放課後の教室で強い揺れに襲われた時、蒼空は恐怖を感じなかった代わりに、一藍が人生初めての地震に怯えていないかが心配でたまらなかった。
揺れがおさまった教室を飛び出して蒼空は一年一組まで走り、一藍のクラスに初めて足を踏み入れた。
横倒しになったロッカー。
教壇の下に落ちている掛け時計。
数名の生徒がまだ机の下に潜りこんでいた。
一藍はいない。
でも、一藍が友達だと紹介してくれた城田を見つけた。
「城田!一藍知らないか」
城田が机の下から出てきて叫ぶように言った。
「もう部室行ってます!」
蒼空は途端に青ざめる。
あの木造、この揺れに耐え切れるか?
何だって今、このタイミングでこんな大きな地震が来るんだ。
「ありがと」
短く答えて城田の返事も背中で聞き、蒼空は生まれて初めて限界すれすれの速さで廊下を走った。
蒼空が昇降口を飛び出して陸上部の男子部室を視野に入れた時、心臓が凍りついた。
女子部室が変わりなく存在している隣で、男子部室が半壊していた。
「一藍!」
蒼空は声を張り上げて部室まで突っ走った。
(どうかどうかこの中にいませんように)
蒼空が神様的な存在に祈るのは珍しいことだった。
木造の部室がドミノを倒したように、かつては壁と屋根だった重量のある木材を無慈悲に杉綾柄に並べている。
一藍の更衣ロッカーがある辺りで、蒼空は部室の梁を担っていた檜の木材が落ちた下に、腕だけが 大木にからむ蔦植物のように伸ばされているのを見た。
「……一藍?」
蒼空はここまで苦しくなる心を経験したことがなかった。
地震で飛び散ったガラスの破片が遅れたタイミングで、今、蒼空の胸に食い込んだんだと勘違いした。
一藍が入部してすぐに五千メートルを陸上部全員で軽く走った時、背中で聞いた一藍の言葉。
あの時の会話が蘇る。
「俺はあの部室好き。森の中にいるみたい。古いものって時間を経ただけ価値があると思う」
「一藍なんかウィスキーのコマーシャルみたい」
「ウィスキーも年代ものは旨い」
「なんか聞き捨てならない」
「聞き捨て…なんて言った?」
「この意味はまた練習のあと」
「すぐに教えてくれなきゃ忘れちゃう」
「いや未成年の発言を吟味しなきゃ」
「ぎんみって何?」
「それも教えるから。酒屋してるうちの親父みたいなことさっき一藍言っただろ」
「お父さん酒屋?」
「うん。うち酒屋。あ、一藍が好きそうな古い蔵も裏にある」
「蔵がある家って、城?」
「なわけない」
あの時に蒼空が笑って振り返ると一藍も笑った。
蒼空の目を見てから視線を上げて眩しそうにしながら頭上を見上げた。
また空見てる。
つまずくなよ。
その時蒼空の後で連なって走っていた陸上部員の映像が浮かぶ。
皆が前を向いて走っている中で先頭の一藍が上を見ている光景。
三㌔ほど走りこんでいるのに乱れない一藍の息。
蒼空はその時の記憶に浸ったまま、これが現実逃避なんだと頭の隅から冷静な思考が広がってきて、倒れた更衣ロッカーと材木を跨いで横たわった白い腕に近付いた。
自分の手が震えているのを沈着冷静なもう一人の蒼空が見ていた。
被さっていた檜を持ち上げる。
一藍が左のこめかみを朱く染めて目を閉じたまま動かずにいるのを見て、蒼空は自分の血が冷たくなったように感じた。
「一藍。一藍」
何回一藍の名前を呼んだか分からなくなるくらい、蒼空は一藍の耳元に顔を寄せて名前を繰り返す。
一藍は着替える途中だったようで上半身だけ何も身に着けていない。
蒼空は自分の制服を脱いで、目を開けずにいる一藍の腕を上げて自分のシャツを身に着けさせる。
右腕の中に一藍を抱え込んだ時に一藍が少し震えた。
「蒼空がいる」
一藍の言葉を聴いて、蒼空は地獄から天国に瞬間移動したような心臓の跳ね上がりを体感した。
「一藍早く目を開けて」
蒼空は一藍に懇願した。
生きているのを実感するためには相手の瞳が自分を捉えるのを見なきゃだめなんだと初めて知った。
「俺このままこうしてたい」
「俺は一藍抱えて部室の外まで運びたい。その前に目。開けて?」
「このまま蒼空の腕の中にいたい。そうしてもらえるんなら死んでもいいって思う」
「そう言うの今やめてほんと無理。早く目ぇ開けろ」
蒼空は瞳を閉じたままの一藍を、今度は落ち着いて頭から足先まで見てみた。
額の左側が切れて出血しているのは更衣ロッカーの鏡にぶつかって切れたのかもしれない。
一藍の身体の下に鏡の破片が散らばっている。衣類で隠されている部分は分からないけれど、おそらくこめかみ以外は切っていないだろう。
服を着せる時に右腕も血で染まっていたのを見た。
それは怪我をした額をとっさに守ろうとして自分を抱きしめる体勢をしたからだと思う。
「一藍。なんで目、開けてくれないの?」
蒼空は自分が情けないくらい必死で、子ども時代に連れ戻されたように心許なくなっているのを感じた。
とりあえず一藍を部室の瓦礫の中から連れ出そう。
蒼空が気持ちを切り替えて一藍を抱え込もうとした時に背中から見知らぬ声がした。
「世話になってすまない」
蒼空が一藍の頭を膝に乗せたまま上半身だけで振り向くと、サングラスをかけた筋肉質の大きな男が逆光の中でそびえていた。
「え?」
蒼空は相手にビビるってこういう気持ちかと、冷静にまた自分を観察していた。
「Jules, pourquoi es-tu allongé comme si tu étais mort ?(おまえはなんで死んだみたいに横たわってるんだ?)」
男が流れるように低い声で言った。
「Maintenant, marche vite et monter dans ma voiture(さっさと歩いて車に乗れ)」
一藍の声と違う流れるような音に、蒼空は一藍の家族がフランスのブルゴーニュ地方に今も住んでいること、日本に先に姉と兄が住んで本人を迎えてくれた話を一藍が聞かせてくれたことを思い出す。
でもこの男性は兄弟って年齢じゃない。
「J'aurais aimé rester comme ça...(こうしてたかったのに)」
一藍が小さな声で囁くように言ったのを合図のようにして、男が歩み寄ってきて無造作に一藍を担ぎ上げた。
男は自分の右肩にやすやすと一藍をぶら下げる。
一藍の投げ出された二本の脚を荷物を抱えるよう右手で押さえて、蒼空をもう一度見る。
無言で首だけ動かして会釈してから、ゆっくりと一藍を抱えて歩いていく。
男の背中側で一藍が逆さまになって横顔を向けているのが小さく見えた。
まだ、目を閉じたままで。



