手を染めたい)

 同じような色を名前に持っていると言ってくれた相手の心やこれからの時間を、全部。


 蒼空のさす傘が通りすがりの家の庭の木に当たり、水無月に咲く白い花が足元に散ったのを一藍は見た。
 自分の中にこんな底の見えない渇望があるだなんて。

 形の崩れた白い花弁を一瞬鋭い目で見てしまったこんな自分も、横を歩くこの優しい人は肯定してくれるのだろうか。